第4話

鍵を開けるのに手間取ってる時から、その音は漏れ出ていた…だから玄関ドアを開けた瞬間に、外廊下にものすごい騒音が響き渡る。

僕は慌てて中に入りドアを閉め施錠。

そして中へ駆け込む。

「三枝さん⁉︎」


地獄絵図だ。

廊下には洗濯した衣類がぶち撒かれ、リビングには雑誌やらティシュが散らかされ…食器まで割られて、座布団まで破かれて綿だらけ…物が少ない僕の部屋がここまでの惨状になったのはいつ以来…引っ越しの日、いや、それ以上だ。

これは…まじで漁られたか。三枝さんは窃盗犯だったのか?

「三枝さん⁉︎」

テレビの音量がバカでかく、自分の声すらまともに聞こえない。あーうるさい、うるさい。リモコンはどこだ…何冊も重なる雑誌の下。それを取って音量ボタンを下げて、下げて、下げて、そしてテレビを消す。

耳がガンガンするのを堪えて、僕は部屋を見回す。

「三枝さ…」

部屋の隅に、不自然に衣類がまとわりつくがひとり。そいつは小刻みにふるえていて…たぶん耳を塞いでいる。昨日着ていたこいつの衣服や、僕の服などから覗く伸びた爪の裸足。

…バカが居た。

僕はそいつが頭に被っている洗濯物を引き剥がす…さすがに苛立って、声を荒らげた。

「何してんですか⁉︎」

「っ───!」

三枝さんは僕から洗濯物を取り返そうとする…僕が取られまいと距離を取れば、三枝さんは手元の衣類を胸元にかき集め抱きしめ、顔を埋める。

…そして涙目の青い瞳で、どこか怯えるような、しかし攻撃的な眼差しで僕を見上げた。流れ落ちる涙やら何やらが、せっかく洗濯した衣服に染み込むことを想像して…部屋をこんなザマにしてくれたくせに、睨むような目で見られることに腹が立って、僕は荒くため息をつく。

「それ、返してくれませんか。洗ったのに汚れるじゃないですか! 何でこんなバカなことしたんですか⁉︎ あんたね…あんたは子供じゃないんですよ。大人なんですよ⁉︎ ヒトサマの部屋で、一体何したんですか⁉︎」

「う…う、ゔ…‼︎」

僕が捲し立てると、三枝さんは頻呼吸としゃっくりに喘ぎながら、何かを言おうと必死になる。

一方的に怒鳴っても理由なんかわからない…言いたいことはたくさんあるが、僕は一度黙る。三枝さんの答えを待つ。低い唸り声。必死な呼吸…はやくしろよ。

「ゔ…嘘、ついた…」

「はぁ?」

「あなたが嘘ついた…あなたが言っていたテレビが始まっても…あなたは帰ってこなかった。あなたが嘘をついた!」

嘘…という言葉を使うには、状況も条件も違う気がする。僕が帰ると言っていた時間はあくまで予定だ。きっかりその通りに帰る保証はなかったし、そんなにうまくいくはずがない。

「電車が運転見合わせになったんです…それくらい誤差の範囲じゃないですか。それに、僕だって遅れるつもりはなかった」

「知らない! あなたは嘘をついたんだ!」

…腹が立つ。

何故かこっちが一方的に怒られている。怒りたいのは僕の方だ。

「わかりました、遅れたことは謝ります。ですが、この惨状は何ですか⁉︎ ただ僕が帰らなかっただけで、何でこんなに散らかしたんですか⁉︎」

「ゔ…わ、わからない…知らない‼︎」

「知らないじゃないですよ、あんたいくつですか⁉︎ 一体何なん…っ」

…何なんですか、と言いかけて。

…やめた。

途端に、怒鳴る気力を失った。

三枝さんはガタガタとふるえて…洗濯物を抱き抱えて僕を見上げる。もう睨んでるとは言えない…ただ怯えていた。青い瞳から雫をこぼしながら、何かを言いたそうに呻く。唸る。

…本心の言葉なんだ。

僕が帰る時間を守れなかったことを怒っているのも…部屋を荒らしたことを「わからない」と言うのも、責任逃れなどではなく、三枝さんの本心だ。本当の言葉だ。

本当にわけが変わらなくなって、部屋を荒らした。そうなのか。大の大人が。

…やるだろうな。この可哀想な人ならば。暴力を受けてきた人ならば。追い出されて、雨の中で蹲っていた人ならば。不安と悲しみのあまり暴れても不思議ではない…のかもしれない。

