第2話
びしょ濡れ巨体の男を部屋に連れ込む…なんて姿を隣人なんかに見られたらなんて思われるか。エレベーターで誰にも出会さないように祈り…なんとか自室にたどり着く。素早く鍵を開け、先に男の背を押して中に入れた。
「そこで待っててください。タオルとか持ってくるんで」
…そう言って玄関から上がる僕もびっしょりだが、濡れた他人を上げるのは気が進まない。
なるべく玄関マットの上で足元の水気を取り、急いでバスルームに駆け込む…上着は脱いでしまって、タオルを三枚取り、一枚は自分の首に掛け、二枚を持って玄関に戻る。
…そして絶句した。
玄関の壁やら床やらそこらじゅうに、めちゃくちゃ雫が散っている。男はその場でシャツをバタバタと叩き、水気を切っている…ヒトサマの家の中で。
「あ…あんた、何してくれてんですか!」
「っ…!」
僕が怒鳴ると…男は青の目を見開いて、ガタガタとドアにぶつかるまで後ずさる。そこまで怯えられるほどの大声は出していないが。
…恐ろしいものを見るかのような目つきで見られては、こちらもこれ以上怒るのは気が引ける。相手は明らかに僕より年上だし。必要以上に怒ったところで、今はまだ追い出すわけにもいかないし、追い出す気もない。
僕はため息をついて、男にタオルを差し出した。
「拭き終えたら上がってください。今、お風呂沸かしますので」
「…はい」
…薄気味悪い男だ。
一時保護…と言っていいものか。そもそも僕はこいつを拾ってどうしたいのか。
まずは何があったのか聞き出さなければ始まらない。バスルームから問いかける。
「…あんた、どこの誰ですか」
「…サエグサ…カイ…」
「三枝さんね…何してたんですか、あんなところで」
「…帰るところが…なくなった」
「…火事ですか。まさか、人殺しでもしてきたとか言いませんよね?」
「…俺が、怒らせたから」
「あー、痴話喧嘩ですか」
…なかなか面倒な人を拾ってしまったな。
奥さんとの喧嘩…たかが喧嘩で家を追い出されて、このマンションの前で雨の中蹲っていたののだとしたら、なかなかのバカだ。
喋り方からも、多少なりフツウではないと伝わる。見た目は僕より年上でも、精神年齢は僕より下かもしれない。もしかしたら喧嘩も、奥さんではなく、世話人か何かかもしれないな。
早々に警察かどこかに電話して、保護したと連絡を入れるべきだろう。今頃捜索届けが出されているはずだ。
「…三枝さん、安心してください。お家には帰れますよ。きっと今頃、お家の人はあんたを探しているはずですから」
「…帰る?」
「はい。喧嘩なんてそんなもんでしょ。いつまでも怒っている人なんて、そうそう居ませんし…喧嘩の後は、お互い自己嫌悪になるものですから。だから帰っても大丈───」
「い、嫌だ‼︎ 嫌だ‼︎ 帰るのは嫌だ‼︎」
…突発的な豹変だった。
三枝さんは真っ青になり、ガタガタとふるえ出し…それから壁に拳を叩きつけ、頭まで叩きつけ、叫ぶ。喚く。
「帰ったら‼︎ 帰ったらまた‼︎ 怒って‼︎ 俺を怒って‼︎ また‼︎ 俺を‼︎」
「ちょ…壊れる! 借りてる部屋です! 弁償するの僕なんですよ、やめてください! あんたも怪我しますから‼︎」
肩を掴んで止める…思ったより重くない。僕の力でも、その巨体は止められる。
…三枝さんは獣みたいな呼吸をして、歯を食いしばり呻く。その目には涙さえ浮かべて。
…わかった。よくテレビで見るやつだ。障がい者への暴力事件。三枝さんは恐らく、世話人か家族からの暴力を受けて、施設か家かを追い出されてしまったのだろう。
「…ちょっと失礼」
三枝さんのシャツを軽く捲れば…思った通り、傷が数ヵ所見つかった。
これでは帰るところへ帰すわけにはいかない。やはり連絡するべきは警察か…そうしたところで、この人に他に頼りになる場所があるものか。参ったな。
「…す、みませ…」
「ん?」
「あなたの家…壊したから。あなたも、俺を、追い出すのか…?」
「……いや、壊れてませんよ」
どーすりゃいいんだよ。
この男はやっぱり卑怯だ。意図せずも責任を人に押し付けるのが得意なようだ。
あなたも追い出すのか…などと問われたら、ああそうするよ、なんて答えられるわけがないじゃないか。そんな怯えた目で見られては。そんな不安な目で見られたら。
…はあ。まったく。
変な奴を、薄気味悪い奴を、気持ち悪い奴を、面倒な奴を…拾ってしまったなあ。
「…追い出しゃしませんよ。安心してください。然るべき時が来るまで…というか、あんたが落ち着くまでは、ここに居させてやりますよ。それでいいですか、三枝さん?」
「…然るべき?」
「今は何も考えなくていいです…お風呂沸きましたよ。風邪ひく前に温まってきてください」
三枝さんの手を引き、バスルームに連れて行く…というか。
「あんた…お風呂、ひとりで入れます?」
「…水は怖い」
「じゃあ大丈夫ですね」
介助が必要な人…だとしても、見ず知らずの巨体野郎の風呂の介助なんて僕にはできない。できるわけがない。最悪溺れる前に助ければいいさ。
僕はバスルームに三枝さんを突っ込んで戸を閉める。
…はあ、僕も冷えてきた。さっさと着替えよう。
×
───…で、三枝さんが風呂から出てこない。
軽く温まるくらいなら十五分でもあればじゅうぶんだ。なのに三枝さんは、三十分経っても出てこない。
自分の部屋着として使っていた大きめサイズのシャツならば、なんとか着替えに使えるだろうと三枝さんに渡した…だから出てこれないことはないだろうが。
ドライヤーを使ってる音も聞こえないし。
まさか本当に溺れたのでは。
「三枝さん?」
脱衣所のドアをノックする。
返答はない。
「三枝さん、開けますよ?」
ドアを開ける。
「う…⁉︎」
三枝さんは、着替えこそしているものの、びしょ濡れ頭のままで床に蹲っていた。しかも床もびっしゃびしゃ。
また何をしているんだか、この人は…。
「どーしました…」
「…ドアが、開かなかった」
は?
