第3話
…リビングで目を覚ました。
何でリビングで寝ていた、と一瞬考えて…すぐに思い出した。
昨晩、僕は人を拾ったんだ。ちょっと、というか、だいぶ重度に頭のネジが外れている、恐らく三十代の…可哀想な男を。
…寝室はそいつに貸した。
ドアの開け方もわからないと言っていた…だから寝る前に何度もドアの開け方を教えた。夜間のお手洗いくらいひとりで行けてもらわなければ、いい歳の大人の失態を見る羽目になるから、執拗に必死に教えた。
…僕はローソファから転がるように降りて、毛布を雑に畳んで、寝室へ向かう。
短い廊下を出てすぐの部屋…なんだかんだドアは開けっぱにしといた。
だから覗き込めばすぐに姿を確認できた。
…めっちゃくちゃだった。
「何してんですか、三枝さん」
僕が拾った男の人…三枝さんは、めっちゃくちゃになった布団の上で、毛布やらブランケットやら掛け布団やらをめっちゃくちゃにしている。
そして僕に気づいて、青い瞳でじいっと見上げる。
だから。
「何してんですか、三枝さん」
「お…はよう、ございます…」
「はい、おはようございます」
で?
「布団を…畳もうと…」
寝相が悪い方がまだましだ。
「無理なことはしないでください。僕も布団を畳むのは苦手なので、お気になさらず」
「畳まないと怒られていた…」
「僕は怒りませんから。眠れました?」
「…下から音が聞こえた」
床に直の布団では、聴覚過敏の三枝さんでは下の部屋の音も聞こえてしまうのか…そんな薄い壁だ床だというわけではないから、僕は気になったことはないが。
汚した様子はない。
僕としては一安心だ。
僕は三枝さんへ着替えを差し出す…こちらも部屋着用に買っていた大きめサイズのシャツとズボンだ。あとはもうない。何かの拍子に汚されたら、三枝さんに着せるものはないし…人前に出せるような格好ではない。
「今日の予定として、ひとつお話が」
「…はい」
「午前中、買い物に行くので僕は留守にします。あんたを外に出せるまともな服と、あんたの分の食糧を調達しに行くので…その間、留守番を頼めますか、三枝さん」
問いかければ、三枝さんは首を傾げ、俯き…いや、ここで断られてもどうしようもない。三枝さんが無理だと言ったとしても僕は、買い物には行かなきゃいけない。
じゃなければ、やっぱり警察に電話するしかない…本当にこの人と過ごしていた人は、追い出したことに何の後悔も抱いていないのだろうか。捜そうともしていないのだろうか。
「…最低限の生活のためです、三枝さん」
まるで子供に言い聞かせるように僕は念を押す。借りてる部屋だがここは僕の自宅だ。自宅に帰ってこない家主がいるもんか。
「すぐに帰りますから」
…三枝さんはじいっと僕を見つめ、長い時間をかけて、ようやく頷いた。
「わ、悪いことはしない」
「はい。それでいいです」
外見や低い声に対しての拙い口調は苦手だ。
どう対応したらいいのか…僕が狂いそうだ。
「朝ごはんにしましょうか。着替えたらリビングに来てください。布団はそのままで、何もしないでください」
枕カバーも外され、シーツも敷布団から剥がされて…面倒だな。
×
朝食といっても冷蔵庫には何もなかった。
トーストした食パンを差し出すと、三枝さんはきょとんとする。嫌そう、というよりは、不思議がっているみたいな…変な顔だ。
「もしかして朝はご飯派ですか」
「…これは、熱くしたのか?」
「ええ。焼きましたよ」
三枝さんは食パンを指で触れ、摘み上げ…。
「焼かない方がお好みで?」
僕の問いかけには答えず、三枝さんはカリ、と噛み付いた。カリカリ、サクサク、もぐもぐ…そして目を輝かせる。
「…うま」
「あ、そう…まさか、焼いたパンは初めてですか?」
「羨ましいと思っていた…」
またそれか。
