#4 生への執着/死への渇望

 ――お姉ちゃん……っ!


 駆け出した海翔にしがみつきながら、ランは優花のことを祈り続ける。


 ――本当、なんだから!!


 先刻、海翔が町田との戦闘を繰り広げている時のことだ。

 炎の壁の前で呆然としていた優花とランだったが、突如として別の方角から起きた火の手に気がついたのだった。

 ここで海翔を待っていても埒があかない、そう思った優花は、戸惑うランを連れて燃えさかる家に駆けつけた。


 現場に着いたとき、まさに家屋が燃える瞬間を目にする事となった。

 建物からはオレンジとも黄色とも取れる火の手が上がり、黒い煙がもくもくと上がっている。物が焦げる匂いと沸き立つ灰に、ランは鼻と目を思わず覆ってしまった。

 近くに人はいなかったのか、今ここにいるのは優花とランだけだった。民家からも離れているため、燃え広がると言った事はなさそうである。

 ランも優花も呆気に取られているのだが、しかしこのまま見ている訳にはいかない。一足早く、冷静に戻ったランは優花の手を揺すった。


『しょ、消防車消防車!』

「あ、うん」


 ランの言葉にはっとした優花は、携帯電話を取りだした。

 ふと表札の文字が目にとまる。「恵湖」と書かれた苗字にランは首をかしげた。


『めぐ、みずうみ?』

「『けいこ』じゃないかな? えーっと、消防は……」

『119、だよ!』


 緊急電話をかけようとした優花だったが、コールする直前に動きが止まる。


『お姉ちゃん?』


 優花はある一点を見つめている。

 目線の先は二階にある窓だった。


「ねぇ、誰かいなかった?」

『え?』


 そう言われて目を凝らしてみる。

 長時間眺めても、誰かが通る気配はない。


『誰もいないよ?』

「いや、確かにいた!」


 ランの否定に優花は全く耳を貸さずに、優花は周りをきょろきょろと見渡し始める。


『あの、気のせいとかかも……』

「気のせいなら戻ってこれば済む話でしょ? どっかに水ない!?」


 とんでもない事を言い放つ優花の気迫に、ランは観念してしまう。どことなく、優花はこういう子なんだ、と言う事はランの中でも分かっているからだった。


『あそこにホースあるよ!』

「ありがと!」


 ランが指さしたのは向かいにある家の庭だった。簡単にお礼を言い放つと、優花はスマホを放り投げて走って行く。無人の家だが知ったことかと言わんばかりに、優花は突っ走って行ったのだ。ランはスマホを拾って優花の後を追う。


 そこにあるのは、花壇に水をかけるためのホースだった。勢いもなければ、伸ばしたところで隣の家にかけることもできないのだが……、恐らく優花の目的は違うのだろう、とランは想像がついていた。


 優花は蛇口をひねり、ありったけの水を出すと、


『お姉ちゃん、本当に行くの!?』


 案の定、ひねり出した水を、優花は自分の体にかけ始めた。

 初夏に入りかけたこの時期らしく、薄手の服に身を包む優花の全身が水に濡れていき、あられもない姿になっていく。場合が場合でなければ色香に魅せられる不埒な男もいる事であろう。周りに人がいないか心配するランをよそに、優花は気にする事なく自分の身を濡らしていく。


 かけ終わった後、ぶるっと簡単に水を払い、垂れた前髪を後ろにやる。所作から溢れる気迫も凄いが、その目に灯るは覚悟の炎。


『お姉ちゃん……』


 いつもの優しい瞳とは違えど、その奥底にあるのは見知らぬ誰かへの優しさだった。その目に当てられて、ランは制止の言葉を失ってしまった。

 何を言っても、優花は止まらない。そう思ったランは、優花の事を呼ぶのが関の山だった。


 すれ違いざまに、優花はランの頭に手を置く。濡れた感触と共に、優しくその髪を撫でたのだった。


「ランはここにいて」

『……はい。気をつけてね』

「なんかあったら、海翔の所に走ってね!」


 最後までランを案じた言葉をかけながら、優花はまさしく水もしたたる爽やかな笑顔を見せる。


 直後、迷う事なく燃えている家に優花は飛び込んでいった。



 これが、先刻の事である。


 海翔にしがみつきながら、ランはただ優花の無事を祈るだけである。


 ――もう、無茶するんだから!


