第15話 やり残したこと
8月後半、北九州ファルコンズは2位に付けていた。
敢え無く首位からは陥落したが、そのままズルズルと下位に落ちる事無くそれなりの勝率を誇っている。
3位とのゲーム差は3.0で4位とのゲーム差は6.5。
まだまだ気は抜けないながらも、本格的にファルコンズのCS進出が見えており、ファルコンズのファンたちは久しぶりに躍動するファルコンズ選手たちの姿に喜びを得ていた。
知名度ゼロのドラ1ルーキーの入団から始まった今季はファルコンズファンの感情何度も乱高下させた。
超ド級の活躍から始まり、もはや神話とまで言われている立花 聡太のピッチング。
連勝街道を爆進したかと思うと、登録抹消からの連敗街道まっしぐら。
勝ってくれるのは嬉しいが心臓が止まりそうだからもう少しほどほどでやってくれ、と冗談なのか本気なのか判別の付かない投書が北九州在住の82歳のお爺ちゃんから届くほどにはファルコンズは今年の球界を席巻していた。
当初こそ、立花以外の選手たちの不調がとにかく目立ったが、副島監督の囲み取材で発言したように、確かにチームの投打が噛み合うようになってきた。
先発陣の調子がさすがに落ちてきていたが、前半戦とは異なり打線がそれなりに打つようになってきた為、打線の援護で勝ちを掴んだ試合もいくつか出てきている。
昨年までのウィークポイントとされていた中継ぎ陣も昨年までに比べれば遥かに好成績を残しており、優勝候補とまではいかずとも、CS進出はほぼ間違いないのではと有識者達も高く評価していた。
だが、超ド級ルーキー1人が入団した程度で全てが好転するほどプロ野球は甘くない。
打撃陣は一時の湿りきった時期を超えたとはいえ、パシフィック・リーグ屈指とまで言われたほどの強力さはまだ見えていない。
中継ぎ陣も昨年が悪すぎただけであって、他チームと比べた時にまだまだ内容も層の厚さも不十分だと言われてもいた。
主力選手たちも夏場を超えて体力が落ちつつあり、全体的なパフォーマンスは徐々に低下している。
先発の柳葉はここまで8勝を上げており、最多勝も視野に入りつつあったが、腰のハリを訴えて登録抹消されていた。
副島はここまで大車輪の活躍を続けていた柳葉を労いつつ、必ずまた必要な時がやってくるからしっかりと休養してこいと申し伝えている。
その他の先発投手でローテーションを回しているが、やはり早い回からの交代が目立ち、それによって中継ぎ陣にも影響を及ぼしつつあった。
その中継ぎ陣にあって、今年特に叩かれている選手がいる。
「ファーマー、交代や」
「……shit!!」
ファルコンズ2軍本拠地で登板していたファーマーは、マウンドへ小走りで走ってきたヘッドコーチが右手をクルクルと回す仕草を見て、通訳を介さずとも交代なのだと理解した。
思わず暴言を吐くファーマーにヘッドコーチが一瞬、眉をひそめたが、すぐに聞こえないフリをして他選手たちに話しかけ始めた。
すでに自分の役目は終わったのだと理解したファーマーは肩を怒らせながらマウンドを下りる。
球団が用意した通訳が何かを言いながら後ろをついてくるが、ファーマーはそれを碌に聞かないでドシドシと苛立ち紛れに歩きながらベンチへと戻った。
ベンチへ戻るとすぐに壁に向かってそのままの勢いでグローブを投げつける。
バシッ! という音とともに壁にぶつけられたグローブがベンチにボトッと落ちた。
そのそばに座っていた選手がびっくりして身体を飛びのけるが、ファーマーはそれすら無視してベンチからも出ていってしまった。
アーノルド・ファーマー 31歳。
アメリカのペンシルバニア州出身の彼が野球をし始めたのはとある理由からだ。
奇しくも同じ州出身の名プロゴルファーがいて、似た名前だったファーマーはとにかく何度も何度もゴルフについて聞かれた。
「Hey! ファーマーお前はゴルフはしないのか?」
「僕は、1度も、ゴルフをしたいと、思った事はない! これからも絶対に僕はグラブは握らない! わかったらサッサと去れ! ○○○○!」
何度もそんな事が続きすぎて、名前を付けてくれた両親の事すら嫌いになりそうだった頃に出会ったのがベースボールだった。
ファーマーはすぐにベースボールが大好きになった。
まず何よりチームプレーなのがいい。
それに、会心の当たりが出た時は気持ちがいいし、勝てた時はみんなで喜べる。
すっかりベースボール一色で染まったファーマーの日々だったが、ファーマーには才能があったようだった。
