第3話 夕食
スーパーでの買い物を終えた私たちは、駅前の繁華街にある個人経営のイタリアンレストランに来ていた。道中、特に話はしなかった。ただ、隣を歩く小夜から漂ってくる甘い香りや、私の歩幅に合わせてくれる彼女の歩き方が懐かしかった。
私は初めて来たけど、小夜は何度か来たことがあると言っていた。詳しくは言わなかったけど、多分家族とだろう。会ったことのない小夜の旦那と子どものことを考えると、胸の奥に真っ黒なカーテンが掛かったような気分になる。できれば、何も考えない方がいい。
扉を開けると、ドアベルの音が軽やかに鳴った。私たちの他に二人組が二組いるだけで、店内は空いていた。夕食には少し早い時間だし、そもそもこの辺りは居酒屋チェーンの方が需要がある。薄暗い店内はイタリアの地図や国旗、ワインボトルや雑貨などの小物で装飾され、聞いたことのないイタリア音楽が流れていた。つくづくこういった店に縁遠い生活をしているなと自覚して、心の中で苦笑いを浮かべた。
感じのいい女性店員が、二人掛けの角席に案内してくれた。私はイタリアの瓶ビールとアラビアータを、小夜は白ワインとカルボナーラを、そして二人分の前菜の盛り合わせを頼んだ。グラスワインと瓶ビール、そして細身のビールグラスはすぐに運ばれてきた。自分で注ごうとすると、小夜が瓶を優しく掴んだ。
「私が注ぐよ」
そう言いながら微笑む小夜に向けて、私が少し傾けたグラスに、ゆっくりとビールが注がれていく。
「遥にビール注ぐのも、十二年ぶりだね」
そう。これは小夜の役目だった。最後に会った日も、小夜にお酌してもらったのだった。
「今もビール派なんだね」
「これが一番気楽だから。それで、小夜は相変わらず白ワイン一筋なのね」
「好きなんだ、白ワイン。遥と一緒に初めて飲んだお酒だから」
まったくの真逆だった。私は別にビール派というわけではない。ワインを飲まない派だ。ワインを初めて飲んだあの日以降、一滴たりとも口にしていない。
「お仕事お疲れ様。乾杯!」
「ありがと。乾杯」
グラスを軽く触れ合わせると、軽やかな音が小さく響いた。ビールを一口飲み、ふぅっと息をつく。初めて飲むビールだけど、悪くない。苦味が薄くて、香りがいい。素敵な時間と空間だった。少なくとも、はたから見る分には。
「ふふ。久しぶりに飲んじゃった」
小夜を見ると早くも上機嫌で、顔をほんのりと赤らめている。あまりお酒に強い子ではない。これまで小夜が一杯以上飲んでいるところを見たことがなかった。対照的に、私は結構強い方だと自覚している。けど小夜と一緒にいる時はあまり飲まないようにしていた。ふらふらになった彼女を家まで送るのが、私の役目だった頃は。
「相変わらず弱いんだ」
「好きなんだけどね。子どもがいると飲む暇もないし。けど今日は特別。家に誰もいないし、遥に会えたから」
少しとろけた視線で私を見つめる小夜を、可愛いなと思う。本当に、心の底からそう思う。そんな気持ちを抑え込むようにビールをあおった。喉を通って、熱の塊が胃に落ちていく。前菜の盛り合わせが運ばれてきた。ミニトマトのカプレーゼ、ヒラメのカルパッチョ、レバーパテ、フリッタータ。二杯目は自分で注いだ。
「お仕事忙しいの?」
「大変な時もあるし、そうでもない時もある。今日は定時に上がれたけど、珍しいほうかな」
そっけなく答えてから、レバーパテの乗ったバゲットをかじった。私の仕事は臨床検査機関の事務方だ。電話番や仕事の手配などをしている。忙しいけど、やり甲斐のある仕事とは言い難い。ただ給料は悪くないし、完全に内勤なので気は楽だ。でも仕事のことをあまり詳しく話す気はなかった。プライベートで仕事の話はしたくない。それを察して欲しくて、少し冷たく答えた。かと言ってプライベートの話題なんて何もない。仕事が終われば帰ってご飯を食べて、お風呂に入ってから寝る。休日は本を読んだり映画を観たりして、ぼおっと過ごす。それだけの人生だ。もう少しだけ勇気があれば、ひょっとすると違った人生があったのかもしれない。それが今より良い人生なのか、それとも悪い人生なのか、分からないけれど。
「すみません。同じビールもう一本ください」
手を挙げながら、食器の整頓をしていたさっきの店員さんに声をかけた。それと同時に、まだグラスに半分ほど残っていた白ワインを一気に飲み干した小夜が、空のグラスを掲げながら、
「私も、おかわりくださあい」
と声を上げた。一杯のお酒でふらふらになることはあっても、小夜が酔っ払った姿は見たことがない。それは初めて見る小夜の酩酊状態だった。
「ちょっと小夜。大丈夫なの、二杯目なんて」
「大丈夫、大丈夫」
明らかに大丈夫ではなさそうに、顔を真っ赤にしながら小夜はにこにこと笑っている。私に会えたのが本当に嬉しくて、気分が盛り上がってしまっている、ように見えなくもない。けど何かが違うと感じていた。日常生活がつらくてお酒に逃げていると言う感じでもない。一番近いのは、何かをアルコールでごまかそうとしている、ということかもしれない。でも何を?