 小さな胸中には、心配も大きい。しかし、不思議と優花への信頼もあるのも事実だった。


 ***


 ――なんだろう、この感覚


 燃えさかる家の中を、優花はただ歩いて行く。火災の様子を見ながら、優花は階段を探しているのだった。

 ハンカチで抑えた口元に届く臭いに顔をしかめながら、優花はただ二階への階段を探す。


 ――とっても、熱い、なぁ。


 全身塗らした水ネズミになっていても、ひりひりと体中に訪れる熱気が、徐々に優花の体を熱くする。


 ――ちょっと前にも、こんなことがあったような……。 


 熱が頭をぼんやりとさせる。そう、高熱でうなされた時によく似ている。


 ――こんな風邪ひいた事なんて、あったっけ……。


 奥に行くほど熱気が強くなる。肌にひりつく焼ける感覚が強くなり、その度に次の一歩が重くなる。


 ――あぁ、違う。夢だった。


 三月の頭頃に見た、悪夢だった。

 思い出したくもないその悪夢が、今の状況と重なって思い出されてしまう。


 歩き慣れた廊下の傍らに、顔を知っている多くの人が倒れていた。

 優花にとってまだ経験はないのだが、酒を飲んだ後の酩酊状態に近いと思う。今以上にふらふらとした足取りで、その廊下を歩いていた。


 口を開けば喉が枯れて、一歩歩く度に頭がぎしぎしと痛む。

 それでも、優花はその足を止められなかった。


 ――熱い……もう、嫌だな。


 先ほど濡らした後なのに、汗が噴き出してくる。


 あの夢から醒めたときもそうだった。

 全身から汗が噴き出していた。高鳴る心臓は、胸を突き破って飛び出てきそうだった。荒い息は、どれだけ深呼吸をしても収まらなかった。起きてからしばらく、動く事ができなかったことをよく覚えている。

 忘れたい夢だったが、それでもあの夢の事は鮮明に覚えている。


 あの夢を見たその日、が――


 ――まったく、嫌な事思い出させて。


 ちょうど見つけた階段に、優花は思考を一端遮断する。


 恐らく、ここを上ればいるはずだ。幸い、まだ火の手は上に上がっていない。


 手すりに手をかけると、優花は悪夢を振り切るように急いで駆け上がっていった。


 ***


「誰かいますか!?」


 二階の部屋を順に開けたが、返事はない。次々に扉を開けていく優花は、やがて一番奥の部屋の扉を開けた。


「……え?」


 そこにいたのは部屋の隅で蹲り、震えているのは若い女性。年は優花と同じぐらいだろうか。

 長い髪はそこら中が跳ねていて、しばらく手入れをしていない事が分かる。女性の周りを覆うように伸ばしっぱなしの髪の毛は、見る人が見れば幽鬼か何かのように感じられるだろう。


 目元の周りはうろのように落ちくぼんでいる。うつろな目をしたその瞳は、驚きの色でいっぱいだ。


 生存者を見つけた安堵に、優花は「よかった」と声を絞り出す。その声に、女性はびくりと体を強ばらせた。


「な、何……?」

「その、助けに来たんです」


 どう映っているかはわからないが、まともな装備もない濡れ鼠を消防隊員だとは思わないだろう。そんな人間が緊急事態にこれば、それは驚くに違いない。


 優花は、その女性に向かって歩き出す。焦げ臭い匂いこそするが、火元から見て奥にあるこの部屋にはまだ火の手は届いていない。先ほど見たカーテンを結んで即興の縄を作れば、なんとか逃げ出す事もできるだろう。