その後はトントン拍子で進むと、大学野球でも活躍したファーマーは1Aで地元のチームに入団した。
マイナーリーグ特有の移動に次ぐ移動という過酷な遠征に心折れそうになりながらも何とか2A、3Aと上がっていく。
3Aでもなんとか結果を残して初のメジャー昇格。
特に大事な試合で打者をストレートで三者連続三振も切ってとった場面はファーマーに大きな自信を与えた。
ここまではファーマーの思い描いた上昇曲線だった。
満を持してホームスタジアムで登板を告げられたファーマー。
7回裏、ファーマーのチームが3点リードする形での初登板だった。
緊張はしていたが、思ったよりも肩に力は入っていなかった。
これはやれる。
プレイが告げられ、待ちに待ったメジャーの舞台でファーマーは自信を持って渾身のストレートを投げた。
そこからは悪夢だった。
渾身のストレートは強打で弾き返され、自信のあったツーシームは簡単にスタンドへと持っていかれた。
さらに連打を受けて気がつけば同点。
ファーマーは1つのアウトも取る事無く、メジャーの舞台から下ろされた。
そのまま降板し、即日マイナー落ちの宣告を受けた。
ソレがメジャー流だと理解していたはずなのに、そんな選手をいくらでもマイナーで見てきたはずなのに、ファーマーはマイナー行きを宣告されてからもしばらく呆然としたまま動くことが出来なかった。
どん底に落ちたメンタルを立て直す暇もないままにマイナーへ逆戻り、だがそこでも結果が出なくなった。
結局2Aと3Aを行き来している間に時間ばかりが過ぎ、気がつけば28歳になっていた。
2A時代に知り合った妻と結婚し、目の中に入れても痛くないほどに可愛い娘も生まれた。
初めてベースボール以外の事を真剣に考えるようになっていたファーマーが、韓国Kリーグからオファーを受けたのもそのタイミングだった。
オファー内容は2Aの選手にしては悪くなかった。
メジャーと比べれば遥かに低額だが、そこで結果を残せば年俸は倍々ゲームで上がっていく。
妻と娘と離れる事が何より辛かったが、それでもファーマーはこれが自分の勝負どころだと判断して、単身韓国へと飛んだ。
単年契約8000万での入団だったが、ファーマーはKリーグで躍進した。
長年チームの課題だったクローザーとして登板すると、防御率2.22 28セーブでチームの躍進に貢献。
次年度も防御率2.19 32セーブで正に守護神として華々しく活躍した。
本音を言えば翌年もファーマーはKリーグで投げたかったが、年俸の高騰を嫌うチームと交渉でもつれている間にファルコンズから巨額のオファーが舞い込んだ。
2年3.5億という数字にファーマーは飛びついた。
それにファルコンズのバックには大手通信会社が付いており、活躍次第でさらなる年俸アップも見込める。
家族の為にも稼げるうちに稼ごうとファーマーは韓国で所属したチームのファンから守銭奴と指差されながら退団。ファルコンズへと入団した。
だが、ファルコンズでのファーマーは活躍出来なかった。
実績十分な超大物クローザーとして入団するも、セーブ失敗を連発。
すぐに首脳陣からの信頼を失ったままシーズンを終了。防御率4.29という、まるで年俸に見合った活躍をすることが出来なかった。
契約最終年である2023年を1軍で迎えるも、前半戦でもやはりセーブ失敗を続け、ついに助っ人外国人という立場にありながらも、2軍へ落とされてしまった。
さらにそこでも打ち込まれる場面が目立つ。
投げれば打たれる。ストレートも自慢のツーシームも球筋は悪くないのに2軍選手にすら打たれてしまう。
もう完全にファーマーは腐ってしまっていた。
「家に帰りたい、妻と娘に会いたい……」
シャワーを浴びていると、ふとそういった言葉が口を出てしまう。
時差がある為に十分な家族の時間が取れず、シーズン中は1日に1回オンラインでその顔を見るくらいしか出来ない。
日々少しずつ大きくなっていく娘の姿を間近で見たいと思うファーマーだった。
(もうそれなりに十分稼いだじゃないか。後は国に戻ってほどほどに生活出来ればいい……)
たぶんもうオファーが来ることはないだろう。
日本の野球レベルが低いとは思っていないが、メジャーよりは間違いなく下位のリーグだろう。
そこでこれだけ打たれてしまっている以上、メジャーでの登板など夢のまた夢でしかない。
