第5話
昼食の素うどんでさえ、三枝さんは喜んで食べてくれた。ぎこちなくもかろうじて箸は扱え、麺のモチモチとした食感が楽しい、などと子供のような感想を述べたのはつまり…うどんすら初めて食べたということか。
三枝さんは、元の家では何を食って生きていたのだろう。それとも、記憶すら薄れているのか…ますますわからない。
「あ、そうだ…甘い物、買ってきたんですけど。お留守番のお礼に」
「甘い?」
僕は冷蔵庫から買った甘味を取り出す。
「ティラミスプリンとバニラプリンなのですが、どちらが」
「そっちは食べられない」
…珍しく早い回答だった。
三枝さんは、避けるようにティラミスプリンから体を離れさせる。若干攻撃的になる目つき。まるで嫌悪するようにティラミスプリンを睨みつける。
「…ティラミス、お嫌いで?」
「食べられない…そう教えられた」
「乳製品アレルギーでしたらどちらも食べられませんよね…というか、別に乳製品がダメというわけではないでしょう?」
「それは食べられない」
頑なにティラミスプリンを拒否する。
ココア、チョコレート系がだめな人も居なくはないだろうが、その拒否の姿はまるで、毒物を前にしたかのようにも見える…チョコを食べると死ぬのか? カカオアレルギー?
…まあ、食べられないというのなら無理はさせない。僕はバニラプリンを差し出した。
「じゃ、こちらを…あー、開けられますか」
「…すまん」
開けてくれという答えだ。
また噛み付いて蓋を剥がそうなんて無様は見たくない。僕は三枝さんのプリンを開封する。
ぎこちない手つきでスプーンを持ち、三枝さんは恐る恐るひとくち食べる。
「…うま」
「甘いでしょ。当然こういったものも、あんたには初めての物なんでしょう?」
「……」
僕の問いかけには答えず、三枝さんはもくもく、ぱくぱくと…また忙しなくプリンを口にかき込んでいった。
だから咽せるってのに。
「ゆっくり食べてくださいよ」
僕がティラミスプリンをひとくち食べる頃には、三枝さんのバニラプリンはもう空っぽだった。
×
「三枝さ…」
昼食の片付けを終え、三枝さんに声をかけようとしたが、三枝さんはソファに寝転がりくったりとしていた。
「…大丈夫ですか?」
「……なんだ?」
ぼやあと目を開ける。青い瞳は焦点を定めておらず、微睡んでいる。
…具合が悪いわけじゃなさそうだ。単純に眠くなっただけか。
「いいえ…ゆっくりお休みください。僕はちょっと、部屋に居るんで」
「あー…」
返答もうつろに、三枝さんはすぐに目を閉じ、全身を脱力させた。
…子供のようだ。午前の留守番とその最中の大暴れ、下の階の人との喧嘩寸前などとまあ、たしかに色々あったが…それだけでここまで疲れ果てて眠ってしまうなんて。
少し様子を見るが、目を覚ます気配はない。
ソファの上に巨体が転がる。
みっともなく見えるが、なんだか『らしい』姿だとも感じた。
僕は三枝さんをそっとしておき、自室に入り戸を閉めた。
×
三枝さんが暴れた際に、僕の部屋が荒らされなかったことは幸いだ。仕事の書類などが破かれていたら大変困っていたが…鞄に触れられた様子はない。今朝の乱れた布団もそのままだ。
僕は机に向かい、鞄の中の書類を取り出す。
『精神鑑定結果』…明後日から移動する新しい仕事には、この診断が必要だった。
全て異常はない。僕はただの正常な人間。ネジが外れていなければ無論、サイコパスでもない…一般的な思考を持つ一般人だ。
つまり、僕は明後日から新しい役目を背負わなければならない…そう決まった。
…精神鑑定をやれと指示されたこと以外、何をやるかなどは伝えられていないが、噂から聞くに、相当
