第7話
翌朝…といっても、朝食を食べてから少し休んで、現在時刻午前十時。
三枝さんに「外に出ないか」と尋ねると、まあ、当然疑われた。
「…公園は嫌だ」
「あれは…はい、すみませんでした」
そりゃ疑うだろう。置き去りにされかけたのだから。
一応三枝さんは、「鍵を閉めたか確認しに行った」という僕の嘘を信じてくれて、僕を許してはくれたが…それでも『公園』に対しては、『置き去りにされるかもしれない場所』として恐怖心の条件をつけてしまったらしい。二度と公園には連れて行けないな。
けれど、そうじゃない。
「公園には行きませんよ」
「……どこに行くんだ」
「お買い物に行きましょう。電車で二駅の…何でも揃っているお店です」
今、三枝さんが着ている服を買った、昨日行った駅近百貨店のことだ。
「三枝さんの好きなものでも買いに行きましょう。お洋服や寝具なども…これから必要になるでしょ?」
「……」
三枝さんはきょとんとしながら、着ている服を摘んで引っ張る…白ワイシャツに黒のカジュアルパンツ。シンプルでも着こなして、様になる。無言で居ればモテそうな好青年…というか壮年だが。
疑いの目はなおも向けられるが…三枝さんは低く僕に尋ねる。
「…あなたは側に居てくれるか?」
「はい。今度は鍵を閉めて、確認して、ちゃんとしていきますから…大丈夫ですよ」
僕は目を逸らさずに頷いた。
ついでに笑ってやる。
僕が笑みを向ければ、三枝さんから放たれていた警戒の雰囲気が少し緩んだのを、確かに感じた。
「…なら、行く」
青い瞳が輝く。
僕は三枝さんの手に触れた。
「あんたこそ…勝手に僕から離れないでくださいね。その歳で迷子なんてみっともないですから」
包帯は巻いたままだ。
…昨日、引っ掻いて裂いた三枝さんの手の甲の傷は治らない。
丸一日経っても、微量の出血が止まらなかった。
×
電車に乗っている時にハプニングが起こる。
三枝さんは、電車に乗るのが初めてだったらしく…まずその到着の轟音に聴覚過敏が刺激されてパニックを起こしかけたのがひとつ。
その次に乗客の数に圧倒されて動けなくなりかけたのがひとつ。
そして籠る空気に嗅覚過敏が刺激され、挙句重度に三半規管が弱いのがひとつ…そのせいで三枝さんはものすごく酔った。
今に車内で吐き戻しそうな様子になるから、目的の駅に到着してすぐに、三枝さんをお手洗いに連れて行った…案の定、朝に食べた物は吐き出してしまった。
これでは帰りも心配だ…車内でゲロ吐いたら罰金なんだぞ、なんて言っても三枝さんにはわからない話だろうから、とりあえず水を買って、三枝さんが落ち着くのを待ち…。
「すまん…」
「いいえ…」
十五分くらいした頃に、ようやく三枝さんは回復した。
帰る前に酔い止め買ってやらないとなあ…。
×
…昨晩交わした言葉は、もう否定できない。
僕自身も、もう否定しない。
僕は三枝さんを拾ったまま、自分のものにすることにした…『もの』などというと失礼だから、『見知らぬ人の一時保護』から、『知り合った同居人』とすることにした。
間違ったことだとはわかっているし、もしかしたら誘拐という罪になるかもしれないと恐れてもいる。
それでも、三枝さんは元の家へ戻ることを拒否するどころか、僕への執着は取り返しがつかないくらいまでになって…昨晩のざまだ。
捜索届けなどが出されたならもちろん帰す。
けれどそうでないのなら、三枝さんは僕のところに居る方がいいのかもしれないと…本当に身勝手な考えだけれど、今はそうとしか思えない。
僕らは互いに執着している。
僕は三枝さんが哀れで堪らなく、三枝さんの感情を受け入れる他にやれることなんて、考えつかない。
哀れみが一番残酷だというが…三枝さんはきっと違う。三枝さんは人間だ。だからきっと彼らとは違う。
…もし尋ねられたなら、これはアイだと言おう。
僕は三枝さんに『親愛』を抱いたから助けた…そうだと言い張ろう。
……そんな感情なんて、かけらも思っていないが…───
同居に必要なのは…衛生用品とか、衣類とか。部屋はないが寝具も必要だ。
これからは、夜だけリビングのローソファを退けて、三枝さんにはそこに布団を敷いて寝てもらおう。いつまでも家主の僕がソファ寝なんて、やってられるか…というか、寝具は荷物になるから、今日は買わない。
今日のところは衣類と、三枝さんの気晴らしを買いに来た。
「服の趣味ってあります? 案外、もっと緩い服装の方が好みだったりしますか」
「首が絞まるのは嫌いだ」
確かに、ワイシャツの一番上のボタンは留めていない。
「ならTシャツの方がいいですかね…パーカーはどうです…って、もう夏になりますし、暑いですよね」
「暑いと外を歩けない」