ためらいがなくなった三枝さんは、サクサク、カリカリと、勢いよく何度もかぶりつく…そんな急いで食べたら、昨日みたいに咽せるでしょうが。
「誰も取りませんって。というかむしろ、もう一枚食べます?」
「…二つも食べていいのか?」
「逆に一枚で足りますか?」
首を傾げる…変なところで遠慮されるのも気分が悪い。別に金には困ってないし、食料ならこの後買いに行くんだ。ある物くらい、いくらでも食わせてやるさ。
僕は三枝さんの返答も待たず、ちょうど焼き上がった食パンを三枝さんの皿に乗せた。
しかしなあ…確かに、トーストした食パンはミミの部分とかがボロボロとこぼれ落ちてしまうものだが、三枝さんの食べ方は、とても行儀が良いとは言えない。テーブルの上からカーペットまでパン屑だらけだ…後で掃除機かけないと。
それに、どうしてそんなに急いで食べるんだか。ただのトーストやコンビニおにぎりまでも「羨ましい食事」と言う。
「三枝さん…お家ではどんな感じだったんですか?」
ダン‼︎
…また突然豹変した。
テーブルを拳で叩く。項垂れて、ぜえぜえと荒い呼吸を吐き…ゔーゔーと低く唸る。
ダン‼︎
また叩く。ダン、ダン、ダン…何度も叩く。ガチャガチャと皿に振動が伝わり…ダン、ダン、ダン、ダン、叩く、叩く、叩く、叩く。
地雷を踏んだのか…いや、そんな気はしていたが、本当に地雷だったのか。
「わかりました、思い出したくないんですね。わかったからやめてください。下の階から苦情が来ますから!」
テーブルを叩く拳を押さえると…三枝さんははっと顔を上げ、小刻みにふるえて僕を見る。
「す…すま…わ、悪いことした…」
「いいえ…手ぇ痛くないですか」
「…痛い」
「じゃあ、極力…そういう衝動は我慢できるようになりましょう。本当に怪我しますから」
「…すまん」
「いいえ、僕の方こそ…」
トラウマやらストレスからの自傷行為…昨日と同じだ。家のことに触れるのは禁忌と覚えておかないと。
三枝さんが落ち着いたのを確認してキッチンに向かう…飲み物を用意しようとしたが、あいにくコーヒーは切らしていた。冷蔵庫へ向かう。
「…三枝さん、牛乳は飲めます? お腹緩くなるタイプですか?」
「…飲んだことがない」
いちいち面倒な回答をしてくるなあ。
「じゃあやめておきましょうか」
僕はグラスに水を注いで、三枝さんに持って行った。ただの水でも三枝さんは嬉しそうに飲んでいた。
やっぱりまともな人じゃないな。
×
滅多につけないテレビをつける…午前の番組は、主にエンタメニュースを取り扱った明るくて爽やかな番組が多い。
隣人迷惑にならないために、音量は低めにしていた…お陰で三枝さんの聴覚過敏に苦痛を与えることはなかった。けど、念のためもう少し音量を下げる。
「って、ほとんど聞こえませんけど…これで大丈夫ですか?」
「はい」
と頷く三枝さんは、テレビの前に立ち、画面をガン見している…不思議がるように。縋り付くように。
「目ぇ悪くなりますよ。テレビは離れて見てください」
「…悪いことか?」
「目に悪いです。なるべく、そこの…ソファに座って見てください」
僕がローソファを指差すと、三枝さんはのそのそとソファに向かい、恐る恐る座る…そして僕を見る…いや、だから何だ。座ったから何だ。褒めるもんじゃないぞ。
…さて。
テレビがついていれば、暇つぶしにもなるし、時間の感覚も鈍くなるはず。
ドアの開け方は教えたし覚えてもらった…けど一応、お手洗いなどのドアは開けといておこう。
鍵の開け方は教えていないから…玄関は施錠する。甘い考えかもしれないが、それで脱走することはないはずだ。三枝さんの知能は僕が思うよりも低い。
「じゃ、三枝さん。お留守番、お願いしますね」
「…どこか行くのか?」
は?