どうだっていい。仕事に余計な感情を抱く方が間違いなんだ。所詮は彼らも他人同然なのだから…僕が手をかけたものではないのだから。
そもそも同じ人間ではないのだから。
なんとも思わない。
…と、スマホが鳴った。
同僚だ。
「はい、もしもし?」
「よう、僕ちゃん」
…軽々しい口調が、いくつもの吠声の騒音の中から聞こえる。仕事場にいるらしい。
「その呼び方、やめてもらえます?」
「僕ちゃんは僕ちゃんでしょ。そんで俺ちゃんは俺ちゃん…で、どうよ。診断結果は?」
「まあ、はい。受かりましたよ」
「ありゃりゃ、それはご愁傷様」
「…その科白は僕に向けるもんじゃないでしょ、俺ちゃんさん」
「ん、え、ナニ? 聞こえなかった」
電話の向こうの騒音が激しくなる…たぶん空腹を訴えているのだろう。食べない奴も多いが、食べる奴はむしろ騒がしい。
こいつめ、仕事を終えてから僕に電話しろっての。
「そっか、そっか。僕ちゃん、受かっちゃったのか…ほんと、壊れないようにねえ?」
「僕が壊れると思いますか。家族が亡くなっても、泣きもしなかったんですよ…今でさえも、彼らを死なせることに何の感情も抱きませんし」
「僕ちゃん、強がってるだけじゃないの?」
「さあね…誰かに泣けと言われたら、泣くかもしれませんが」
「ふーん」
ガシャン、ガシャン…と金属の音。暴れている奴が居るのかもしれない。
「あのさ、僕ちゃん…あくまで噂だよ。噂だけどさ…結局、僕ちゃんが新しい場所に移動になった理由ってのが、最近入ったひとりが辞職したからなんだよね」
「知ってますよ。急性ストレス障害でしたっけ…」
「俺ちゃんもさ、今、この子達のお世話してるのはいいけど…んじゃ、この子達をこの手で殺せって言われたら…ねえ。俺ちゃんは僕ちゃんのようにはいかないわ」
「…やっぱり、僕は変ですかね」
「いんや、病院の診断は正しいよ。僕ちゃんはね、アレだ。色々上手なんだよ、きっと。上手で、器用なんだよ、きっと」
「そうですか」
そう言ってくれるのはこいつくらいだ。
職場で出回る噂の中には、僕に関するものも当然ある…そのひとつが、僕が『変』だという軽蔑の言葉だ。
他者へ興味がないとか、淡々としすぎているとか…この仕事を行っても、心は痛まないのかと問い詰められたこともあった。そいつはその後間も無くして辞職した…まあ元々望んで就いた仕事ではないからな。
けど、そうであって当たり前の職場だ。その役目を与えられたなら精神的に追い詰められる。命を奪うという行為がどれほどつらいものなのかは、僕だってちゃんとわかる。
それでも、この職に限ってそれは余計な感情だ。
可哀想だと思っただけで、ボロボロになった子を引き取りに来た者もいたが…結局その後、何もできずまた返しに来て、ただただ謝っていた…そんな光景すら見てきた。
『可哀想』じゃ救えない。
哀れみと優しさだけでどうにかできるほど、彼らが負った傷は単純なものではない。
だから、誰もがそうして、何度もこの場へ連れて戻ってくるから。
「痛ッて‼︎ うぅわ、噛まれた‼︎」
「ちょ、大丈夫ですか⁉︎ そいつら注射打ってないんですよ、噛まれたらあんた…」
「あー平気。傷にはなってないし。甘噛み、甘噛み! おー、可愛いね〜!」
…電話の向こうで同僚は甘い声を出す。少しでも閉ざした心を開くために、こいつは楽天家を気取る。
死なせないために。
こいつが世話をしている奴らは、まだ死ぬと決まったわけじゃない…少しでも救うために、生かすために、こいつは必死になり、尽くしているんだ。
…僕のようにはなれない。