「ですよねえ…小物とかどうします。サングラスとか」
決して似合うと思っているわけではなく、遊び半分で三枝さんにサングラスをかけさせる…が、ものすごく嫌がって頭を左右に振る。
「何だ、これは…⁉︎」
「あはは、すみません。苦手ですよね」
壊される前にすぐに外してやる…まあ、サングラスなんてしたら、三枝さんの特徴的な青い瞳が見えなくなるから、僕もパスだ。
結局三枝さんの好みはわからず…昨日も買ったような、似たような服を購入して、衣類コーナーを出た。
別の階に向かい、雑貨を見て回る。
「あんたのことがよくわからないんですけど…三枝さんは何が好きなんですか」
「好き?」
「絵を描いたりとか、スポーツとか…」
「……フリスビーは好きだ」
「僕は付き合いませんよ。いい大人がフリスビー投げ合ってるところなんか、想像してみてくださいよ…不気味じゃないですか」
「…楽しいぞ?」
「はいはい」
スポーツコーナーには向かわないことにした。
僕も適当に雑貨を手に取る…三枝さんの大暴れでほとんど捨ててしまったから、部屋には遊びのかけらも残っていない。大して趣味ではないものを見て、値段を確認する…しかしこんな何の役にも立たない置き物なんかは、何のために売っているんだか。
「三枝さん…この変な顔のぬいぐるみなんか、どう思います?」
どぎついピンクのうさぎのぬいぐるみを差し出してみる…三枝さんはきょとんとぬいぐるみを見つめ、手を出した。
「あは…案外、こういう外国っぽいのが好みだったりしますか」
「……」
三枝さんはぬいぐるみをくるくると手でもて遊び…。
がぶ、と…。
ぬいぐるみの耳に噛み付いた。
ちょっ…!
「三枝さん⁉︎ 何してんですか⁉︎」
「ふ…?」
「ふ、じゃないです、返して‼︎」
僕は慌てて三枝さんからぬいぐるみを引ったくり、周りを見回す。三枝さんの奇行を見ていた人は居ないが…。
ぬいぐるみの耳はよだれで湿ってしまった。知らんふりもできない…これは購入しないといけないな。
まったく…怒りたいところだが堪える。
「…そんなに、これが気に入りましたか」
「……?」
きょとんとされる。
ああ、もう…ポジティブに受け取ろう。
×
それから昼食を取るために、適当なカフェに入った…カフェだから、あまり食事系のメニューはなかったが。
「何が食べられますか?」
「……食べていいものなのか?」
「お店で食べられないものは出しませんよ。パスタとかはどうですか…それとも、ホットサンドの方が食べやすいですかね」
「……これは?」
と、三枝さんが指差したのは、チキンオムライスだ。
「これにします?」
頷く。
「飲み物はどうしますか。僕はコーヒーにしますけど…三枝さんは飲めますか?」
「わからない…」
その『わからない』はたぶん、コーヒーが飲めるか飲めないかではなく、飲み物の種類それぞれがどんなものなのか…が、わからないという意味だろう。
僕の想像では、三枝さんはコーヒーは飲めない人だと思う。けど、カフェまで来て無料の水ってのもどうかと思う。
「…ハーブティー、飲めますか?」
「……わから」
「わからないですよね…でも、たぶん大丈夫だと思います。カモミールはあんたでも飲めるはずです。これにしましょう」
半ば強引に決めて、店員を呼ぶ。
三枝さんが不服を唱えることはなく、運ばれてきたカモミールティーも美味しそうに飲み、オムライスも、ぎこちないスプーンの持ち方で、まるで子供のように食べていた。
「…白シャツにケチャップ、落とさないでくださいね。みっともないですから」
「ん…はい」
三枝さんを見ながら、僕はパスタをフォークでクルクルと巻き…巻いてはほつれ…巻き直し…ほつれ…なんだよ、僕の方が食べるのがヘタクソじゃないか。パスタなんか頼むんじゃなかった。
×
最後に、地下の食料品売り場を歩いた。
簡易の薬剤コーナーで売っていた酔い止めをカゴに入れ…それから今日の夕飯を選び。
「…そうだ、三枝さん」
「何だ…?」
「たぶん、あんた…ティラミスプリンは食べられますよ」
そう言って、スイーツコーナーからティラミスプリンを手に取って見せる…三枝さんは一歩後ずさり、睨むような目をした。
「…それは食べられないものだ」
「そう言われていたんでしょうけど…でも、あんた…玉ねぎも食べられたじゃないですか」
「……どれのことだ?」
「昨日の野菜炒めとか…さっきのオムライスの中にも入っていましたよ」
「……っ」
三枝さんは真っ青になり、自分の肩を抱いてふるえ出す…怯えた目で僕に尋ねる。
「俺は…死ぬ…死ぬのか?」
「ですから…死にませんって。あんたの体は変わったんです。あー…大人になったんですよ。だから、玉ねぎも、チョコレートも食べられるんです」