「開きますって。普通に。鍵は中でしょ。あんたが閉めてたら、僕は開けられません。開けたんですから、開いたんですよ…何言ってんですか、もう」
「…開けられなかった」
面倒だなあ…。
「わかりました、開かなかったんですね。もういいですから、立ってください。髪も乾かさないと」
せっかくの着替えもびしょびしょになってしまう。サイズはなんとかなっていた。巨体の割に痩せ型でよかった。
しかしドアの開け方もわからないときたか。
かなりの重度ではないか、こいつ。
…洗面台のコンセントにドライヤーを繋ぎ、スイッチを押す。
途端、またも面倒事だ。
予想はしていたが、三枝さんはドライヤーの音にひどく怯える。身を竦めて耳を塞ぎ、ドライヤーを持つ僕と距離を取る。聴覚過敏もあるのか。
「大丈夫ですから。さっさと乾かさないと風邪ひきますって、三枝さん」
「…耳が痛い」
「だったら弱風にします。あんた、もういい大人なんですから、ドライヤーくらい我慢してくださいよ」
腕を引いて押さえつける…三枝さんは逃げ出そうとするが、暴れたりはしない。ただガタガタと肩が激しくふるえる。そんなに怖いものか。
…三枝さんの髪は少し長めの灰色。染めたようには見えない。完全に地毛だ。瞳も青色だし…元々の色素が薄いとか、外国の血が混じってるとか、そういう体質なのだろうか。
言葉も拙いし、過度に怯えるし。
本当に変な奴だ。
×
さて、かなり手間取ったがようやく片付いた。
それで、あとはこの得体の知れない男に何をしてやらなきゃいけないかって…。
「おにぎり、食えます?」
米は炊いていない。帰り際にコンビニで買ってきたおにぎりだ。鮭と昆布…本当は両方食べるつもりだったけど、仕方がないので一個分けてやるしかない。
三枝さんはきょとんと僕の手元を見つめるだけなので…鮭の方を差し出した。
そしてまたも奇行を始める。
三枝さんはおにぎりのビニルに噛み付いて剥がそうとした。
「何してんですか。貸して!」
本当に頭のネジが外れているな…。
しかもこうやって僕が苛立った声やらため息やらをつくと、三枝さんはひどく怯える。
正直面倒だけれど、そこは僕が気を遣わないといけないのか。まあ、何もかもの責任を押し付けられているとも思っていたが、拾った僕の責任も少なからずあるんだろうな。
「…これで食べられますから」
「…すまん」
「いいえ」
ビニルを剥がしたおにぎりを渡し…僕も自分のおにぎりのビニルを剥がす。その間に三枝さんは、大きくひとくち口に含む。
…が。
「っえぶっ‼︎」
咽せて吐き出した。ぼろぼろとシャツやテーブルに米粒が吐き散らされる。
「何やってんですか、もう。急いで食べるからでしょ」
「っ───‼︎ っ───‼︎」
咳の合間に必死に謝ろうとしているが、はっきり言って喋るな、もう…余計に米粒が吐き散らされる。喋るな。
「落ち着いてください。お水、要ります?」
背を叩き、さすり、宥め…ようやっと三枝さんの咳は落ち着く。よだれまみれになった米粒はベトベトとシャツに張り付いて…見ているだけで不快だ。棚からウェットティッシュを取り、さっさと吐き散らされたものを片付ける。他にこの人サイズの着替えはあったかな…探しておかないと。
…三枝さんが落ち着いたところで、キッチンに向かい、水を持ってくる。三枝さんに渡す前に念を押した。
「ゆっくりですよ。ゆっくり飲んでください。誰も奪いませんので」
「…はい」
三枝さんは敬語とタメ口がめちゃくちゃだ。
…僕に言われた通り、ゆっくり水を飲む。それから食べかけのおにぎりをまた口にして…食事の動きはぎこちなくも、どこか必死な様子だ。食事もまともに貰えなかったのか?
