第4話 亀裂

 小夜に彼氏ができたのは、大学三年生の夏だった。

 小夜は昔から男子に人気があった。漆塗りのように艶めいた黒髪がなびくと、甘い香りがふわっと漂う。少し目尻の下がった眠たそうな瞳から放たれる視線には、彼女のためなら全て投げ打ってもいいと思わせる魔力があった。背はすらっと高く、脚はすっと長く、膝丈のスカートが誰よりも似合っていた。薄桃色の唇からこぼれる声は思いの外ハスキーで、その柔らかな物腰からは想像できないほど凛とした響きには、有無を言わさない説得力があった。

 つまり他を寄せ付けない美しさと冷たさを持つ高嶺の花だったのか、というとそうではない。これだけ美人としての要素を揃えながら、小夜の表情や言動はどこか抜けていて、隙だらけで、全体の雰囲気としてはとても子供っぽく、あどけなかった。その全てが可愛かった。だから何人もの男たちが小夜に告白したし、その全員が玉砕したのだった。

「今は、遥と一緒にいるのが一番楽しいの」

 正面からそう言い切ってくれる彼女の気持ちが嬉しかった。けど単純に、まだ色恋沙汰にピンときてないだけかもしれない、とも感じていた。それに何より、「今は」という言葉が、小さな針になって私の胸に刺さっていた。もちろん、悪気があって出た言葉ではない。けどいつか、私と一緒にいることが一番ではなくなる日が来るのだろうと思った。仕方ないと思っていた。

 私たちは同じ大学に進んでいた。高校は「同じところに行こうね」と言って示し合わせたけれど、大学は違う。二人とも学力は近かったし、将来の展望も特になく、県外に出るつもりもなかった。そのうえ実家から通える大学となれば、同じ大学を選択するのは自然なことだった。もう二十年近い付き合いになっていた。

 大学生ともなると、さすがに四六時中一緒にはいられなかった。学部も違うし、サークルも違うところに所属していたし、アルバイトも別々の場所にしていた。私はテニスサークルに所属しながら日雇いの派遣バイトでパッと稼ぐタイプだったし、小夜は家庭科サークルに所属しながら駅前の小さな書店で働いていた。家庭科サークルとは、料理を中心に裁縫や編み物、ガーデニングなどを勉強する、女所帯のまじめなサークルで、私にはとても合いそうになかった。そういうことが嫌いなわけじゃない。ただ、昔から家の中での作業より、体を動かす方が好きだった。少数だが男子も所属しているという話は、あまり気にしないようにしていた。

 二人で過ごせる時間は減ったけど、共通で選択できる講義は一緒に受講したし、昼食もできるだけ一緒に食べた。食堂で食べることもあれば、小夜がサークル活動で作った料理を分けてもらうこともあった。時間が合えば一緒に帰った。共通の友達も、それぞれの友達もできたけど、相変わらず、お互いが一番の友達だった。

 何事もなく二年が過ぎ、私たちは三年生になった。ここまでくると、一緒に行動できる時間はさらに減っていた。三年生ともなると共通の講義も少なくなってくる。サークルでの立場もできあがり、人付き合いが増えた。昼食を一緒に食べる時間も、二人で帰るタイミングも減っていた。毎日なにかと顔は合わせていたし、連絡も取り合っていたけど、昔と比べれば、私にとってほとんど疎遠と言っても差し支えないほど、二人の時間は減少していた。

 それはその年の、8月の夕方のことだった。まだ沈みそうにない夕日が空を赤く染め上げていた。一日中暑かったせいか、未だにアスファルトや風の中に熱がこもっていた。生ぬるい風から逃れるように、私と小夜は大学の近くにあるファミリーレストランに入り、早めの夕食をとっていた。小夜は涼しげな水色のワンピースの首元をぱたぱたとあおいでいる。二人でご飯を食べるのは久しぶりで、そのうえ二人が二十歳になってから初めて一緒に食べる食事だった。