「……っ」
「ね?」
カタン、とカゴにティラミスプリンを放り込み、僕は三枝さんの肩に触れる。
三枝さんは、まるで今生きている自分が不思議だとでもいうように…恐れているのか、喜んでいるのか、涙目で僕を見た。
「あの…こんな場所で泣かないでもらえます?」
「俺はどうなっているんだ…」
「何も変わっていませんよ」
三枝さんは何も変わっていない。
何も。
そうだろう。
×
駅のホームで酔い止めを飲ませ…薬が効くのを待つ。
その間何本も電車を見送った。その度に三枝さんは轟音に怯えていた。いちいち宥めるのも疲れる。
「…イヤーマフとかも買えば良かったですかねえ」
「…ここは変なにおいがする」
「まあ、連日酔っ払いなんかがゲロ吐きまくってる場所ですからねえ、なんて。ははっ」
自分で言ってて気持ち悪い。
清掃こそされているものの、聴覚に加え嗅覚も過敏な三枝さんには、僕らには感じられないにおいが立ち込めているのがわかる…吐瀉物どころか、吐き捨てられたガムとか、人の息のにおい、香水、鳥などの獣臭…或いは、人身事故の死臭などが感じられるのだろう。
…それから音も。ホームに立つ金髪の学生のイヤホンからは音漏れしている。音漏れというには爆音だ。最近流行りの若手歌手の曲が丸聞こえだぞ。
「…次の電車に乗りましょうか。二駅ですから、少し頑張りましょうよ」
「…はい」
「無理だったら降りればいいですし…最悪、車内で戻さなければ何でもいいです」
「……はい」
…はい、ね。
「三枝さん」
「何だ?」
パターン化した反応だ。
僕は思わず苦笑する。
「三枝さん…昨晩、僕に…あんたを名前で呼ぶように言いましたよね」
「…ん」
「そのお願いは聞けないのですが…僕からもお願いしていいですか」
「何だ?」
「…はい、じゃなくて…ああ、とか、うん、とか…もうちょっとくだけでもらえますかね」
「…?」
「いや、あんた…普段は敬語使わないのに…頷く時だけはほぼ『はい』なので…なんか調子狂うんです」
…って、僕が普段から誰に対しても敬語を使っていながら言うのもなんだが。僕のこれは口癖なんだよな。
「三枝さんに敬語を使われるのはちょっと嫌です。もっと気軽に、気楽に、お話ししませんか」
「……はい」
…電車が到着した。
だから。
「その『はい』っていうのだけ、やめてもらえませんかって言ってんです」
三枝さんの腕を引き、わらわらと乗車する人の間を縫ってなんとか乗り込んだ。席取り競争には負けたが、二駅だから立っていたって問題ない。
×
「酔いませんでしたね」
「は…ん、ああ」
「薬が効いて良かったです」
「……ああ」
荷物を片手に、三枝さんの手を引いて、マンションまでの道を歩く…食料品が少し重い。何度か持ち直す。
そんなことをしていると、三枝さんが小さく僕に尋ねる。
「……俺にも、持たせてくれないか」
今更か。
「あー…そうしてくれますかね。こちらはほとんどあんたのものなので」
「…すまん」
「いいえ」
衣類とぬいぐるみの袋を渡す…三枝さんはそれを手首にかけ、もう片手を僕に差し出す。
「何です?」
「そっちも持つ…」
「食料品は重いですよ。お気になさらず」
「俺のものが入っている」
「僕のものも入っていますから」
「けど…」
「はいはい…僕のことを甘く見ないでください。こんなナリでも力持ちなんで平気ですから」
ぐっと食料品の袋を持ち直す。
ぴったりとくっついて歩く三枝さん。
まったく…他人にこんな様子を見られたらどう思われるか。悪くてカップル。良くて…友人か、顔は似ていないから従兄…いや、無理がある。
「少し離れてくれませんか」
「う…」
「大丈夫ですよ。置いて行ったりしませんから」
「は……わかった」
僕が言った『はい』禁止をちゃんと守ろうとしている、そのあからさまな、健気な吃りが愛らしい。
三枝さんは巨体で拙い言葉遣いで、不気味で、厄介な人だけど…。
そういうひと、だとわかれば…ただの可愛い人じゃないか。
…絆されている。
僕は大切なことを忘れている。
それが何だ。
三枝さんは。
「三枝さん…今日のお出かけ、どーでしたか?」
楽しかったか…そう尋ねようとして、三枝さんに振り返る…───
少し離れた場所で、三枝さんは後ろを向いて立ち止まっている。
三枝さんが見ている方向には…若い女が立っていた。
大切なことを忘れている。
忘れたふりをしていた。
ずっと知らないふりをしていた。
けど、僕はわかっていた。
どこかでちゃんとわかっていた。
三枝さんが何者なのか。
三枝さんが…。
「何してるの…カイ…⁉︎」
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