#4 月夜の別れ


 とても綺麗な、夢を見た。


 暖かな台所の中で、とても嬉しそうに料理をする"お姉ちゃん"の姿を見た。


 爛漫と咲く春の桜のように、どこまでも明るい笑顔を浮かべている。元々美人だと思っていたけど、笑った顔はとても素敵で、女であっても惹かれる物がある。


 ――「すき焼きと魚介鍋、どっちがいい?」


 だからこそ、河原での問いかけに、何の疑いも恐れもなく着いていくことができたのだと思う。あの明るい笑顔に絆されて、キャラメルを頬張ったのが、一昨日のことながらとても懐かしい。



 "お姉ちゃん"は見る見る間に料理を終わらせていく。

 材料の切り方はどこかムラがあって、味付けも目分量でかつ豪快。がさつな所も目立つけど、パンチの効いている味はとても"らしい"。一緒に食べたすき焼きはまさにそんな味付けで、疲れた体に濃い味が染みこんだ。


 狭い台所の中で、踊るように調理を続ける"お姉ちゃん"。ピンク色のエプロンをつけて、くるくる回る姿は、可憐に咲く薔薇を彷彿とさせる。


 ――「ストーカーかな……ラン、ちょっと良い?」

 ――「気のせいなら戻ってこれば済む話でしょ?」

 ――「できればアタシ、町田に一発蹴りたいんだけど」


 ……不審者を撃退しようとか、火事現場に突っ込もうとか、放火魔に一発かまそうとか、そういう物騒な事を言う"跳ねっ返り"な子と同じだとは思えないぐらい。

 あの、頼りになる姿も、格好いいんだけれど――。

 

 あぁ、やっぱり"お姉ちゃん"はかわいい。


 台所に広がる匂いが混ざり合い、お弁当作りも終局を迎える。淀みなく抜かりなく、慣れた手つきで料理をしながら、"お姉ちゃん"は楽しそうに"わたし"を呼ぶ。


「――ね、お姉ちゃん?」



 ――こんな日々がずっと続いていたんだと、安心できた。


 これはいつかあった記憶の再生。

 いつのことか、思い出せなくとも、間違いなく経験した日常の景色。

 ""と過ごした、幸せな風景だった。


 ***


「満月、お姉ちゃん……?」


 ""の懐かしい笑顔を塗り潰すように、"空気の渦"は爆発する。


 顔を覆った優花に、コツ、コツと小さな感触が訪れる。

 それが、昨晩"彼女"に作ったビーズの残骸であると気付き、いっそう優花の不安をかき立てる。

 なにかが倒れる、小さな音が聞こえた。

 その音を合図に、優花は肉が焦げる嫌な臭いを払いのけながら"彼女"に走る。


「お姉ちゃ――」


 駆け寄った優花は絶句する。


 その少女の全身には、痛々しいまでの大きな火傷の跡。優花を突き出した右手から先は、爆発の拍子で千切れてどこにもなくなっている。火傷の傷が走る断面からは、血の一滴も流れていない。まるで、はじめからそんなもの彼女の体内にはないとでも言いたげに――。

 目を背けたくなる程痛々しい"彼女"の姿から、優花は目をそらす事ができなかった。


「うそ、そんな、なんで! そんな、そんなわけ……」


 そんな訳がない、ありえないと否定したがる理性(じぶん)がいる。


『あはは――やっぱり、ゆうちゃんみたいにカッコよくなんて――わたしには無理だったね――』


 動く事もできない体を抱き起こすと、"彼女"は力なく微笑む。弱々しくも、どこか強かさを隠し持つ微笑み。ベッドの上で穏やかに話していた生前の姿と重なってしまう。


「お姉ちゃん、なの……?」

 

 絶対にそうだ、違いないと肯定する本能(じぶん)がいる。

 震える声での問いかけに、彼女は小さく頷いた。

 

『本当、ゆうちゃんは変わらないなぁ――わたし、とっても嬉しかった』

「だ、ダメ! 喋ったらダメ!!」


 既に間に合わない傷であることは、素人の優花でも薄々と感じている。仮にここに最高峰の医療設備があった所で、誰にも見えない――自分にしか見えない"彼女"を誰が治すというのだろう。