ファーマーは自分の野球人生が間もなく終わりを迎えつつある事を自覚していた。
有り難い事に怪我らしい怪我はした事が無かったので、投げようと思えば投げられる。
だが、何よりも心が付いてきていなかった。
フィジカルなどはあって当たり前、その上でメンタル勝負の世界だ。
その世界でこれだけ負け癖が付いてしまっている自分が、上に上がっていく姿をファーマーはもはや想像出来なかった。
「ファ、ファーマー……」
シャワーを浴び終えて、宿舎へ戻ろうとしていると通訳がおずおずと近づいてくる。
この通訳がファーマーは苦手だった。
いかにも日本人らしい奥ゆかしさといえば美徳かもしれないが、田舎育ちのファーマーにはそれがもどかしく見える。
いっそ口悪く思いっきり罵った後に酒でも飲みに行こう! と言ってくれればもう少し仲も良くなれたのかもしれないが、もう時すでに遅しだった。
(まぁ、俺からも歩み寄ろうとしなかった時点で言えたタマじゃないな)
どうせ2ヶ月程度の付き合いだしもういいか、とファーマーが思いながら出ていこうとすると、ちょうど一人の選手が出てきた。
今年入団したルーキーの真鍋だった。
日本のジュニア野球で最もレベルの高い大会を優勝し、ファルコンズに入団した次世代の捕手。
強肩で打撃も良い。
ファーマーから見てもルーキーとしては相当能力が高い事がわかった。
そんなルーキーにファーマーはどうにも納得がいかなかった。
立花という得体の知れない投手の影となっていた事だ。
確かに、ファーマーも1軍で立花の投球は目の当たりにした。
エキセントリックとしか言えないピッチングで日本の打者を翻弄する姿は、魔術師だと感じた。
遅すぎる球だが、メジャーで通用するかと聞かれればまた何とも言えない。
本塁打を浴びたように、球自体は相当軽いようだから、メジャーのバッターがコツンと当てたらスタンドインしそうなようにも見えた。
しかし、それはそれとしてどうして真鍋は立花の後ろに付くのか。
自分自身をもっと全面に出してもいいのではないかと思っていた。
もっとハングリーにすればきっと1軍レベルもそう遠い未来ではないはずなのに、どうにも遠回りしているように見えた。
何となくそれが苛ついて、声を掛けてしまった。
「Hey! マナベ!」
「おいっファーマー……」
通訳が制止するのを無視して真鍋へ声を掛ける。
それに気づいた真鍋が小走りで近づいてきた。
『どうしてお前はタチバナの後ろばかりついていくんだ? お前ならもっとやれるだろ』
通訳がファーマーの言葉を訳すのを躊躇ったが、ファーマーが一睨みすると諦めて真鍋へと申し伝える。
だが、通訳の言葉を聞いた真鍋の表情はファーマーが予想していたものとは異なり、苦笑いを浮かべた。
その表情がファーマーをさらに苛つかせた。
「なんだ? お前はこんな事を言われても腹が立たないのか? お前は自分でもっとやれるとは思わないのか」
言った後に通訳に顎で指図すると、流石に通訳も顔をムッとさせるが、それでも仕事だと割り切ったのか真鍋へと訳してくれたようだった。
その言葉を聞いた真鍋が、それまで浮かべていた苦笑いをスッと消し、何かを言い始めた。
うん? なんだ?
真鍋の言葉を聞いた通訳がギョッとしたのがファーマーにもわかった。
内容はわからないが、何度も真鍋に問い掛けているのは様子からわかる。
だが、真鍋はしっかりと頷くと、ファーマーに言ってくれとでもいいたげに視線をファーマーへと向けた。
『僕は、1度もタチバナの球を打てた事がありません。でも、いつか打ってみたいと思っています。ラッキーではなく実力で』
『それに、僕はタチバナの仲間です。味方です。バッテリーです。タチバナが活躍すれば僕の活躍でもあります。何故ならチームプレイだから』
『確かに僕が自分をもっと全面に出せばそれなりに出来るかもしれません。でもそこまでです。僕はタチバナと、みんなと一緒に上に行きたいんです』
『捕手は一人じゃ何も出来ません。ピッチャーがいてこそです。そしてそれはピッチャーも同じだと僕は思っています』
『だから今は2軍でしっかりとレベルを上げ、プロの球を受け、投手とコミュニケーションを取ります』
『それが捕手の仕事だからです。……ファーマー、あなたはファルコンズで投手としての仕事を全うしたと言えるのですか?』
思わず通訳の首を絞めそうになるのをファーマーは必死になってこらえた。
このクソ生意気なルーキーが俺にベースボールを語るだと?
