第8話
…若い女だった。たぶん、僕とそんなに変わらない年齢の。たぶん、僕より少し年下かもしれない外見の。
派手な身なりに似つかわしくない乱れた髪やら、荒っぽい化粧やら、隈のある目元やら…それはだいぶ薄気味悪い顔だった。
…その女は三枝さんを睨みつけて。
「何してるのよ、カイ…⁉︎」
下の名前で呼ぶ。
三枝さんはしばらく無言で、ぼうっとその人を見ていたが…やがて二、三歩、後ずさる。
女がガシャガシャと頭を引っ掻く。
「あーもう…さっさと帰るよ‼︎ ほらはやく‼︎」
髪を掻きむしった手を三枝さんへ伸ばし、明らかに乱暴にするだろう動きで、歩みで、三枝さんに向かって歩き出す。
途端、三枝さんは跳ねるような動きで走り出し…。
…僕の後ろに回り込んだ。
「カイ‼︎ 何の真似よ⁉︎」
ヒステリックな金切声を上げる女。
さて…板挟みにされた僕はどうすればいい。
…とりあえず。
「あんた…誰です?」
「はあ⁉︎」
あー、その返答ではっきりとわかった。
いや、この女が三枝さんを下の名前で呼んだ時点で気づいていたが、確信を得たぞ。
この女は三枝さんの彼女なんて生易しい話でもなければ、世話人というわけでもなく。
この様子で。このざまで。
三枝さんの家族なんだ。
「あんたこそ誰よ⁉︎ 何でうちのカイがあんたに懐いてんの⁉︎ 何をしたのよ⁉︎ ねえっ⁉︎」
うわあ…めんどくせえ。話にならない。
何をそんなに怒り狂っているのか…そんな狂乱の顔をして、ギンギンと騒ぎまくったら。
「っ……!」
ほら見ろ。三枝さんはものすごく怯えているじゃないか。可哀想に。
「…三枝さん、大丈夫ですよ」
「ちょ…何で。何であんた、カイに、そんなに馴れ馴れしいのよ…あんた、カイに何したの。ねえ、カイも! その人に何したの、今まで何してたのよ、ねえ⁉︎」
聞く耳も持たずに捲し立てる…答えを聞く気などさらさらない様子で問いかける。女はキイっと叫んでこっちへ向かって歩いて来る。
「ねえカイ‼︎ 喋れるようになったんだから、ちゃんと説明できるでしょ⁉︎ いつまであんたは───」
「嫌だ…嫌だ‼︎ 嫌だ‼︎」
おっと…三枝さんが僕の肩をがっしりと掴んで身を隠す。その力と重さに僕はよろけながら…自然と、女から三枝さんを庇う体勢になった。自然とだ。弱い者を守ってしまう条件反射だ。
僕の目の前の女が蒼白の顔で僕を見る…正確には僕を透かして、後ろに隠れる、隠れきれない巨体を睨んでいる。
得体の知れない怒りの眼差しは僕をすり抜け、三枝さんに突き刺さる…三枝さんはひどく喘ぎながら、必死に言葉を吐き出す。
「お…怒らないで…嫌だ…怒られる…耳が痛い…嫌だ、助けて…怖い…」
「…ですって。どうします?」
僕は女に問いかける。
「というか、どうしたんです?」
例えば僕が、今この場で初めて三枝さんと会っていたとか、見ず知らずの僕へ、三枝さんが急に助けを求めてきたとか…そんな状況だったとしても、こうして庇っただろうと想像した。これは当たり前の対応だ。
女は、ハアッと荒々しいため息をつき…腕を組んで周囲を見回し…またもガシャガシャと髪を掻き乱す。ヒステリックだ。
「あんた…その子が何なのかわかってないのね」
さもめんどくさそうなタメ口で、まるで僕を無知だとバカにするように呟く。
「あんたとその子に何があったかは知らないけど…返してもらうわよ…カイはうちの子なの」
「ですから…何です?」
「あー…もう…これだから…‼︎」
ぎりぎりと歯軋りをした女は、僕越しに三枝さんを睨みつけて…呆れ果てたように言い放った。
「その子は元々、犬なのよ! シベリアンハスキー…お金をかけて、人間の姿にさせたの、そういう子なのよ! 知らないの⁉︎」
「知ってましたよ、ですから、何です?」
…僕ははっきりと言い返し、問いかけた。
たぶん…ずっとわかっていた。
わかっていたけど、わからないふりをしていた。
そんなものが近くに居るなんて悍ましいし、僕はそんな存在が許せなかった。
でも、もう認めるしかない。理解していた自分を否定することはできない。
それに…今更三枝さんを拒絶するなんて、できるわけないじゃないか。