 千切れた腕は、どこにも転がっていない。ビーズのアクセサリーがそこらに散らばっているだけだ。"表"の常識が通用しない"彼女"をどうやって治すというのだろう。


 その事実が、優花の心を動揺させる。嫌な汗が体中から噴き出し、鼓動が猛々しく鳴り響く。残響が優花の鼓膜を刺激し、荒くなった息の音と合わさって不協和音を奏でる。


『わたし――ゆうちゃんに、会って言いたかった事が――』

「ダメよ、絶対に助ける! そうよ、まだきっと間に合――」


 優花の頭に、ぽんと優しく手が置かれる。

 どこまでも懐かしい感触に、優花の動揺が、あの日の台所のように穏やかになる。


 溢れる涙は止まらない。ぽん、ぽんと力なく、優しく、満月みつきは優花を撫でていた。


『ごめんね、ゆうちゃん――不安にさせて、怖い思いばっかで――本当に――ごめん、ね』


 頭に手を置いて、撫でる。

 "青葉園"の年長者でありながら、満月は年上らしい振る舞いをほとんどしなかった。そんな満月が、唯一"弟"や"妹"達に行う、年上らしい癖だった。

 褒めるとき、安心させるとき、諭すとき、慰めるとき……数え切れない程やられたこの動作が、堪らなく懐かしい。

 これ以上優花を不安にさせまいと、泣きたい気持ちをこらえて満月はただ笑顔を力なく浮かべていた。


「お、お姉ちゃん――アタシ、アタシ――」

『――この町に、これからわざわいが訪れる――』


 焦点が合わない目で、必死に満月は優花を見つめようとしている。

 謝るのは、自分の方だ。伝えたくとも、渇ききった喉から声が出ない。出てくるのは湿った涙だけだ。


『だから――お願い、ゆうちゃん――』

「い、いや――」


 左手にかかる力が、徐々に弱くなっていく。


『――絶対に、死なないで――』


 満月の最期の灯火が消えていく。そんな予感に、落ちていく左手を優花は手に取った。


「いや、お姉ちゃんも生きてよ!! いや! アタシ、嫌だよぉ……!」


 周りにいる海翔や"天使"の事など忘れて、涙を流し叫び続ける。小さな女の子のように、優花は必死に満月の手を握り続ける。


 小さなその手に、既に温もりはない。


 空に上った上弦の月が、満月の最期を看取るように柔らかな光を差し込む。

 弱い月明かりに照らされた彼女は、ふっと力弱く微笑んだ。


『ゆうちゃんなら、きっと大丈夫』


 月光の如き穏やかな言葉が、しんと優花の心に染みこむ。


 握っていた手の中はうろ。顔を上げれば、さっきまでそこにあった満月の小さな体はどこにもなくなっていた。


「――――!」


 言葉にならない叫び声が、森の中に響き渡る。

 月夜に叫ぶ慟哭の声は、誰にも届かなかった。


 ***


 優花の慟哭が響く中、その光景をぼんやりと見ていた"天使"は、響き渡るその声に顔をしかめながら欠伸を漏らす。


「あぁ、"ウサギ"やっちゃった。じゃあ、もういいや」


 ここにいる意味がなくなった。その程度の後悔だけ遺して、"天使"はゆっくりと森から出ようとする。


「帰すわけねぇだろ」


 その声が聞こえた時には、"天使"は空に浮かぶ欠けた月を見ていた。

 「えっ?」だらしなく広げた両の細腕を砕かんばかりの勢いで踏みつけられて、驚きの声が悲鳴に変わる。


 その眼前に刀が突き立てられた刀が、悲鳴を引っ込める。


 肩で息をしながら、"天使"は彼――海翔に向けて挑発の言葉を吐き出す。


「……あら、女には手を出さない、って噂だったけど?」

「まぁな。だが、女を泣かせる畜生風情に男も女もクソもあるか」


 両の目に灯るその色は強い怒り。魔力を行使したのか、その体躯と同様に真っ赤に染まったその瞳が、彼の怒りを露わにし、そして一切の手心を加えるつもりがないと言わんばかりの鬼の形相を作り上げていた。


