小説「モノクロームのバス停にて」
有原野分
モノクロームのバス停にて
田舎の実家に帰省するために、私は長い間、高速バスに揺られていた。到着まであと一時間。バス停には両親が迎えにきてくれる約束だ。ちらりと腕時計と外の景色を交互に眺める。まだ時間はある。私は少しうたた寝をすることにした。そして、夢をみた。
夢のなかで私は、あるアパートの一室にいた。時刻は真夜中。女の声が外から聞こえる。私はベランダに出て暗い道路を見渡す。と、道路を挟んで私側に二人の男女、反対側に一人の女。その三人は道路を挟んで、別れの言葉だろうか、大きな声で話している。ふいに、反対側にいる女が三階にいる私に気がついたのか手を振ってきた。そして、なぜか上着を脱ぎはじめたのだ。……下品な女だな。そう思いながらも、私は手を振り返していた。女に会いに外へ。作り笑顔で女を部屋に連れ込む。
ワタシダッテ、オトコナンダ。――
――朝、目を覚まし、女を車で送ることにした。家をでると、そこは実家のある見慣れた景色。私たちはいつのまにか田舎にいたのだ。私はとりあえず、不安な気持ちで車に乗り込んだ。
昨晩飲みすぎたせいか、頭がクラクラする。また、浮気をしてしまった焦りか、周囲がよく見えない。車内は沈黙。しばらくしたら、女がポツリポツリと口を開いた。
「……じつはワタシ、家がないの……」
私はドキッとした。
「……施設に入っているの。……病気なの……。言わなくてゴメンナサイ」
そう言いながらも女はちっとも悪びれる様子はない。
「……聞きたい?」
私は全身を硬直させながらうなずいた。
「……薬に手を出したの。それからは……売春の繰り返し。とうとう、病気をもらっちゃって、施設送りに……。両親はいないから、気は楽だけどね」
女はひょうひょうと言った。まるで自慢をするかのように。
「……でね、この病気……、感染するの」
車を急停車する。反動で女が唾を飛ばした。全身から嫌な汗がにじみ出てくる。混乱、思考の麻痺、手足の震え、女への怒り、自分への後悔――。ふり絞って声をだす。
「……それは、いったい、なんの病気……」
女の口角が少し上がった。私は殴りたい衝動に駆られたが、ぐっと唇をかみしめた。
「なんだったかしら。……なんとかHIVよ」
……嘘だろう――。
女はSL-HIV(時空型遅行性免疫不全症)かもしれない。感染するとHIVはもちろん、時空を超えて過去三カ月以内に性交をもった相手にも感染する恐ろしい病気だ。さらに潜伏期間は長いのに、発病したら一週間前後で死にいたる。……マズイ。彼女(付き合っている女性)にうつしてしまっている。ああ、最悪だ。汗と震えが止まらない。浮気なんてするんじゃなかった。くそ……。
とにかく、まずはこの女を施設に送らなければ……。ふらふらしてまともに運転なんてできないが、急がなくては。事故を起こさないように、歩道に乗り上げないように、慎重に……。施設についたら覚えとけよ。いや、まずは感染の有無だ。急ごう。
私はそこでふと、夢じゃないかと思い、手の甲を抓ってみた。……痛くない……なんだ、夢か、アハハハハ……。
カーブにさしかかる。目の前に海が広がった。果てしなく青い。私は目を奪われてしまった。その瞬間、ドカッという音とともにハンドルがきかなくなり、私たちを乗せた車はまっさかさまに海に落ちていった。なぜだか恐怖より、羞恥心が勝っていた。
私はもがきながら車からはい出て崖をのぼった。すると目の前は大通りで、すぐ前が運よくバス亭だった。腕時計を見るとちょうど一時間経っている。なにげない顔でバスを待っているふりをしていたら、ちょうど両親が迎えに来てくれた。私はびしょ濡れの服のまま車に乗り込むと、そのまま家に帰り風呂につかってご飯を食べた。
そして夜になった。布団に入る。私はこれが夢の中だなんてとても信じられなかった。気分が悪い。おそるおそるもう一度手の甲を抓ってみる。……ん、痛いぞ……。つまりいまは現実なのか? いったいどこから……。あの女は……それに、……病気の件は夢だったのだろうか。
果たしていまはどっちなのだろう。このまま寝てしまってもいいのだろうか。
けっきょく、私は眠りにつくまで夢か現実か分からなかった。どこかに、夢と現実との境界線があったのかもしれない……と思いながら、私はすべてが夢であることを切に願い、やむをえず眠りについた。
小説「モノクロームのバス停にて」 有原野分 @yujiarihara
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