問いただしたって、怒鳴り散らしたって、三枝さんは怯えるだけだ。無意味だ。怒り損だ。時間の無駄だ。

…ため息をつきかけて、それも堪えた。

「…わかりました。もう怒りません。怒りませんから、洗濯物を返してください」

「…ご、ごめんなさい…すみません…ごめんなさい…」

「怒らないので謝らないでください。ほら、返して」

手を差し出せば、三枝さんは恐る恐る、時間をかけて、抱きしめた洗濯物を僕へ手渡す…涙だとかよだれだとか、もう一度洗わなければならないほど、三枝さんの体液を吸っていた。

まったく…一体何なんだか、この人は。窃盗犯などではないことは良かったが、より一層頭が可哀想な人なのだとわかってしまった。これでは今後の外出なども制限される。

やっぱ、はやいところ施設とかに保護してもらった方がいいだろうな…三枝さんの精神状態が落ち着くのを待ったって、きっといつまでも状況は変わらない。むしろ僕と居ることでさえも、三枝さんにはストレスになるだろう。

…って、今はそれを考えている場合ではないな。この空き巣被害も同然な状態の部屋をさっさと片付けないと、昼食も食べられない。

「…三枝さん」

「ごめんなさい…すみません…」

「はい。謝るのはもういいんで…とりあえず、しばらくそこから動かないでもらえますか。危ない物が散らかっているので、裸足では怪我しますから」

「…はい」

さてどこから手をつければいいものやら…僕は少し考える。

すぐに手をつけられるのは雑誌類だが、一部はビリビリに引き裂かれている…そいつは処分だな。最近はろくに読んでいないものだ。溜め込むだけ邪魔だった。いい機会だ、捨てよう。

それから食器類…何故食器まで散らかしたのかがわからない。例えバカでも、食器棚に僕が隠れているなどとは考えないだはずだ。単純に暴れたいから破壊したのか…問いただしたところで、三枝さん自身にも理解できない行動だったのだろうが。ともかく、小皿はほとんど割られてしまった。めんどくさいな。

棚に飾っていた小物類は…壊れていようが何ともなかろうが、処分することにする。元々そんな趣味でもない物ばかりだ。他人からの貰い物や、なんとなく手に取って購入した物…つまりはガラクタだ。捨てる。

三枝さんの凶行は、見事に断捨離を促進させてくれる。お陰で僕の部屋からはさらに物が減っていく…皿などはまた追加して買うが、趣味の物はほとんど消え去る。ありがたいような、面倒なような、腹が立つというか、なんというか。

洗濯物をもう一度洗濯機に突っ込みスイッチを押す…それから掃除機を持って、細かなゴミや硝子などを片付ける。

カーテンや窓が傷つけられていないことが幸いだ。カーテンは汚されてもいいとして…窓ガラスにヒビなどが入っていたら、たぶん僕はもっと怒っていただろう。そこら辺は、三枝さんも僅かに冷静だったのだろうか。

癇癪の中でも冷静は残っているもんだ。大切な物は傷つけない…僕だって子供の頃はそんな感じだった記憶がある。

ガーガーと掃除機を引きずれば、三枝さんは部屋の隅でふるえている…大きな音は苦手なのはわかっているが、今ばかりは耐えてもらう。自業自得だ。


…そんな時。

インターホンが鳴った。

僕は掃除機を切る。

…嫌な予感がするな。

「三枝さん…そこで待っていてください」

「……誰だ」

「誰でも良いでしょう。待っててください」

何やらインターホンが鳴った瞬間に、三枝さんの目つきが変わった気がする…何だっていい。

来客に三枝さんは関係ない。

僕は玄関を開けた。

「はい」

「うるせーんだよ‼︎」

───襟首を掴まれる。

あー、チェーンかけて開けりゃ良かった。

顔見知りなどではないが…初対面でもない。引っ越してきたばかりの時に一応挨拶に行った、下の階の人だ。不健康そうな顔つきはよく覚えている。

そいつがめっちゃ怒っている。このまま僕の首を絞めかねない力で服を掴まれて…獣みたいな呼吸をして。

「何時だと思ってんだ、眠れねーんだよ‼︎ 上からガタガタ、ガタガタ騒音鳴らしまくってよお。こっちはようやくやること片付いて、二日ぶりにまともに眠れるところだったってのに‼︎」

確かこの人、昼夜逆転してんだよな。

片付いたのは仕事ではなく、恐らくゲームか何か…この人の部屋に挨拶しに行った時、就職している様子はなかった。たぶんあれだ。辞職か辞職か…とにかくメンタルもよろしくない人だと思って、関わるのは避けてきたんだが。