 今すぐにでも刀を振り下ろされる。そんな生死の境に立ちながら、"天使"は、


 ただ、嗤った。


「人外風情が、何を言う」

「!?」


 ほんの僅かの動揺。

 細腕の、それも砕かれた腕のどこにそんな力があるのか、"天使"は両腕に力を込めて、腕の力だけで海翔を撥ねのけた。


 するりと拘束を抜けた"天使"は立ち上がり、海翔の顔面をその長い爪で抉り取ろううとして、


 一筋の風が、その右手を射貫く。


「痛った!」


 痛みに呻く"天使"の右手に刺さったのは、仄暗いオレンジ色のダーツ。


「ねぇ、教えなさいよ」


 ダーツが飛んできた方から聞こえる、静かな声。

 その静けさは、噴火直前の火山を彷彿とさせるほど、感情をなんとか抑え込もうとする力に満ちていた。


「なんでお姉ちゃんがああなってたの――」


 一歩、一歩と歩みを進める。その気迫は海翔ですら怯ませるほどに。

 その両の目には、跡ができるほどの涙が今なお流れ続けている。


「なんで、お姉ちゃんを狙っていたの――」


 右の手に最後の一本を握りしめながら、


「アンタの知ってる事、洗いざらい話しなさいよ!」


 朱崎 優花は"天使"に吼えた。

 "天使"は、呆気にとられた表情を見せて、目だけで辺りを見渡している。

 

「……なんで?」

「はっ!? さっきからアンタどこ見てんのよ!?」

「……あぁ、ごめんなさい。


 "天使"は何かを呟きながら、ようやくその焦点が優花に合う。

 涙を未だに流す優花と、"天使"の青い目が合った。


 友達との些細な話の中のように、

 落語を聞いている最中のように、

 美味なご飯を食べた時のように、


「アッハハ、そっか、そういうこと!」


 "天使"は、年甲斐の女らしく、朗らかに笑っていた。

 性格の悪い先までの嗤いとは違う。ただ、優花を見て"天使"は笑った。

 

 怒りに燃える優花とは対照的に、楽しそうに笑う天使。その声に、優花の怒りは更に増していく。


「なにを笑ってんの!?」

「あの、アハ、その、ハハ、気に障ったならごめんなさいね? 貴女がとっても面白くって」


 その所作がよりいっそう優花の腹を立たせている事に"天使"は気づきもしないで、無邪気に笑う。

 同時に、右手に刺さったダーツを勢いよく抜き取り、その鮮血が周りに散らばった。


「教えるつもりなんて毛頭ない。けど、血の気の多いヒトは大好きよ?」


 その右手から溢れる鮮血を"天使"はペロリとなめる。


 柔らかな月明かりの中で、小さな口元が、真っ赤な鮮血で染まりきる。

 自然のスポットライトに照らされて、輝いて見える白い肌を、真っ赤な鮮血が彩っていく。白と赤のコントラストがどこまでも不気味で悍ましく――どこか、美しい。


「ワタシは雪那せつな。朱崎 優花、知りたい事があるなら、自分で求めたらどう?」


 真っ白な顔を鮮血で塗らしながら"天使"、雪那は、恍惚とした表情で早口にまくし立てる。


「言われなくても吐かせてみせる! 今、ここで!」


 踏み込んだ優花は、そのまま雪那に向けてダーツの矢を放った。


 そのダーツは虚しく地面に落ちていった。

 雪那の姿は既にない。彼女がまき散らした真っ赤な血だけが、彼女のいた跡を残していた。


 ――「今終わったら面白くない。また、そのうち遊びましょ、朱崎 優花?」


 不思議と響く雪那の声。周りを見渡しても、そこにいるのは刀を構えた海翔だけ。


 ――「それまで、""に殺されないでね?」


 透き通る声は、鈴の音のように軽やかで、

 だからこそ、優花の耳に嫌と言うほど響き渡った。

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