「何でしたっけ…ビサイドペット…まあ、何でもいいです。どこぞの趣味の悪いビョーインにペットをあずけて、人の姿に変えてもらうんですよね」
僕は笑う。
「目的は、ペットをより身近に感じたいから…例えば、ペット入店禁止のお店の中などに一緒に入ることができる。同じものが食べられるようになる…そして会話が通じるようになる。ペットとのスキンシップがより楽しくなるから、
僕はため息をつく。
「などと語っていますが…つまりは、お互いに言葉が通じるようになるので、しつけが楽になるというのが、我が子を改造する一番の理由なんですよね…」
僕は女に笑う。
「そうでしょう?」
「そんなのと同じにしないでよ! そもそも私が望んだことじゃない。やったのは私の母さんよ‼︎」
女がギャンギャンと金切声で喚くから…後ろで怯える三枝さんを僕は宥める。
女は崩れた化粧の青い顔で頭を抱える。
「母さんがカイを人間にした…でもそれだけだった。甘やかすばっかりで、何のしつけもしない…だからその子は、一層惨めな人間になったのよ! よりにもよって三十代の姿よ⁉︎ 三十代の姿で失禁される気持ち悪さが、あんたにわかるの⁉︎」
「それで?」
「母さんは死んだの! 残されたのは手のかかる人間ペット。でも私には、何が良いことで何が悪いことかもわからないし…おねだりの声も甘える行為も、人間になったことで、不快感が悪化したの‼︎ 私は反対だったのよ‼︎」
「だから?」
「だから───」
「捨てたんですよね。勝手に。身勝手に」
「捨てたんじゃない、お仕置きしただけ」
「ですが…これを見て何も思いませんか?」
僕はちら、と後ろの三枝さんを見遣る。
怯える三枝さん…ガタガタとふるえて、青い瞳を涙で潤ませ、頻呼吸に喘ぎ…自傷を堪える代わりに、僕の肩に爪をめり込ませる…痛いけど仕方がない。
「…この人は傷ついていましたよ。お家のことをお話しすると、すぐに投げやりな行動をとってしまうほどです。可哀想に」
「そもそも、何であんたがカイを…知らない男でしょ」
「雨の中で蹲っていたんです。無理ですよ…目が合ったのに見捨てるだなんて。翌朝に死体になっていたら、僕が悪いみたいじゃないですか…ねえ、どう思います?」
「人間ペットは高度なサイボーグよ。そう簡単に死なない!」
「死にますよ。簡単に」
…呆れる。
今度は僕の方が、言葉を吐くのもめんどくさくなるほど、女に呆れ果てた。
何もわかっていない。身勝手で、自分の考えでしか物事を見ようとしない…全ての責任を亡くなった親に押し付けて逃れようとする。
この女は卑怯だ。
「…人間ペットだろうが、もふもふのわんちゃんねこちゃんだろうが…同じことです」
僕の仕事先は、保健所だ。
「施設にね、ズタズタになったペットたちが連れて来られるんですよ。毛並みが悪いどころか、病気や、あり得ない怪我を負った子達が…」
僕は何度か、彼らを殺したことがある。
「でも中には…ひどい目にあっただろうに、人懐っこい子も居るんですよね。人間を心の底から信用しているんです。なのに彼らは虐げられて、捨てられた…」
何もわかっていない純粋な瞳。
恐れと怒りにふるえる小さな体。
疑心と諦めで食事も取らず、弱っていく。
「…死ぬんですよ。簡単に。どんな子も」
「何が言いたいの…何を言ってるのよ」
「………」
喋るのも怠くなった。
心臓が重い。頭がぼうっとする。
袋詰めにされ何度も蹴りつけらる虐待を受けた子猫。
ダンボール箱に何匹も詰め込まれ弱り果てた子犬たち。
廃墟のような家の中で、ふるえながら吠えてきた大型犬。
ぜんぶ、ぜんぶ、人間の身勝手だ。
「…あんたはどうなんですか」
呪いのように問いかける。
女は一瞬びくりと後ずさりながら…全身をふるわせて僕へ吠えた。
「同じにしないで! 私はカイを捨てたつもりはない! カイが勝手にどこかに行ったのよ、そうでしょ、カイ⁉︎」
三枝さんに問いただす。
「ねえ、私…言ったよね? そこに居なさいって…あんたが勝手に迷子になったのよ。私は追い出してないの、わかった⁉︎」
責任を押し付ける。