「二十歳になったら、初めてのお酒、一緒に飲もうね」

 そんな約束をしたのは、中学生二年生の時だ。

 前菜をいくつかと、グラスワインを頼んだ。私が赤、小夜が白。真っ先に運ばれてきたワインを持って、二人で笑いあいながら乾杯した。

「二十歳おめでとう。乾杯」

「小夜もおめでとう。乾杯」

 誕生日を迎えてからひと月ほど経っていた。二人の誕生日と、初めてのお酒記念の食事会だった。

 しばらくは近況報告が続いた。講義のこと、ゼミのこと、サークルのこと、バイトのこと。初めてのほろ酔い気分で、二人とも饒舌だった。小夜は二杯目から水を飲んでいたけど、私は二杯目に白ワインを頼んでいた。前菜もパスタも食べ終わり、最後に注文したデザートを待っている時、小夜がおもむろに口を開いた。

「遥。言いたいことがあるの。聞いてくれる?」

 そう言いながら、小夜はまっすぐ私を見つめた。嫌な予感がした。小さな手に心臓を直接鷲掴みされているような感覚があった。だからこそ、聞かなきゃいけないと思った。

「なに、改まって」

「えっと、えっとね」

 言い淀む小夜は珍しかったけど、何を言おうとしているのか予想できた。ただ、恥ずかしがっているというより、言いにくそうに見えた。なぜだろう。パッと言ってしまえばいいのに。

「今ね、付き合ってる人がいるの」

 グラスにわずかに残った白ワインを飲み干した。喉が熱い。酔いを醒まそうとしている風を装って、長く息を吐いた。

「サークルの人? バイトの人?」

「サークルの人。サークルに入ってすぐに仲良くなったの。遥には、一番に言いたかったの」

 目を閉じ、右手の親指と中指でこめかみを抑える。酔いが回り、頭が痛くなってきたフリで動揺を誤魔化そうとした。いや、本当に頭が痛かった。心臓がドクドクと脈打ち、その度に頭の芯が疼くような痛みがあった。暗闇の中、誰かの声が聞こえた。

 ついに、この時が来た。

 それは頭の中で直接響いたようにも、耳元で囁かれたようにも聞こえた。私の声だったような気がするし、小夜の声だったような気もする。

 昔から、こういう場面を何度もシミュレーションしてきた。「恋人ができた」と小夜に告げられるシチュエーションを、何度も、何度も、何度も。けど何の意味もなかった。どんなに覚悟をしていても、今、頭の中は白一色だった。

 普通の友人なら、「いつから付き合ってたの」とか、「どっちから告白したの」とか、「どんなところが好きなの」とか聞くんだろうか。そんなこと、聞けるわけがない。右手を滑らせ、頬杖をつく。精一杯の微笑みを浮かべながら、一言だけ絞り出した。

「いい人?」

「うん。すっごくいい人」

「そ。ならいいや」

 よくない。

 そう叫んだ何者かを、心の奥に押し込んだ。

 小夜とそういう関係になりたいと思ったことはない。本当だ。強がりじゃない。なぜなら自分の心の内が大多数のそれとは異なっていると、早いうちに分かっていたから。だから、いつかその時が来たら、自分の本心を隠しながら築き上げた、こんな綱渡りの関係なんてあっさり崩れ落ちると私は理解していた。その時というのが小夜に彼氏ができた時なのか、結婚した時なのか、妊娠した時なのか、出産した時なのか、それは分からなかった。けど今、それが始まったということだけは分かった。

 心の準備を、しなければならない。

 その後、小夜と何を話したのか、覚えていない。小夜との思い出はどれも鮮明だけど、この日は何を食べたのかも判然としない。ただ、初めて飲んだ赤ワインの渋みと、白ワインの酸味が、今もまだ口の中に残り続けている気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋と呼ぶには切なくて 愛と呼ぶには儚くて 天倉 天地 @Elemaia

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