第6話

夕食を二、三品作ったが…三枝さんは米にしか手をつけない。

昼食の時から見ていたが、まるで幼児のような箸の使い方…おかずに手をつけないことにも呆れ、僕は思わずため息をついた。

「…お米が好きなんですね」

「…前にそういうものを口に入れたら…無理矢理吐かされた…食べてはいけないものだと言われた」

…またショッキングな話を。

僕は三枝さんの小皿へ、野菜と肉の炒め物を乗せる。それからお浸しと、煮物も。

「食べても怒りませんよ、僕は。それにたぶん…あんたの体に害のあるものはありません。そうなっているはずです」

「……いま?」

「あー…成長したから?」

「…あー」

「とにかく食べてくださいよ。もっとお米が美味しく感じるはずですから」

僕が言うと、三枝さんは恐る恐る野菜を箸で摘む…摘むというよりは、むしろ器用に、掬い上げて口に入れる。

しゃきしゃき、と咀嚼の音。

キャベツと、玉ねぎ…。

…僕も内心怖かった。

でも三枝さんはぱっと目を輝かせ。

「…う」

「うま、ですか?」

「ん…」

頷く三枝さんは今度は肉を掬い上げ…ちら、と僕を見る。これも食べていいのか、というような期待の眼差しだ。

もちろん僕は頷いた。三枝さんは口に入れ咀嚼し。

…たぶん初めて、笑顔を浮かべた。

とても小さく。

「肉も好きですか」

「ん…」

「お味噌汁も飲んでくださいね」

恐れをなくし、無我夢中でおかずを食べ、ご飯を貪る…味噌汁は熱くて少し驚いていた。

三枝さんは…夢のように、我を忘れて食事をする。嬉しそうに。無邪気に。

この様子なら、さっき拒否したティラミスプリンも再挑戦させてやろうかな。


───…などと。

僕は一瞬、甘いことを考えた。

この時間を永遠にしようなどと、バカなことを考えた。


×


同僚が僕に訊ねた言葉は的を得ている…僕の心中を的中させ、逆に僕から否定の言葉を奪った。肯定などさせまいと、許されないと…あいつはそういうつもりで訊ねたのかもしれない。

卑怯な目…卑怯な。卑怯。

僕の方がよほど卑怯者だ。

「三枝さん…外に出ませんか」

「……外?」

三枝さんは警戒するような目を僕へ向ける…警戒やら、怯えやら、でもどこか『外』という単語に嬉しそうにしている目でもある…鋭く睨むようにしているが、青い瞳は輝く。

「はい、外です。夜ですが、散歩に行きませんか…ずっとこんな狭い場所に居ては、息も苦しくなるでしょ」

「…散歩…なら、行く。行きたい」

三枝さんはローソファから立ち上がる。

やっぱりでかい…百八十あるかないかの背丈、筋肉はまあまあの若干細身、灰色の髪に青い瞳の美麗な顔立ち…おまけに低い声。

これだけ整った壮年の外見で、言動はまるで七歳くらいだ。無視できるようになっていた違和感が蘇る…やっぱり薄気味悪い。

それでいい。違和感と気味悪さや不快感…厄介だ面倒だという感情が必要だ。

この男に絆されてしまっては…僕は明日の約束を果たせない。

この人を手放せなくなるから。

だから。

今が。

今。


×


マンションのすぐそばには公園がある。

昼間はマンションに住む子供が遊んでいたり、その親たちが会話していたり…このマンションはペット禁止だが、近くから犬の散歩にやって来る人も割と多い。

三枝さんにぴったりとくっつかれながら公園に来た…中に入る前にざっと見渡す。昼間は平穏だが、夜も平穏とは言い難い…まれに若い連中の馬鹿騒ぎや、中年のノンダクレがくたばっていたりするからだ。そんなのと三枝さんを遭遇させるわけにはいかない。