…何時だと思ってんだ、と言われても、太陽さんさん快晴の真っ昼間なんだが。自己中心的な発言にも程ってもんがある。

とはいえ、騒音は騒音か。ただでさえ三枝さんが大暴れして…現に隣人のおばさんは外に避難しに行った。なら、この情緒不安定な下の階のこの人だって怒るだろうな。怒り狂うだろうな。

事はなるべく穏便に済ませたい。

言いたいことは少なからずあるが、僕は謝罪の言葉を探す。

「すみません…あの、キモい虫が出たもんでして、大暴れというか、なんというか…」

「言い訳はそれだけかよ⁉︎」

「言い訳…あはは…あの、なんとお詫びすればいいのやら。はは、えーと…」

つまりは一発殴らせろと?

それともカネでも払えと?

一方的な怒りばかりぶつけられても、詫びる方法を提示してくれなければ、こっちもなんと言えばこの場をおさめられるのか混乱するんだが。

襟首掴まれたままで僕はどうしろと。

参ったな。土下座でもするか。

…と。

何やら後ろにひやりとした気配が立つ。

の視線が、僕から僕の背後に向けられる。

「…誰だ」

三枝さんが低い声で尋ねる。

おい、やめろ。事態が悪化する。修羅場になる。しっちゃかめっちゃかになる。あんたは出て来るな。

いくらこの事態に三枝さんが関係大アリだったとわかっても…三枝さんが出て来ると余計な問題が増えてしまう。

「三枝さ…」

「誰だ、お前?」

「あなたは誰だ…何をしているんだ」

「俺は下の住人だよ! 何だ、お前もここに住んでる奴か。つうか、お前もこいつと一緒にガタガタと騒いでた奴かよ、ああ⁉︎」

「あの、この人は…」

僕は三枝さんに目配せし、どうにか中へ戻るように訴えるが…どうにも三枝さんも様子がおかしい。目つきがものすごく攻撃的だ。

やばいぞ。面倒なことが始まる。やば。

…三枝さんが、僕の襟を掴む下の階さんの手を掴んで離す。

離したが…三枝さんはその腕を放さない。

「ンだよ、放せ‼︎」

「下に住んでいるのか…?」

「だから何だ⁉︎」

「あなたもうるさかった」

「あ?」

「あなたも‼︎ うるさかったと言っているんだ‼︎」

さ、三枝さん?

三枝さんが下の階さんを外廊下の壁まで追い込み、ガタンと背中を叩きつける…まずい、まずいぞ。修羅場だ。めちゃくちゃだ。

「夜に大きな音を立てていた‼︎ 眠っても目が覚めた‼︎ あなただって迷惑をかけている‼︎ この人ばかり怒られるのはおかしい‼︎」

まったくめんどくせえ…。

下の階さんは昼夜逆転だから、確かに夜中に音が聞こえることはあるが、目が覚めるほどの騒音はこれまでにない。三枝さんが聴覚過敏なだけだ。

それに、今は僕らが怒られて当然な立場なのは間違いない。そもそも三枝さんが大暴れして、その上僕が掃除機を引きずった音…多少なり響いたはずだ。

これは完全に僕らの逆ギレで間違いない。

「逆ギレか⁉︎ 上等だよ、この年増‼︎」

はい。逆ギレです。

しかしこれはやばい。

昼夜逆転情緒不安定の下の階さんは、三枝さんの胸ぐらを掴み返し…もう片手で拳を作る。三枝さんが殴られる。やばい、やばい!

