プロローグ ~隣の少女~ 2

 優花ゆうかが謎の少女と出会ったのは、つい昨晩のことである。


 ――夕飯、なににしよっかな。


 一人暮らしを始めた時に、一目惚れしてローンまで組んでしまったクロスバイクを漕ぎながら、優花はぼんやりと考えていた。


 ――カレー、シチュー、お鍋……は、ちょっと時季外れ? 和食もいいけど、養殖もいい。つかれてるし、ちょっと多めに食べたいかな。


 風景を後ろに流しながら、風を切る感触がとても心地よい。スーパーまでの道を颯爽と走る道すがら、ギアをカチカチと弄っては優花は料理のレパートリーを思い浮かべている。


 ――んー、まだちょっと肌寒いし野菜もおいしいから鍋系にしよっかな。あー、でもすき焼きもいいな。


 足腰にかかる僅かな負荷も、ぐんぐんあがるスピードの爽快感が帳消しにしてくれる。

 せせらぎが聞こえ、春の草が生い茂る河原を走る優花。ふと、右手につけたビーズのアクセサリーが下がってきて、軽く手を振る。

 その拍子に、優花は気がついたのだった。


「……ん?」


 膝を抱え、フードを被って座り込んでいる女の子がいた。ギアを落としながら停止し、優花はクロスバイクから降りる。

 周りを見るも、親らしき人も友達らしき人もいない。優花が止まっている横を車は走り去り、ジョギングする大学生が通りすがるが、誰も気にした様子もない。


「あの、どうしたの?」


 迷うことなく声をかけた優花は、女の子の近くに同じように座る。柔らかく、湿っている草の感覚は何年ぶりだろうか。

 優花の声に、女の子は顔を上げた。あどけなさが残る、ぱっちりとした目元が特徴的だった。年の頃は十歳に入ったか否か、小学校の中学年頃と思しきその女の子は、優花を見てきょとんとしていた。


『あっ、そのえっと……』

「怖がらなくていいよ。そうだ、キャラメル食べる?」

『うん、大好き!』


 女の子は迷うことなく渡されたキャラメルを頬張る。寸刻前の戸惑いはどこへやら、にっこり笑顔で優花を見ていた。

 その笑顔に優花も釣られて微笑みながら、一緒にキャラメルを口にした。


『って、知らない人からもらっちゃいました!』

「あはは、アタシも知らない子にあげちゃったや。それで、こんな所でどうしたの?」

『えーっと……その、信じられないかもしれませんけど、ちょっと思い出せないんです』


 見た目の割にはしっかりした受け答えができる子だ。礼儀正しい話し方をするところが実にかわいらしい。


「え、どういうこと?」

『どうしてわたしがここにいるのか、なんでこうなってるのかとか、ちょっと分からないんです。逃げてきた、ってことはなんとなく覚えてるんですけど』

「……それって」


 優花がひらめいたのは、両親からの虐待を受けて逃げ出した……とかそういった出来事だ。これぐらいの子どもが家から逃げるとなると、余程のことがあったからに違いない。ショックで記憶を失ってしまい、思わず逃げ出したのではないか……とは、優花なりの推測だ。

 しかし、わざわざ虐待がどうとかを、忘れている少女に言う必要はあるのだろうか? 迷った優花は口をつぐんだ。


『なーに?』

「何でもない。でも、これからどうするの? どこか行く当てとかある?」

『ないです。それで、どうしようかなぁとぼんやり考えてたんです』

「そっか。河原って落ち着くもんね」


 そよそよと吹く春風と、優しい小川のせせらぎ。つい先日までピンクに染まっていた桜並木は、見事な新緑の息吹を振りまいている。

 見ているだけで落ち着く景色の中で、優花はかつての日々を思い浮かべていた。



 その景色の中で優花は無邪気にはしゃぎ回っていた。

 落ち着くことが何よりも好きだったの分まで、遊び回っていた。

 そう、ちょうど綺麗な魚が目に止まって、川に飛び込んで――


 ――「もう、危ないよ、ゆうちゃん」

 懐かしい人の声が聞こえてきそうだった。



 思い出すのを拒むように、優花は首を振る。自然から目をそらして、少女の方を見た。


『どうしよっかなぁ』


 独り言つ少女が、被っていたウサギのフードを取る。


「……え!?」


 思わず立ち上がってしまった。少女はびくりと背筋を強ばらせて優花の方を見る。

 フードをとったその子の耳には、がついていた。


「え、なにその耳?」


 優花はその耳を手に取ってしまう。かつて触ったことのあるホーランドロップの耳に、感触からなにまでとてもよく似ていた。優しく引っ張ってみた感じ、どうにもウィッグの類いではなさそうである。