三枝さんを背後に、公園全体を見渡し…よかった。今日のところはバカもアホも居ないようだ。

…まあ、今だけかもしれないが。

考えても無駄だ。

「さて…どうぞ。好きなように歩いてください」

「…?」

三枝さんに振り返れば、きょとんと首を傾げる…卑怯な目、というよりは、ただ何をしたらいいのかわからないという目だ。

公園は狭くもなければ広くもない。軽く歩く程度の道や広場はあっても、自転車に乗るスペースはない。遊具はあっても種類はない。ベンチはあっても自販機はない。

こんなところで「好きなように歩け」なんてのは、確かによくわからない言葉だろう。

「はは…さすがに、あんたのその体格と年齢で、滑り台で遊びたいとか言い出しませんよね?」

「……砂場は好きだ」

「子供の頃の話でしょう。大人なら自重してください…歩くだけにしましょうよ」

「…あなたも」

「…僕はここに居ますよ」

「あなたが歩かないのなら歩かない」

…それじゃだめなんだよ、三枝さん。

「知らない場所は怖いですか…」

「知らない奴らのにおいがする」

嗅覚も過敏か。

僕は真横にある道を指差す。

「ここの細い道は、ぐるっと回って、ここに戻ってこられます。道に迷うことはありませんよ…それともあんた、公園でも迷子になるほどの方向音痴ですか」

「…わからない」

「…それとも、僕から離れたら…自然と本当のお家に向かって歩いていってしまいそうなんですか?」

「っ……‼︎」

瞬時の動きで、三枝さんは片手で片腕を掴む…ぎりぎりと腕をきつく握り、袖越しに爪をめり込ませ、歯を食いしばり頭を左右に振る。

…このざまだ。

まだこんなざまになってしまう人なのに。

「三枝さん…痛いでしょ」

「…家は…あの家は…俺の家は…」

「でも三枝さん…明日には、僕の元を離れてもらわないといけないんです。その時あんたは選ばないといけない…嫌でも元の家に戻るか、知らない人に助けを求めるか…その二択しかありません」

「あ…あなたも知らない人だ」

「僕の所はだめです。あんたを受け入れられる体勢が整っていません…それに、僕にはあんたを養う覚悟も、責任感も、何もかも足りなかった」

ただ哀れみだけで触れた。

彼らと似たその卑怯な目に捕らえられた。

衝動や同情で手を出すことが、一番無責任だとわかっていたのは、僕自身のはずだったのに。

三枝さんは僕にとって、何が違って…。

「…三枝さ」

「その呼び方…」

「…はい?」

ふるえる声で三枝さんは呟く。

「…サエグササン、は…俺のことか」

「そうですよ…そうでしょう。あんたがそう名乗ったんですから」

「…わかる。わかっている…けど」

三枝さんはひどく吃りながら、葛藤するように呻きながら、戸惑いながら、僕に問いかけた。

「…カイ、と呼んでくれないか」

「……は?」

「サエグササンじゃ、呼ばれた気がしないんだ。俺は…カイ、と呼ばれていた。いつもそう呼ばれて怒られていた、けど…」

「待って。無理です。何で他人のあんたを、他人の僕が、下の名前で呼ばなきゃならないんですか、気色悪い」

「あなたになら…カイと呼ばれたい」

「無理です!」

ぴしゃりと言い放つと…三枝さんはびくりとふるえ、怯えた瞳を彷徨わせる。

心の行き場を失い戸惑う。

…僕は拒絶したが、この言葉が三枝さんにとってどれほど勇気のいることだったのかはなんとなく察している。

三枝さんの下の名前は、三枝さん自身が言ったように…怒られた記憶しかない名前なのだろう。自身の名前の響きには恐怖を覚えるはずだ。

それを僕に求めるのは。

僕を信用したから。

僕になら、と。

…ふざけるな。

「…言ったでしょ。執着されても困ります。明日以降二度と会わないんですから、名前なんか知ったことじゃない」

「………」

「ほら…せっかく外に出たんです。歩きましょうよ、三枝さん。風も気持ちいいですよ」

心地いい風なんか吹いていない。近々また雨が降る…湿った生ぬるい風だ。

三枝さんの灰色の髪がふわりと靡き…不安げな青い瞳が僕を見下ろす。

「…あなたは」

「僕はここに居ますから」

「……本当に?」

「……はい」

僕は三枝さんから目を逸らして頷く。

少しの沈黙の後…三枝さんは、真横の細い道をゆっくりと歩き出した。

ゆれる灰の髪…不安げに丸まる背を見送る。

三枝さんが離れて行く。ひとりで歩く。

…時折、ちら、と僕へ振り返るので…僕は笑い返して、腕を組んだり、少し手を振ってみたり、ため息をついたり。

正直、気味が悪い。

巨体の男が公園の散歩道を、不安げにのそのそと歩く姿を、僕はただ見送る。見つめる。観察する…側から見たら、僕らは一体何をしているんだか、それは気味悪く見えるだろう。

…だから、いつまでもこうしてはいられない。

三枝さんがだいぶ僕から離れ…振り返ろうにも木々に隠れて、恐らく向こうから僕は確認できないだろう。

その今がチャンスだ。

今しかない。

今なら。

今が。

今。


…僕は三枝さんに背を向け、音を立てないように歩き、そして走った。

三枝さんを公園に置き去りにして、全力でマンションへ駆け戻る。

これでいい。何で最初からこうしなかった。

三枝さんなんか知らない人だ。雨の中で濡れて蹲って、卑怯な目で見つめられたくらいで、どうして僕は絆された。哀れみを抱いた。その程度の生易しい感情で…今まで何をしていた。

部屋は荒らされたし、住人と乱闘寸前にまでなった。全て三枝さんのせいだ。厄介事を増やした、訳の分からない、頭のネジが外れた不気味な男だ。

そんな奴にどうして、僕は執着していた。

彼らに似ていた?