二杯目のお酒と前菜を楽しみながら、色々と取り留めのない話をした。昔の思い出話、今住んでいる場所、すっかり会わなくなってしまった共通の友だちのこと、小夜の趣味の話。基本的に小夜が話して、私が時々返事をするかたちになっていた。二杯目のワインのせいもあって、小夜はかつてないほど饒舌だったけど、不思議と家族の話はほとんどしなかった。未だに独り身の私に気を遣っているのかと思ったけど、少し違う気がする。けど理由なんてどうでも良かった。今、旦那と子どもがいる小夜がどれほど幸せかなんて話、聞きたくない。そのうちパスタが運ばれてきて、それを食べている間は二人とも静かだった。
フォークだけで器用にカルボナーラを巻き取る小夜を見ながら、彼女と再会した時、きっと真っ先に聞かれるだろうと思っていたことを、未だに聞かれていないなと思っていた。
どうして結婚式に来てくれなかったの?
どうして急に連絡が取れなくなったの?
この十二年間、もし小夜と再会して、そのことを聞かれたらどう答えようかと、ずっと考えていた。でも結局、いい案は浮かばなかった。なんとなく答えにくそうな雰囲気を出せば、優しくて勘のいい小夜は誤魔化されてくれるかもしれない。そんな風に、呑気に構えていた。けど、いざ再会すると、小夜は何も聞いてこなかった。彼女にとって、もうどうでもいいことなのだろうか。それとも私が誤魔化すまでもなく、「きっと言いにくい事情があるんだろうな」と察してくれたのだろうか。
分からない。昔はもっと、小夜のことが分かっていたはずなのに。
パスタをたいらげ、二杯目のお酒も飲み干すと、私たちはすぐに店を後にした。私が先に代金を払い、店の外で小夜を待った。すっかり日が落ちたけど、まだほんの少しだけビル群の向こう側が明るい。もうすぐそこまで夜が迫っていた。
背後の扉が開く音と一緒に、ドアベルの音色が響く。小夜が出てきた。きっとここでお開きだろう。大学生の頃なら、このままカラオケかボウリングにでも行っただろうけど、小夜は酔っ払っているし、私は明日も仕事がある。多少名残惜しくはあるけど、これ以上一緒にいても何もすることはない。そんな風にあれこれと考えていた私に、小夜が倒れ込んできた。
「ちょっと、小夜!」
私より背の高い小夜をなんとか受け止めた瞬間、酩酊や気絶の倒れ方ではないと感じた。体重を預けられている感覚がない。小夜は自分の足で立っている。倒れたと言うより、寄りかかってきた感じだ。
「大丈夫? 家に帰れる?」
右手で頭を撫で、左手で背中をさする。懐かしい。お酒を飲むと、決まってふわふわになってしまう小夜を、毎回こうして慰めたのだった。その小夜の両腕が、私の腰に回った。ぐっと抱き寄せられ、彼女の豊満な胸が、私の胸に押しつけられる。急激に心拍数が上がる。密着する彼女の体に、直接伝わっているんじゃないかと思うと、さらに胸が高鳴った。
「ねえ、遥」
私の顔の真横に、小夜の顔がある。アルコールの入った甘い声音が、私の耳をくすぐった。
「今日、遥の家に泊まってもいい?」
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