名もなき物語 ~修羅に染まる町~

白カギ

序章 別離と会遇

プロローグ ~隣の少女~ 1

「ユングが提唱した『集合的無意識しゅうごうてきむいしき』を知っているかな。先の講義で言ったが、人間には意識と無意識があり……」


 ぽかぽかとした日が当たる、昼飯を食べた直後の穏やかな時間帯。昼下がりの講義ほど、眠気を誘う物もない。現に、隣の席の少女はすやすやと寝息を立てている。


 必修科目の都合で受けている心理学の講義だが、講師がただレジュメに従って話をしているだけで、講義の最後に小レポートを書けば出席扱い。期末にもテストの類いはなく、毎時間の小レポートを元に単位が出される。ある意味でとても学生から人気の高い講義である。


 朱崎あかざき 優花ゆうかもまた、その人気にあやかって参加している学生である。隣で眠る少女の姿を見て、ぼんやりとあくびを漏らした。


「人の意識の奥底には、全人類が共通する無意識がある、と言う考え方だ。各地の神話体系に似た話が存在するのは、集合的無意識があるから……とか考えてみると、面白いだろう?」

 

 やる気を出してこの講義を聞いているのは、前の席に座っているごく一部の学生だけ。半分から後ろにいる学生は、スマートフォンでゲームをしたり、友達と話したり、うたた寝をしたり――かくいう優花も、講師の言葉を右から左に、午後の眠気とともに受け流していた。

 大学ではなんとなーく許されてしまうこの緩い雰囲気に、入学した時は面食らったものだが、それも一ヶ月前の話。今や大学とはこういう所なんだなと順応し始めている。


「個人を越え、人類の心に普遍的に存在する物がある、とするこの考えが私は好きでね……」


 伸ばした髪の毛をくるくると指に巻いていると、寝ている少女の反対側から肩をトントンと叩かれる。大学でできた最初の友達である桔梗ききょうだ。彼女も大多数の学生の例に漏れず、携帯を構っている。


「ユーカ聞いて。また放火だって」

「最近多いよね。犯人早く捕まらないかな」

「ね~。おちおち昼寝もできないよ」


 言葉とは裏腹にのんきな物言いで欠伸を漏らす。実際に目にしたことはないが、この渦波市うずなみしで起きていることだ。今月頭に始まって、通算四回目。この町に住む優花の耳に嫌でも入ってくる。

 かわいらしい天然パーマを揺らし、桔梗は心配そうに優花の顔を覗きこんだ。


「また今回も空き家みたいで犠牲者はいないみたいだけどさ、ユーカも気をつけてね」

「気をつけようがないのが怖いね……はぁ、引っ越してきたばかりなのに最悪」

「いざとなったらウチに逃げていいからね。お、"怪盗チェスター"の話題だ」


 暗い話題を変えようとしたのだろう。次の話題を見つけて、食い入るように携帯の画面を見つめる桔梗だった。正直な話、心配してもどうしようもないことはどうしようもないのである。警察も動いているだろうし、遠からぬうちにきっと捕まるはずだ……と高を括れるのは、まだ実際に焼けた建物を見たことがないからだろうか。


「そういう情報ってどこから入ってくるの? ニュースだとさ、そんなすぐに入ってこなくない?」

「渦波市専用のニュースアプリだよ。書き込み掲示板もあって、噂話とかもよく書かれるんだ。飼い猫がいなくなった~とか、学校の七不思議はなんだ~とか与太話も山ほどあるんだけどね」

「へぇ。時代は進んでるね」


 掲示板からの情報となると、なかなかに眉唾物ではあるが、アプリサイトのレビューからはどうも人気は高いらしい。

 アプリをダウンロードしようかと思ったが、通信料がもったいないのでやめた。


 ふと、優花は隣で眠る少女の方を見つめ、さらさらの髪をなでる。くすぐったそうに声を漏らした少女に、ふと笑みが漏れた。


「……ねぇ、少し気になるんだけど」


 桔梗は「なーに?」とぼんやりと聞いてくる。優花は桔梗の方に向き返り、至極真面目な表情で問いた。


の話題、とかってないのかな?」

「見えない女の子!?」


 驚きの声を上げながら顔を覗きこんでくる桔梗。その声に周りの視線がこちらに集まった。


 桔梗の声に、眠っていた少女は目を覚ます。小学生ぐらいの女の子はうーんと人目を憚ることなく伸びをした。


『……んんー、お姉ちゃん?』


 普通、講義中の教室に小学生がいれば何かしら注目の種にはなるだろう。

 だが、ごしごしと目をこする少女の姿に、桔梗はもちろん誰も気づいた様子がない。



 それもそのはず、今隣に座る少女は、のだから。



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