責任を押し付ける眼差しに負けた?

可哀想だから?

死ぬところを見たくない?

バカ言うな…ふざけるな…吐かすな…ほざけ。

僕は僕に言い訳をしていた。わかっていることをわからないふりをして、図星なことを否定して、甘い時間に浸ろうとしていた…卑怯者だ。

三枝さんの傷はそんな簡単に治るものではない。

だから。

三枝さんに執着されちゃいけない。

三枝さんに執着してはいけない。

三枝さんを哀れんじゃいけない。

だから。

さいしょから、何もかも間違いだった。

間違いだった。

だから。

僕はマンションに駆け込み、エレベーターのボタンを押す…上階からそれはゆっくりと降りてくる。遅い。遅い。遅い。はやくしろ。はやく。さっさと。

気づかれる前に。

戻ってくる前に。

追われる前に。

はやく。

三枝さんを突き放さないといけない。

二度と三枝さんと会わないようにしなければいけない。

鍵をかけて、追い出して、突き放して。


……それって本当に正しいことなのか?

他に突き放す方法はないのか?

突き放すじゃなくて、もっと正しい…───


「うあああああっ‼︎」

「───は…⁉︎」

奇声と足音。

エレベーターが到着し、僕は慌てて駆け込んだが…押し倒すようにして、そいつは僕を中へ突っ込んだ。

扉が閉まる。

密室で、ガタガタとそいつは僕を掴んで床に叩きつけ…僕は抵抗する。

「また‼︎ あなたは‼︎ 嘘をついたな⁉︎」

目の前の狂乱の顔が。

「どうして置いていった⁉︎ 俺は、俺、また、悪いことをしたのか⁉︎ あなたを怒らせたのか⁉︎」

蒼白の顔が。

「わからない‼︎ ちゃんと教えてくれ‼︎ 謝るから‼︎ 二度とあなたを怒らせないから‼︎ 怒らないでくれ‼︎ 言うことを聞くから‼︎」

吐き散らされる唾液と、溢れる涙が。

「どうして‼︎ 俺は…俺、どこにも…誰にも…‼︎ 何で…‼︎ 何がいけないんだ、わからない…‼︎ わからっ…が、あああッ‼︎ あああああッ‼︎」

「三枝さ…───」

奇声を上げて、悲鳴を上げて…三枝さんがバカのように自分の髪を引きちぎるから。

僕は。

ようやく間違いに気がついて。

今まで以上に哀れに思って。

胸が痛んで。

唾も飲み込めなくて。

涙腺が緩みかけて。

口角が上がって。

バカになって。


バカ以上にバカのような醜態で喚き散らす三枝さんを…エレベーターの密室の中で抱きしめた。

「……三枝さん」

このざまだ。

「三枝さん…」

お互いに真っ青になってさ。

「三枝さん…」

側から見たら。

今この場に誰かが来たら。

「……すみませんでした」

どう思われるだろうな。

「…鍵を閉めたか忘れてしまって…思わず確認しに来てしまっただけです」

僕はさらりと嘘をつく。

卑怯な笑みを浮かべて、三枝さんの背を撫でる。

「あんたを置いていくわけないでしょ。バカですね」

嘘をつく。

自制の効かない嘔吐のように、ずるずると喉を通って、簡単に、だらだらと、虚言を並べる。吐き出す。

「あんたみたいな…こんな、すぐパニックを起こすような人なんか…危なすぎて、警察に届けるのも恐ろしいですね」

僕は何を言っているんだろう。

何度も床に背中を叩きつけられて、呼吸も少し苦しくて、頭がぼうっとして。

胸に当たる三枝さんの体温が、僕を混乱させて、朦朧とさせて、まるで夢心地のようで。

「……明日のこと、なしにしましょう」

可哀想で手元に置くことほど、残酷な仕打ちはない…それがわかっているのは、僕自身のはずなのに。


「三枝さん…一緒に住みませんか?」


そんなバカを抜かせば。

当然三枝さんは頷いて。

僕らは何もかも、手遅れになった。

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