セピア色のティアラ
野口マッハ剛(ごう)
甘い幻
五十代半ばの私には悩みの種は尽きず、丸々と太った女房、もう三十代になるというのに働きもしない一人息子、仕事は定年が見えない。もはや私はどうしたらいいのだろうと、バラバラの退社時刻にため息をつくのが日課みたいなものとなった。電車で揺られる夜の景色も何もない黒色。私はどうして生きているのだろうか? そんな疲れた心であった。
たまの飲み会が生きがいだ。酒の場の失敗だけは誰にも負けない。しかしながら、あまり胸を張って言えたことではないなと思う。徒歩で夜の家路につく。空は真っ暗で、まるで私の人生の様だ。いかんな、やはり疲れているな。
自宅に帰ったのが、夜中の十二時で、息子はテレビで何かのアニメを見ている。私は全く興味がないのだが、何が楽しいのだろうか? 理解できない。そして、冷蔵庫から缶ビールを取り出しゴッゴッゴッと勢いよく飲む。はあ! 生き返る思いだ。
自分の寝室に入る。女房とはかれこれ一緒に寝ていない、というよりは、寝たくない。もう可愛くなくなった、結婚とは忍耐だと私の結婚当初の誰かの言葉を思い出す。誰が言ったのだったかな? あの時の女房は小顔で痩せて、それはティアラが似合う女性だった。色あせたなあ、私もビールっ腹を気にするが。隣の寝室からイビキが聞こえる。女房のものだ。私は布団に入った。
どうやら、夢の中の様だ。なぜ夢とわかるかって? 目の前に若かりし頃の女房が笑顔で立っているからだ。ああ、懐かしい。けれども、夢はパタッと終わった。朝だな。目覚まし時計を止める。さて、今日も仕事だ。ちょっと体が軽くなっているようだ。どうしてだろう、今更、女房の若い時の顔を仮に見れたとしても何も感じないだろうに。女房は朝食を作っていた。黙々と食べる私と女房。息子は夜更かしをしているから起きてこない。これから息子はどうなるのだろうか?
仕事はどちらかというと怠惰だ。私はいわゆる窓際にいる。いつ仕事がなくなってもおかしくはなかった。新入社員を見ていると、いつも思うのだが、何が楽しいのだろうか? 仕事は営業スマイルで生き生きとしている。私にもあったなあ、そんな時代がね。今は窓際でパソコンに入力するだけの日々。私はこの人生が苦しくなってきていた。
会社の屋上でタバコを吸う。最近の若い社員は吸わない。よくそれで精神衛生が成り立つな? 空を仰ぐ、青色だ。私にもあったな、若い頃の夢というものが。それで女房を食わしてやるとなど思ったものだ。だが、それはただの夢だった。今どきの若い世代はそれがあるのだろうか? おっと、珍しく若手社員が屋上に来た。聞いてみようかな? 近づく。
「うっ、タバコ臭いっすね」
そう言われて、私は言葉をしまう。
今日も退社時刻だ。今日は仕事が少なかった。夕方である。
私は一人で居酒屋に入った。次第にアルコールで意識がぽわんぽわんとなる。ああ、心地いい。真っ直ぐに前を見た。私は目を疑った。若かりし頃の女房が座っている。頭にはティアラをしている。私は目をごしごしとこすった。それから視界に誰も座っていない。やはり疲れているのだな。早く帰ろうか。
自宅に帰ると女房がテレビを見ている。ただいま、と言っても何も返事はなかった。もう一回、大きめに声に出してもうんともすんとも言わない女房。丸々と太っているのが腹立たしかった。すぐに私は寝室へ。最近の私はどこかおかしくなったのだろうかと考える。バタッと布団に倒れこんだ。
夢は何も見なかった。つまらない、今日も仕事だ。悩み事が日に日に増えていく。私はいつしか会社の屋上で逃げるようにタバコを吹かしている。何に逃げているかって? 現実、それらは私に負担となる。
タバコの煙の向こうに、若かりし頃の女房を見た。小顔で痩せて可愛くて笑顔で初々しくて。気付けば私は病院のベッドに寝ていた。目の前には、女房が丸々と太っている。私は天井を見つめる。何だろう、医者から病名と症状について説明されても何一つ頭に入って来ない。
私は女房の幻に夢中になっていた。この目の前にいる女房は偽物だ。私は幻を本物だと錯覚をしている。
日に日に私は呼吸がしんどくなってきた。
病室で、若い時の女房の幻を見ては楽しんでいる私。
私には私がどうなっているかなど見当もつかない。ただ言えることは、こうして女房と一緒に居られる、その感覚が楽しくてたまらない。
私は女房の幻と会話をする。段々とありとあらゆる苦しみから解放されてゆく。私は手を伸ばす。女房がティアラを私に見せてくれるのだと言うから。
しかし、私はわかっていた。
この幻こそが偽りであり、本当の女房はもう逃げたのだと。
だから、最後に見せてくれ。私にあの若かりし頃の夢の続きとやらを。今の私は残り少ない人生を、この甘い幻とやらに命をささげたい。
セピア色のティアラ 野口マッハ剛(ごう) @nogutigo
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