三枝さんがソファに座ったまま、じいっと青い瞳で僕を見上げる。
いやいや。
「朝に言いましたよね。あんたの服と食糧を買いに行くんです。留守番してくださいって言いましたよね」
「…はい。けど…」
「いい大人なんですから、留守番くらいできるでしょ。すぐに帰りますから、お願いします」
「……」
三枝さんは素早く瞳を動かしきょろきょろして…やがて俯いて、頷いた。その手はカリカリとソファを引っ掻いている。
なんだか不安な気もするが…家の中を漁られて、金品掻っ攫って逃げられる、なんて嫌な予感は一切しないので、三枝さんを信じて出かけることにした。
「『オヒルデスヨ』が始まる時間には帰ってくるので、おとなしくしていてくださいね」
…三枝さんが何か言いかけた気がしたが、ドアを閉め、施錠して、僕は出かけた。
電車で二駅の駅近百貨店…そこなら服も食品も一気に買い揃えられる。
×
Lサイズの服なんて部屋着用にしか買ったことがない。だから、一般的にダサいと言われるロゴや柄、或いは無地のTシャツを適当に買っていたのがこれまでで。
外を歩いても問題ない服装のLサイズ…他人のために選ぶとなると、若干抵抗感を抱く。気にしすぎだろうか。似合う似合わないは後回しに、今は間に合わせで適当に選ぶべきか。
…頭が働かないので、ワイシャツとカジュアルパンツを二つずつ、色違いで購入。上着もひとつ…必要ないかもしれないが一応。三枝さんのスタイルはそれなりにいいし、こんなシンプルでもサマにはなるだろう…と祈る。
そもそも僕だって洒落た格好はしない。僕に服のセンスはない。
ついでに部屋着用も適当に選び…そんなに長く同居するわけではないし、着替えはこれでじゅうぶんだろう。
エレベーターで地下まで降り、スーパーで買い物をする。
今日明日は休日だから、自炊のための野菜、肉、魚…昼飯はうどんでいいか。調味料で切らしていたものはあったかな。それとコーヒー。お茶も買っとこう。酒は飲まない。つまめる菓子は買う。
…ついてだ。留守番のご褒美に、三枝さんに甘い物でも買っていこう。きっとあの人には、「よくできました」なんて褒め言葉などが必要だろう。そうしてやらなければ、あの人は苦痛を抱え込むのだろう。そう思えた。まるで子供だ。
目についたのはバニラプリンとティラミスプリン…好みが分からないので両方買った。どちらかは僕が食べよう。
───と、何やらお菓子コーナーでトラブルを見かけた。
床に座る小さな女の子と、頭を下げる母親らしき女…その側には店員。
『モモコ』と呼ばれている女の子はどうやら、購入前のお菓子をその場で開けて食べてしまったらしい。女の子は、見た感じではかなり幼い。そういった間違いもないことはないだろう。ちゃんと教えて、次から気をつければいい。
…こんな光景を、最近はよく見る気がする。購入前の菓子を開けて食べたとか、同じく購入前の玩具で遊んでしまったとか、寝具売り場で、寝心地を確かめるどころか、ぐっすり寝てしまっている子供なんかも見たことがある。
最近の親の教育が甘いのか、或いは子供たちが自由すぎるのか…昔に比べて、店内トラブルを見かけることは多くなった。
…女の子は母親に言われて、店員に頭を下げる。店員が何かを言って立ち去ると、母親は女の子の手を引きながら、無言で、目も合わせずに歩き出した。さすがに怒りすぎでは。ちゃんと謝ったし、小さな子供の間違いくらい、少しは大目に見てやっても…それとも初めてではないのか。
…まあ、知ったことか。僕はさっさと帰らないと。家には得体の知れない男を待たせている。暴力を受けていたという奴だ…長時間ひとりで待たせたら、また自傷行為でもしかねない。
僕はレジに向かい…買い物を終わらせた。
×
…駅から出て、荷物を持ってみっともなく走る。
腕時計を確認する…三枝さんに言った『オヒルデスヨ』はとっくに始まっている。というか始まってからもうだいぶ経っている。
なんたってこういう時に限って、電車が運転見合わせなんかになるんだか。
線路内に立ち入った人が居ただと。人間だ。線路が危険という意味もわかるはずがない野良猫とか鳥とかじゃないんだ。人間ならそんなバカなことはするなよ、まったく。どうせ痴漢容疑からの逃走か何かだろう。
マンションのエレベーターは最上階の十階…降りてくるのを待つ。途中で止まる。遅い。遅い。急いでいるのに。
…と、ひとり、おばさんが降りてきた。
…そして僕を見るなり。
「…五○八号室の方ですよねえ?」
…ああ、このおばさんは隣人だ。
「ええ、はい」
「警察に連絡した方がいいんじゃないんですかあ…」
は?
「五階だからって油断していると…空き巣なんて簡単に入ってしまいますよう?」
…他人事のようにため息をついて、おばさんはすたすたとマンションを出て行った。
空き巣?
何のことだ。
何のこと…いや。
いや、ああ。
わかった。わかった途端、ものすごく嫌な予感がした。僕はエレベーターに駆け込み、五階のボタンを押し、閉まるボタンを連打する。
遅い。遅い。遅い。遅い。
三枝さんが何かやらかした…そうとしか思えない。
あの隣人おばさんのため息は、あからさまに嫌そうな顔だった。空き巣だと思っているのなら家から出るはずがない。なのに今から留守にするということは、つまりは何かに耐えられなくなったからだ。『空き巣』という単語は皮肉だ。
…三枝さんめ、何をした。
五階に着き、僕は荷物を引きずって部屋まで向かう。鍵を取り出し、ガチャガチャと手間取って…開ける。
「三枝さん⁉︎」
地獄絵図だった。
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