その言葉がこいつの本心だ。
「まあ、僕ちゃんさ…なんかあったら…ってか、なんかある前に俺ちゃんに相談してよ。俺ちゃんは僕ちゃんが壊れるところは見たくないなあ」
「ご心配なく。そういった感情は、職場には持って行かないようにしているので」
「はは、そうかい。僕ちゃんは強いねえ」
「だからその呼び方、いい加減やめてくれませんかね」
「そんな冷たいこと言わないでよお。んじゃ、切るよ〜?」
声が離れていく。
…途端、僕は思わず。
「俺ちゃんさん、ちょっと待って」
「んん?」
…呼び止めた。
…それから僕は、どうして呼び止めてしまったのかを考え、しばらく沈黙する。スマホの向こうで問いかけが聞こえるが、僕は答えない。
…なんで呼び止めたんだっけ。
「…僕ちゃ〜ん、どした? やっぱ悩み事?」
「……悩み事、っつうか、相談…ですかね」
「相談?」
なんとなく、こいつになら…今の僕の状況を話してもいいかと思った。
僕が抱えているもの。
自分でもどうしたらいいかわからないもの。
こいつになら。
「あのさ、俺ちゃんさん」
「僕…今、家に知らない人を入れてるんですよ」
「───…はあ?」
「正確には…保護、というか」
「待って、僕ちゃん。急にどした…今、家に知らない人が居るって、何があったのよ?」
…スマホの向こうで同僚が裏返った声で僕を問いただす。そりゃそうか。僕の言っていることは、理解力のある同僚でさえも、理解に苦しむ突拍子もない話だ。
…とはいえ、一から説明するのも難しい。
というか、一からすら説明ができない。
「自分でもよくわからないんです。ただ、見捨てられなくて、拾っちゃいました」
「拾った…うん。それで?」
同僚は必死に理解してくれようとしている。
僕はぼんやりと…言葉を探す。正論や言い訳などではなく、昨日、三枝さんを見つけた時の感情を思い出し、そのまま口にする。
「…俺ちゃんさん、卑怯な目ってわかりますか。こう、自分では何もできなくて、自分の行動やその先のことを、すべてこっちに押し付けてくるような感じの…」
「卑怯な目…ってか、それは弱い子の目って感じかな」
「わからないんですけど…」
「いや、僕ちゃんが何を言いたいかはわかるよ。たぶん…この子らのような目って感じでしょ?」
『この子ら』…電話越しでは見えないが、こいつは、今自分の傍に居る、空腹や恐怖などに吠え続けるその子らのことを言っているのだろう。
…僕は肯定も否定もしなかった。そうだとも言えるし、そうだと言いたくない気もした。
三枝さんは人間だ。僕よりも歳上の大人だ。そんな人が、彼らと同じ眼差しをしていたという『事実』は…どうも、簡単に認めるには気持ち悪い感じがした。
「その目って本物? 人間でしょ。弱いふりして、僕ちゃんのこと絆してさ、この後盛大にカネとかぶん取られたりしない?」
「その心配はなさそうです…その人には失礼な言い方なんですが、頭のネジが外れているというか…若干、あれな人っぽいので」
「知的…障がい?」
「あんまそういうの簡単に言っちゃいけないんですけど…」
「あのさ…」
同僚はすーっと息を吸い…考えるような唸り声を発した後、声色を変えて僕へ問いかけた。
「僕ちゃんさ…どしてその人のこと、警察とかに言わないの? なんかあったの?」
「……ですよね」
こいつはなんだかんだで常識人だ…いや、常識人でなくとも、例え相手が中学生くらいだとしても、同じ質問が返ってきたことだろう。
言い訳を考える…三枝さんのメンタルが心配だから。三枝さんが元の家で暴力を受けていたから、帰すのが心配だから。心配だから。
…心配だ?