元々犬だった三枝さんに。
人間が。
…三枝さんは僕の後ろで怯えているが、少し様子が変わった。
…たぶん、『追い出していない』という言葉に反応したのだろう。
ずるいな…三枝さんはバカ以上にバカな、純粋な人なんだぞ。というか、バカじゃないんだよ。ペットが飼い主を信頼するのは、信用するのは、当たり前だろう。
どれだけひどい目にあっても、少しでも希望を持ったのなら、優しい素振りをされたのなら…トラウマと一緒に、幸せな記憶も蘇ってしまうんだよ。
だから。
この女は卑怯者だから。
「…帰るよ、カイ」
なんて、急に声色を変えて手を差し伸べる。
三枝さんがびくりと身じろぐ…本能が飼い主への愛着を呼び覚まして、暴力の記憶よりも、触れた体温を思い出させ。
「…私が怖いの?」
「っ……」
気持ち悪い科白だ。
しかし三枝さんには、それが心地よく感じるのだろう。言葉の意味よりも、その穏やかな声音が。
「…もう怒らないから、ね?」
「っ………!」
嘘だ。誓えない。約束できない。
この女はすぐにまた同じことをする。初対面の僕ですらわかる…この女はまた三枝さんにひどいことをするはずだ。その卑怯な目が。いびつな笑顔が。気持ちの悪い雰囲気が。
世間的なことしか考えていない…所詮は僕が言った言葉への反発だ。自分は動物虐待などという犯罪なんかするわけがない…いまさら自分を棚に上げるために、優しさを装う。
なのに、三枝さんにそれは伝わらない。一番大切な本性が、三枝さんには理解できない。
ただ目の前の、ニセモノの優しさが三枝さんを懐柔し…。
三枝さんの青い瞳が僕へ向く。
いつも通りの…卑怯な目だ。弱い者の目だ。
その眼差しで僕へ問いかける。
…大丈夫だろうか。帰ってもいいのだろうか。今度はうまくいくのか。もう怒られないだろうか。信じていいのだろうか。
…そんなこと僕に聞かれても答えられない。
それに、僕が何と言ったって、三枝さんの意思は決まっているだろう。
僕は後ろでふるえる三枝さんへ微笑む。
「……あんたが決めてください」
「……」
三枝さんは首を横に振る。
僕は笑う。
「あんたね…元が何だったかなんて知りませんが、今はいい大人なんですから…自分のことはご自分でお決めください」
「…あ、あなたは」
「僕は口出ししませんよ…きっと僕が何と言ったって、あんたは…」
「帰りたいんでしょ?」
…僕が言い終える前に、三枝さんは女に腕を掴まれ、ぎゅっと抱きしめられた。
僕には女の顔が見える。
まったくの無表情のまま、三枝さんを抱きしめている。
悍ましい顔が。
「…ね、帰ろう、カイ」
寒気を誘うほどの優しい声音で三枝さんに問いかければ…三枝さんは───
「………はい」
条件反射のように呟いて。
そのまま腕を引かれて、僕から離れていく。
三枝さんは振り返らず…代わりに女が振り返り、憎悪の眼差しを向けてきた。
僕は目を逸らし…背を向ける。
落とされていった衣類の袋。
二人分の食料品。
三枝さんのためのティラミスプリン。
…趣味の悪いぬいぐるみは、持って行ったのか。
…だから何だ。もともとこうする約束だったじゃないか。明日からはまた仕事だ。三枝さんをどうするかなんて、結局何も考えていなかったから。
だから、これでいいんだよ。
三枝さんは、三枝さん家に飼われているペットなんだから。元々はもふもふのシベリアンハスキーだったのだから…飼い主のあの女だって、もしかしたら、今度はちゃんと愛してやるかもしれないから。
だから、これでいいんだよ。
僕はただ、一時的に保護していただけだ。捜索されていたのなら帰して当たり前だ。元の家に帰さなかったら、僕はとんでもない犯罪者になっちまうじゃないか。
だから、これでいいんだよ。
だから。
なのに。
「……はは」
どうしてか、虚しくなる。
荷物が重くて歩く気にもならない。
…少し曇ってきた。また雨が降るんだろう。
帰らないと。
帰ろう。
あー、重いな。
何でかな。
何でこんなに買ったんだっけ。
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