俺よりも遥かに小さなその身体で、浅い経験で俺に説教だと!?
数年前のマイナー時代なら張り倒していただろうとファーマーは思いながら、その言葉を聞いていた。
相手はティーンでルーキー。
今すぐにでもなにかに滅茶苦茶に当たりたい気持ちを、グッとこらえてファーマーは球場から去った。
宿舎へ戻ったファーマーだが、そんな心境でのんびりと疲れなど取れるはずもない。
猛烈に家族の声が聞きたかったが、まださすがに時間が早い。
「shit!!」
ファーマーはうだるような暑さを感じながら街へと繰り出した。
別に女はいらない。今はとにかく浴びるほど酒を飲みたい気分だった。
「Whiskey!」
もう何時だろうか。
家族も起きている頃になっているだろうか。
散々に飲んでいる。
ビールも飽きて途中からひたすらウィスキーばかり飲んでいた。
ろくに会話出来ないから、ひたすら飲んでウィスキーを頼み続ける。
マスコミが鬱陶しくないようにファルコンズの旗を掲げている小さな居酒屋を見つけた。
小さな居酒屋で、店主の男もファーマーを見て最初こそ来店を喜んだが、酒癖の悪さを目にして近づかないように離れている。
長時間唯一のテーブルを占有するファーマーに退席は求めなかったがかといって愛想良くする事もない。
いよいよ意識を飛ばしそうになった頃になって、空いていた前の席に誰かが座った。
「Ah……?」
『よくそんだけ飲めますね、ほんと』
『なんだお前か……』
それは通訳だった。
ここまで走ってきたのかもしれない。汗を流していて、店主からもらったおしぼりで首筋を拭っているその姿が妙にファーマーを苛つかせた。
『俺はァ、お前の気取ったところが……嫌いなんだよ』
店主から飲み物でも聞かれたのか、愛想笑いを浮かべながら断っているらしい通訳にファーマーが言った。
通訳はファーマーをちらりと見たが、すぐに無視してサービスでもらったらしい冷水をごくごくと一気に飲み干した。
『俺も、アンタが大嫌いだよ』
『アン……? ヘッ、通訳風情が言うじゃねぇか』
『おう、俺は通訳風情だが、今のアンタに比べれば遥かに高尚な人間だと思うね』
『HAHA!! お前が高尚だと? 俺の後ろでペコペコするしか脳がないお前が俺より高尚だとぉ?』
『少なくとも俺は自分の所属するチームに迷惑を掛けて街の居酒屋でも迷惑をかけ続けてでも居座るほど腐っちゃいないさ』
『言うじゃねぇかクソ野郎! どうせお前も俺が首になったらお役御免の立場だろうが!』
怒号が店内に響き渡る。
店内に居た客や店主に詫びる通訳の姿と、その奥に座っているファーマーを見てみなハラハラしていた。
『俺はアンタとの仕事を真剣に全うしてきた。それはアンタとの付き合いが終わる契約満了日まで変わらない』
『よっぽど球団から大金でもせしめたのか』
『違う!』
いきなり声を荒らげた通訳に思わずファーマーが驚いた。
この2年弱で、通訳の男が大声を出したところなど見たことが無かったからだ。
通訳も、言ってから自分でハッとしたのかすぐに顔を顰めて視線をファーマーから外した。
『……それは違う。そもそもファルコンズにファーマーが入団すると決まった時に、フリーランスだった俺が売り込んだんだ。薄給でもいいから通訳にしてくれって』
『……ハァ? わざわざ俺の通訳を買って出たとでも言いたいのか?』
『事実、俺は買って出たんだよ。どうしてもファーマーの通訳として一緒に仕事がしたかった』
『……俺は結婚してるぞ』
『そういう意味じゃない! 俺はアンタの投げる球がとにかく好きだったんだよ!』
『……どういう意味だ?』
『俺はアンタがマイナーで投げている試合を現地で見た事がある』
『筋金入りのファンかよ』
『いや、それまではアンタの名前なんてちっとも知らなかった。たまたま知り合いに連れられて行ったスタジアムで、ゴルファーがマイナーにいるのかと最初は思ったよ』
久しぶりのそのネタに、思わず声を荒らげそうになるが、通訳の真剣な表情を見てファーマーは抑えた。
『あの頃のアンタはとにかくベースボールが楽しそうだった。そして何より球も
『……』