それはまったくの他人の僕が抱くべき感情なのだろうか。
心配だと単純な言葉ひとつで、三枝さんを勝手にここに居座らせている…保護だの匿っているだの言って、それはただの、僕の自己満足なんじゃないか。
「…僕ちゃん、大丈夫?」
「…やっぱり、警察に言うべきですよね」
「んー…なんか事情があるっぽいね、僕ちゃん。俺ちゃんには言えない感じ?」
「さっきも言いましたけど…なんか、自分でもよくわからないんです。その人にも色々あったらしくて、そう簡単にお家に帰していいようには思えなくて…でもやっぱ、これって誘拐とかになっちゃいますかね」
「僕ちゃんのその感じだと…子供ではないよね」
「およそ三十七です」
「三…あはは、なら、まあ…いや、うーん」
同僚は唸る。
困らせてしまったか。
相談とは言ったが、答えを求めたわけではない…求めたのかもしれないが、正しい答えなんて返ってくるはずがなく、正しい答えを返されたとしても、僕はそれを受け入れることはない。そんな気がしていた。
実際その通りだし。警察に届けると言われても、僕はそれを拒絶した。何度自分で考えても、理由をつけて考えるのをやめたんだ。
僕は僕がわからない。
三枝さんをどうしたいのか。
「まあ、いいんじゃない?」
「…は」
「その知らない人、弱ってんでしょ。そんで事情もあるようだし…とりあえずはさ、その人の様子見て、落ち着いた頃か、事件沙汰になる前に、僕ちゃんが連絡したらいいよ。大人なんでしょ。だったらおおごとにはならないだろうから、難しくは考えないの」
「…そんな軽いもんですかね」
「別に僕ちゃん、その人に危害は加えてないんでしょ。単純に保護してるだけでしょ。だったら然るべき時に、然るべきことをしたならそれでいいじゃないか。慈善だよ」
「…偽善ですよ」
「一応確認するけど…僕ちゃんは別に、その人に深入りしちゃったとかじゃないよね? 感情移入しちゃって、手放せない…とかではないよね?」
「……たぶん」
「ならいいんだ」
ふ、と通話口で笑うような吐息が聞こえた。
僕はスマホを耳に当てたまま、机に向かって俯いた。
「…もう一回言っとくけど、僕ちゃん。なんかある前に、俺ちゃんに相談してよ。俺ちゃんはみんなが言うように…僕ちゃんには感情が欠如している、なんてことは絶対にないと思っているから。むしろ…」
…同僚は一瞬沈黙して、からからと笑う。
「まあ、とにかく、ひとりで抱え込まないでね。じゃ、切るよ。いい?」
「…はい。ありがとうございます、俺ちゃんさん」
「んじゃね」
プツ、と通話が切れる音が鳴れば…部屋の静けさが無音の耳鳴りになる。時折外から聞こえる車が走る音が、まるで間近のように感じる。
僕は机に突っ伏した。
肯定も否定もしなかった。できなかった。
自分でもわからないと言い訳をして、全ての答えや助言を、僕は拒絶した。
僕は三枝さんを保護している…けど、果たしてこの状況を『保護』などと善意の言葉で片付けられるか。
同僚は僕に問いかけた…深入りしていないかと。感情移入していないかと。
口先では否定したが。
実際は。
…いや、そんなことがあるものか。
そんなことがあっちゃいけない。
ただの知らない男だ。面倒で厄介な、迷惑とさえ思える男だ。そんな人にどうして余計な感情を抱く必要がある。
死を待つだけの彼らとは違う…三枝さんに哀れみを抱くくらいなら、僕は彼らを殺すことなどできないはずだ。持つべき相手を間違えている。抱くべき感情を間違えている。
『可哀想』で手を差し伸べてはいけない。そんな生易しい話ではないし、単純な傷などではない…それを理解して、今までそうしてきたはずなのに。
僕は…。
まさか。
ただ、『可哀想』という理由、それだけで、三枝さんを拾ってしまったのか。
最も愚かな感情で、安易に、偽善で。
…ふざけるな。
ふざけるな、僕。
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