 女性との距離はあと僅か。

 歩いて行く優花の胸に、ぽすっと何かが当たる。

 それはくまのぬいぐるみだった。


「何しに来たの!」


 いつの間にか立ち上がった女性は、肩で息をしている。その血走った瞳には、怯えや恐怖ではなく優花への敵意と憎悪に燃えていた。


「何、って、その助けに……」

「出てけ!」


 女性は次々と優花に向けて物を投げてくる。不意に起きた火事に錯乱しているのだろうか。

 曲がりなりにも空手をしていた身だ。来るのが分かっていれば、避けていく事はそう難しくない。


 写真立てを投げようとする女性の手首を、優花は掴む。振りほどこうと力を込めるが、握ったその手はびくともしない。


「落ちついてください! 助けに来たんです」

「落ち着いてる! そうじゃなくて、このままだと、!?」


 女性は叫ぶ。怨霊に取り憑かれたかのような血走った目つきには、生への執着とはむしろ真逆の物を感じる。


「"も"って、どういう意味ですか」

「どうもこうも、私は死ぬつもりよ! 今、ここで!」


 女性の怒号に優花は言葉を失った。その一瞬の隙をついて、女性は優花の手を振りほどいた。その拍子に写真立ては絨毯の上に落ちる。


 平和な家族の団欒、その一瞬が切り取られた写真がそこにはあった。


「家族を失って、こんな人生もう耐えきれない……だから、あの人にお願いしたの! 自殺なんだから、放っておいてよ!」


 ――自、殺……?


 脳裏に浮かんだのは、むせ返る程の臭い漂う浴室。

 浴槽に浮かんだのは、深紅の鮮血と嫋やかな細腕。

 網膜に映ったのは、うつろな目をした憧れの女性。


 見知った場所で、見知った人がいる、あの朝の光景。

 何度忘れようとしても忘れられないあの朝が、強烈な稲妻の如く思い返された。


 優花の変貌に気づいた様子もなく、その女性は悲痛に満ちた表情を覆った。


「お願いだから、このまま死なせて……」


 その小さな声に、優花は意識を現実に戻す。

 目の前で自分の死を待っているその女性に向けて、優花は大声を上げた。


「ふざけんなっ!」


 煙が回り、そろそろ口元を抑えなければいけないこの状況にありながら、叫ばずにはいられなかった。 

 その怒号に、女性は顔を上げる。


「バカっ!! 自殺だって聞いたんなら、尚更アタシはアンタを助ける!」


 優花は女性の手を握り、そのまま勢いに任せて引っ張りだした。我に返った女性は、叫びながら抵抗するが、一切の遠慮をやめた優花は徐々に徐々に女性を窓際へと引っ張っていく。


「私のことなんか、知りもしないくせに!!」

「えぇ、知らないわよ! でもね、自殺しようとしてる人を見逃すなんてできない! アンタ、知ってる?」


 脳裏に過ぎる、ある日の言葉。

 穏やかな口調で諭すように、窘めるように、言ってくれたその言葉には優花の事を思う愛の重みに溢れていた。


「人を殺した人は、どんなことをしても天国には行けないの!」

「な、何を言ってるの……私は、誰も巻き込んでいない!」

「そんなこと言ってない! いい!? 『自分を殺す』って書いて自殺なのよ!」


 ケンカが絶えない生活をしていた優花に向けての言葉だった。

 他人の事も、自分の事も大切にして欲しいと、そんな思いが籠もった言葉だった。


「アタシは、自分が関わった人はみんな天国に行って欲しい! だから、アタシの前では自殺なんかさせたくないの!」


 勢いで吐ききった言葉に、煙の臭気が来る。嫌な咳き込み方をしながらも、優花は女性を窓の方まで引っ張りながら、思いを吐きだし続けた。


「アンタが自分を殺す事に専念するのはアンタの勝手! けど、それならアタシはアタシの勝手でアンタを助けるからね!」

「……」


 女性は何も言わない。言葉と力を失ったかのように、項垂れた女性は優花に手を引かれていた。

 しかし、優花の咳は止まらない。咳き込む度に、嫌な空気が肺に来る。


 ――やっば、これじゃ間に合わないかも。


 頭がぼーっとし始める。勢いに任せて叫んだからか、女性よりも早く優花に限界が訪れようとしていた。

 覚束ない足取りで窓に向かって歩いて行くが、足がもつれて転んでしまった。


「え、あの、大丈夫ですか!?」


 すぐ近くで揺さぶる女性の声が、まるで遠くの声のようにぼやけて聞こえる。


 そんな優花の意識を起こすように、部屋のドアが勢いよく開かれた。


「優花、いるか!?」

「い、いる……」


 聞き慣れた男の声に、反射的に言葉を返していた。


 見慣れた金髪の男を見た。


 怪我こそしているが、彼が来てくれた事への安心感が、張り詰めていた優花の気を落ち着かせる。


 緊張の糸が切れたかのように、優花の意識はそのまま落ちていった。

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