colchicum.

四季ラチア

第1話

真っ黒な夜の空から雫が降り注ぐ。

仕事帰りの僕は傘を持っていない…天気予報は大外れだ。

駅から家まではそう遠くないが、濡れるのは御免だ。とはいえ、道ゆくサラリーマンの中年がそうするように、鞄を頭上に乗せて走ることもできない…重要な書類がボロボロになってしまいかねない。むしろ鞄は守る。

できるだけ、並ぶ店の屋根下を通って歩く。本当は走りたいところだが、僕のような年齢で猛ダッシュするなんて、まるで阿呆のようだから我慢する。

お陰で既にびしょ濡れだ。

最悪だ。

来週から重要な役割が与えられそうなのに、風邪でもひいたら迷惑どころか、仕事から外されるぞ。あーもう、何もかもポンコツ天気予報が悪い。

ひと気も少なくなり、いよいよ諦めを装ったのろまな歩きから小走りへ…そして必死に走る。もうすぐ自分のマンションだ。夏も近いというのに、凍えてふるえるほど寒くなってしまった。

走る。地面が濡れて滑り、転びそうになるのを堪えて走り…マンションは目の前。


…と。

その出入り口の前に、蹲る人影があった。

雨の中で傘もささず…縮こまり蹲っているにしては目立つ巨体で。

何だ、ただのバカか?

それとも体調不良か?

まさか幽霊とか?

…僕は思わず足を止める。屋根もないところで立ち止まれば、僕もそいつと同じようにびしょ濡れになる。だから風邪ひくってのに…どうしても気になった。

気になって。

「…どーかしましたか」

夜の暗闇の中、マンションの出入り口の中からの僅かな灯りで、そいつを確認する。

少し長めの灰色の髪…薄汚れたシャツは濡れて張り付き、見るからに不快そうで、寒そうだった。

…僕が声をかけると。

…そいつはゆっくりとこっちを向く。

人のものとは思えないほど綺麗な、鋭い青の瞳。

「……さむい」

ふるえた掠れ声で、そいつは、男は呟いた。

そりゃ、寒いだろうな。こんな雨の中で、そんな薄着で、一体いつから居たのだろうか。

はっきり言って、なんだか気持ちの悪い奴だ…こんな雨の中で、僕よりも大きな体で蹲っている。青の瞳は獣のように鋭いが、ひどく怯えていて、大人なのに、子供のようで。

「…ずっとそこに居るつもりですか」

……。

返答はなく、男は目を伏せた。

逆に腹が立った。

まるで答えを求められているかのようで。責任を押し付けられているかのようで。その裏で、懇願されているようで。求められているかのようで。卑怯で。

…怯えて。

…僕は腹が立って。すごく苛立って。

このまま、この得体の知れない奴と、こんな場所でびしょ濡れになっているのもバカバカしく思えて。

「…立ってくださいよ」

「…え」

「あんた、今…不審者同然ですよ。そんなところで小さくなってたって、逆に目立っています。悪目立ちです」

つまりは、さいしょから僕は。

「とりあえず来てください。なんだかあんた…僕に助けを求めているように思えるので、見捨てるわけにもいきませんから」

…さいしょから、見捨てられなかった。

拾う理由を押し付けたのは僕の方だ。

僕は男の腕を掴み…若干の抵抗を無視して、そのまま、マンションの中へ連れ込んだ。


嫌な予感はしなかった。

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