僕は昆布おにぎりをもぐもぐしながら三枝さんを観察する。顔立ちは綺麗だ。歳は現れているが、いわゆる『美青年』と呼べなくもない。青年というよりは…壮年。何歳なんだ、この人。
「三枝さん、何歳ですか?」
「……な」
聞き取れなかった。七?
「三十七歳?」
…三枝さんは首を傾げ。
何も答えず、おにぎりの残りを頬張った。
三十七歳…さすがに四十七にはまだ見えないし、二十七にも見えない。恐らく三十代だ。
…それともまさか、ただの七歳だとは言うまいな。だとしたら『頭のネジが外れている』では言い表せない、相当可哀想な人だぞ。
…おにぎりも喉を通らない。
「…ご…」
「ん?」
「ご馳走様…です…でした…」
「ああ、はい」
三枝さんはぎこちなく呟く。
「こんな…食事は、貰ったこと…ない」
「…それってどっちの意味です。安い飯? それとも、まともな食事として?」
「…いつも、羨ましいと思っていた」
…言っている意味はなんとなく伝わった。つまり、まともな食事として喜んでくれたというわけか。
コンビニおにぎりが羨ましい食事と言っちゃあ…以下略だ。さっきから同じことしか思わない。
三枝さんはだいぶ…色んな意味で、可哀想な人なんだな。
「…あんた、どーするんです、これから」
「…これから?」
「お家には帰りたくないんでしょ…でもきっと、そのうち捜索されます。ひどいことするお家の人に見つかるくらいなら、僕が先に、別のどこかに助けを求めてあげますが…どーしたいんですか、あんたは」
……三枝さんは俯き、ガリガリとカーペットを引っ掻く。毛羽立つからやめてほしいな。
「…ここに、は」
おっと、何を言い出すかと思えば。
「言っておきますが、ここには置いておけませんよ。僕にも仕事があります。あんた、ドアもひとりで開けられないときた…そんなんで、ここでひとりで居られますか」
「さ、さっきは…然るべき…と」
「明日明後日は休日ですからね。あんたの面倒も見られなくもないですが…けど、お買い物や、もし僕が、職場から急な呼び出しがあった際は、あんた、どーします?」
「……」
「時間がありません。あんたもいい大人です。自分のことはご自分で、ちゃんと決めてください。難しいことは僕がなんとかしますから」
「……」
ガリガリ、ガリガリ…カーペットが掻き毟られる。本当にやめてくれ。高くはないがこだわって購入したものなんだから。毛羽立つ。
三枝さんはまたも涙目だった。まったくみっともないなあ…有無を言わさず警察に突き出した方がこいつのためなんじゃないか。
「…三枝さん」
「わ、悪いことは…しないから」
は?
「悪いことはしない…ドアも、開けられるようになる…悪いことはしない…」
あー、そう来る。そう来たか。
「俺をここに置いてくれないか」
…と言って僕に向けてくる、切実に懇願する哀れな青い瞳。縋り付くような暗い色。ズタズタな眼差し。しかし問いかけ。責任を求めて、押し付けて、救いを望む。
卑怯な目だ。
そんな目を向けられて、断ることができるか…いや、今なら衝動に任せて「無理」の一言くらいさらりと吐ける気がする。そう言い放って、警察に電話したならそれでおしまいだ。何も面倒なことはない。
…けれど、三枝さんの目はそれを許さない。
その言葉を飲み込ませる。
一度拾ったものの責任だ。一度手を加えたものをまた捨てたなら…この時点で、もう何もかもが僕の責任なんだ。
例えば。
一度でも助けようとした、風呂にも入れて、食事を与えたこの男が僕の部屋から追い出されて…明日、僕が外に出た時に、路上で車に轢かれて死んでいたとしたら。
その時、僕はどんな感情を抱くだろう。
あー、死んでる…その程度で済むか。
名前も知っちまった男のことを、他人事で済ませられるか。
…無理だ。
「無理だ」
…僕はため息をつく。
三枝さんが怯える。
それが僕の返答だと思ったか。
…ちがう、と言おうにもだるい。
僕は僕の調子で、ゆっくりと、ぼんやりと、のろのろと、頭を掻いて、ため息をつき、天井を見上げ。
「…あんた、本当にずるいです」
「…ずるい?」
「返す言葉も言わせてくれない…すべて僕の責任ですか。あーはい。そうですね」
…僕は三枝さんの顔を見つめ。
…けれど、もう見るに耐えなくなって目を逸らし。
…項垂れて。
「あんたの死体を見たくありません。いい子にするんでしたら、置いといてあげますよ、三枝さん」
嫌な予感はしなかった。
だから僕は、この人を拾ったんだ。
覚悟は足りないが、今更、もう、遅い。
僕はこの人を拾った。
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