『耳?……うわ、本当だ!』


 少女も驚いたように耳を触っている。明らかに異常な風景だが、しかし道行く人々は優花を一瞥すると、何の反応もなくそそくさと去って行くだけだった。


『なんなんでしょう。わたしにも分かりません』

「わかんないの? んー、なんなんだろ」


 気になってしまい、優花は少女の側頭部の髪をかき上げる。そこにはちょこんと小さくて可愛らしい人間の耳がついていた。

 何もなかったらどうしようかと思っていた優花はほっと安堵する。――これはこれでより不思議さが増しているだけな気がするが。


「おーい。君、何やってるの?」


 思わず聞こえた声にびくりと背筋が伸びる。

 そこにいるのは、自転車に乗った強面の警察官だった。見た目とは裏腹に、かける声は優花に対する心配の色が強い。


「怪我でもしたのかい?」

「あの、ちょうど良いところに。実はこの子なんですけど、」

「この子?……見た所、だけど」

「え?」


 警察の人がふざけているようには見えない。

 言葉を交わす度に優花を見る表情が怪訝になってくるのである。

 顎に蓄えた髭にさわりながら、首をかしげる。


「大丈夫? 頭とか打った?」

「あはは、すみません大丈夫です。ちょっと妄想と現実の区別がつかなかったです、はい」

「……一応聞くけど、変な薬とかやってないよね?」

「やってませんって!! 説得力ないでしょうけど、本当にやってませんから!!」


 この町でもそういった変な薬が流行っているらしいことは風の噂で聞いたことがある。

 警察の人は優花をじっと見つめる。その迫力に優花は怯んでしまうが、別にやましいことはしていないのだからと堂々とするように努めた。


「まぁ、お嬢ちゃん変な子には見えないしな……最近物騒だからね。何だったら送っていくけど?」


 物わかりが良いのか呆れられたのか、先の言葉を流しながら優花に問う。


「大丈夫です! これからスーパー行きたいですし!」

「……ま、遅くなる前に帰りなよ」


 警察官は自転車に乗って立ち去っていく。


 終始女の子に触れなかった警察の人だったが、同時に今までこの子に誰も気にかけなかったことについて謎が解けた。


 信じがたいことではあるが、この女の子は優花にしか見えないらしいのだ。


 どうして自分にだけ見えるのか? どうして他の人には見えないのか?

 頭を強く打った覚えもなければ、別に変な薬をやった覚えもない。でも、優花には間違いなく見えている。


 ふと、もう一度少女の方を見る。先の会話を聞いていたのだろう。少女も同様にぽかんとしてしまっている。


『え、わたしってもしかしてお姉さんにしか見えてない?』

「ぽいなぁ……本当に、何も覚えてないんだよね?」

『覚えてないです。どうしちゃったんだろ……』


 ため息をついてしゃがみ込む。

 つられて目に入った影はだいぶ長くなっている。ここで考え込んでいたら、それこそ日は沈んでしまうだろう。


 ――……そうだ。


 優花もまたしゃがみ込んで、少女の肩を叩く。

 顔を上げた少女は、さっきよりも顔色が優れない。そんな少女を安心させるために、優花は戸惑いながらも朗らかな笑顔を見せる。


「すき焼きと魚介鍋、どっちがいい?」


 唐突な質問にぽかんとした様子だったが、優花の言葉の意図が分かると少女の顔がぱぁっと明るくなった。


『すき焼きです!』


 ***


「んー、特にそういう情報は出てないよ」


 講義が終わった後、優花ゆうか桔梗ききょう、そして、見えない少女は歩きながら会話をしていた。

 優花は少女と手をつないでいるが、当然その姿は桔梗には見えていない。


「そっか、ごめんね。なんか妖精が出てくる本を読んでたから、ちょっと気になっちゃって」

「あはは、ファンタジーだね。んー、確かにそう言うのって見えたら面白そうだよね」

「そうね。実際その立場になったらびっくりしそうだけど」


 現に昨日から驚きっぱなしである。一緒にすき焼きをつついたり、お風呂に入ったりしたが、普通の人間と接しているのとなんら変わらなかったのだ。こうして今触れている手からは、確かなぬくもりを感じている。


「あ、そうだ。ユーカさ、もし不思議なことがあるんだったら、良いところがあるよ」

「良いところ?」

「そ。と言っても、変なところじゃないよ」


 桔梗はにっこりと柔らかな笑顔を浮かべながら、優花の顔を見る。


 その刹那、穏やかな皐の風が吹き付けた。

 狙ったかのようなその風に、優花の髪がふわりと揺れる。


「ユーカ、?」


 何か、不思議な予感がするのは、気まぐれな皐の風のいたずらだろうか。

 舞い散る葉桜を見ながら、優花はコクリと頷いた。

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