それに対して三枝さんは…がっ、と口を開け、牙を剥き出しにし、迫る下の階さんの顔面に噛みつこうとする…普通、噛み付くか。けど、実際に噛み付いたら怪我をさせる。

殴られようが噛みつこうが、今この場で起こっている事態は、今に犯罪に繋がりかねない。

僕は三枝さんを引き剥がし、剥き出しの上下の歯列の間に腕を挟ませた…そして、三枝さんを殴ろうとする拳をもう片腕で防ぐ。

…一旦、静まる。

…なんだこの絵面。

外廊下で、一方で口に腕を噛ませ、もう一方で拳を腕で庇い…まるで漫画の中のようだ。

僕は何をしているんだ。

「…れ、冷静に、なりましょ。ね?」

僕はへらりと笑う。

「騒音を立てたことは謝ります…今後は気をつけるので、今日ばかりは、どうかご勘弁を。それと…あの、暴力は何があってもいけませんよね。すみません」

僕の声はふるえる。

なんとか笑う。

「えーと、それと、それと…この人は少し、あれな人なので…後で言い聞かせますので…あの、なんというか…」

僕は醜く、ひどく醜く笑って。

「本当にすみませんでした」

深く頭を下げた。


×


…暴力はいけない、という言葉が効いたのか、下の階さんは悪態をつきつつも帰ってくれた。事件沙汰にはならずに済んだ。

「痛ってぇ…地味に痛ぇ」

僕の両腕に傷を負ったこと以外は穏便に済んだ…片腕には浅い歯形の傷、片腕には拳をぶつけられた内出血。これは、しばらく外に出る時は長袖だな。夏も近いってのに。

三枝さんがぴったりと背後をついて回る。

「…すまん。怪我させた…」

「まったくです。今回はお互い様でしたが」

「…その…」

「はい?」

…服の端を引っ張られる。

僕は足を止め、三枝さんに振り返る…思ったより間近に姿があって、その巨体に少しびっくりした。俯いているからなおさら顔が近い。

青い瞳はまたも涙で潤んでいる。

「…何です」

「…俺を、追い出すのか…?」

「…また何で、急に」

「……」

三枝さんはガリガリと自分の手の甲を引っ掻いている…良くない。それは自傷行為だ。

「…三枝さん、手」

「あなたは…いい子にするなら、ここに居させてくれると言った…だが、俺は…」

ガリガリ、ガリガリ…。

「三枝さん」

「俺はいい子じゃない…部屋もめちゃくちゃにした…人に怪我をさせようとした…俺はいい子じゃない…だから、俺は、ここに…」

「三枝さん!」

ガリィッ…と嫌な音がした。

僕が止めた時には遅かった。

三枝さんの左手の甲に一筋の真っ赤な傷…みるみるうちに血が滲んでくる。

あーあ、やってしまった。

「…俺は…追い出されるのか…?」

僕を見つめる眼差しは、やっぱり卑怯だった。

『追い出す』…なんて、既に僕へ全責任と罪を押し付ける言い方だ。まるで自分はここに居てもいいと決まっているような科白だ。

ずっとここに居ていいなどとは言っていない。僕はこの人のメンタルが少しでも落ち着いた頃に、然るべき場所へ連絡して、明日中にでも立ち去ってもらうつもりでいる。得体の知れない可哀想な人でも…三枝さんは大人だ。そもそも見ず知らずの僕に拾われて、執着されていることもおかしい。

…そもそも、見ず知らずの人を拾って、二日も居座らせている僕もおかしい。

…この人は子供じゃない。自分のことは自分でできるはずなんだ。自分の身は自分で守れるはずなんだ。

それができないように見えたのは。

この人がとても弱く哀れに見えたのは。

僕の錯覚…勝手な思い込みで間違いないはずなのに。

「…俺は…」

「あんたがいい子でも悪い子でも、明日中には出て行ってもらいます…僕にも仕事があるので。それは言いましたよね」

「…はい」

「けど…まあ、大目に見る、と言う方が正しいですが…あんたに怒っているわけではありません。今すぐ、無理矢理、あんたを追い出す気はないので、それだけはご安心ください」

「……」

「ってか…追い出すって言い方はやめてもらえますか。まるで僕が悪い奴みたいなので」

「…すまん」

「僕は、あんたに暴力を振るっていたその人たちとは違います。まったく違います。ただの他人です…ですから」


「あまり、執着しないでもらえますか」


…それは自分へ言い聞かせたも同然だ。

僕は目を逸らし続けている。

三枝さんを然るべき場所へ届けを出すことを、必ず途中で考えるのをやめる。

三枝さんを家に帰せば、また暴力を振るわれるだろうと想像してやめる。

三枝さんを警察に届ければ、面倒なことを聞かれるかと想像してやめる。

三枝さんを施設に届ければ…それで済むのに考えるのをやめる。

僕は三枝さんをどうしたいんだ。

居るだけで手間のかかる…行動を制限される…面倒事が増えて、厄介事が増えて…邪魔とさえ思えるのに、ここに留まらせようとしている自分が居る。

…目を逸らしている。

僕は三枝さんを…。

「…どう、した…?」

「…いいえ」

思い出したのは、仕事場で見た光景だ。

悲しいなんて感情はないといわれるは、たしかに悲しみにふるえていた。怯える目と、絶え間ない怒りに吠える凶暴な声、嫌悪や疑心で食事も取らない、弱り果てていく自分のことさえどうでもいい。

…三枝さんはに似ていた。

「その傷を手当てしたら…昼ごはんにしましょうか。うどんでいいですか」

「…何だ、それは?」

「食べればわかります」


わかっているのかもしれない。

わかっていながら、わからないふりをしているだけなのかもしれない。

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