『ちっとも野球に興味がない俺が、震えたね。恵まれた体格から投げ込まれるストレートで次々にストライクを取っていく。気がつけば三者連続三振でゲームセット。俺は新たなヒーローが生まれた瞬間に立ち会えたと思ったよ』
『……フンッ』
『絶対にアンタはメジャーでも通用すると思った。だからアンタが打たれこまれる姿をメジャーで見て、本当に胸が苦しかったし辛かった』
『……うるせぇ』
『でもアンタならすぐにまたメジャーに上がってくると思った。素人の俺でも分かるんだからちょっとしたファンならアンタの能力に気づくとも思ってた』
『……黙れよ』
『だが、アンタがメジャーに上がってくる事は無かった。むしろ3Aにすら留まれず、2Aですら危ぶまれつつあった』
『黙れっつってんだろクソ野郎!』
『だからアンタがKリーグで活躍している姿は本当に嬉しかった! やっとまたアンタの姿が見れるって!』
『お前に俺の何がわかると言うんだ!』
『何もわかるわけないだろうが! ファーマーが自分から俺に何かを言ったか!? チームに溶け込めるように努力をしたのか!?』
『努力をして何になるって言うんだ! 俺はもうメジャーに上がれるわけでもないじゃねえか!』
『そんなモン、誰が決めたって言うんだ!』
『俺が自分で理解したんだよ! 俺の球は通用しないとな!』
『俺は今でもアンタがメジャーでやっていけると本気で思ってるんだ! アンタ以上にアンタを応援してるんだよ!』
『……お前、何言ってんだよ』
『俺は今でも確信してる! アンタが絶対にメジャーでやれると! だからアンタの通訳に買って出た、アンタがメジャーに戻るまで全力でサポートしようと!』
『ふざけんなよ』
『アジアに出稼ぎでもしに来たのか? それなりに稼いだからもう俺はいいかなとでも考えてるのか?』
『黙れ』
『結婚もした。娘も生まれた。もう頑張ったし家族のそばにいたいか?』
『Shut up!!』
『そんなもんはやり切ってから言え! お前には可能性があるだろうが! 一回打たれた程度でへこたれてんじゃねぇよ!』
『一生喚いてろクソが。俺は帰る』
『また逃げるのか! お前の人生から! お前のベースボールから!』
『黙れ! 殺すぞ!』
ファーマーは今も通訳が大声で何かを言っているが、それを無視して店を出た。
自分では相当酔っていると思っていたはずなのに、足取りはしっかりとしていた。
まとわりつくような日本の暑さにさらに苛立ちを覚えつつ、宿舎へと帰る。
とっくに門限は過ぎており、守衛が何やら言ってきたが、顔を真赤にして怒鳴るとすぐに引っ込んでしまった。
狭い部屋に戻り、ベッドに突っ伏す。時計を見るともう家族が起きている時刻だった。
さすがに相当酔っているし連絡するのはやめようかとファーマーは悩んだが、それ以上に声が聞きたかった。
『おはよう、あなた』
『パパ、おはよう!』
『あぁ、2人とも今日も元気そうだね、おはよう……』
すぐに通話に出た2人の顔を見て、ファーマーは涙が出てくる。
なんで俺はこんなアジアの一角で涙を流してまで野球をしないといけないのか。
もう帰ろう……。
帰って3人で仲良く暮らそう……。
『あれ? パパ泣いてるの?』
『ジェシー、ちょっとママはパパとお話するからお部屋で待っててくれる?』
『うん? うん、わかった!』
止めどなく溢れてくる涙を拭っていると、妻が娘を遠ざける会話が聞こえた。
何とか画面を見ると、そこには愛する妻が優しい笑顔でファーマーを見ている。
今すぐにでもそばに駆け寄って、その美しい髪を撫でたい、と思ってしまう。
『ねぇ貴方、日本にいるのが辛いの?』
『あぁ、そうだな……。やっぱり2人と離れ離れは辛いな……』
『本当に辛かったら、何もかも捨てて帰ってきてもいいのよ』
『そうだなぁ……本当にそうしようか……』
『お金の事とかも考えずに、今の貴方が思うように私は生きてほしいの』
『いや、でもやっぱりお金は大事だからなぁ……』
『ううん、そうじゃないのよパパ。私もジェシーも別にお金持ちになりたいなんて思ってないの。家族で仲良く暮らせたらそれでいいのよ』
『……』
『あなたは十分に頑張ったと思う。だからこそ、あなたには後悔の無いように終えてほしいと思ってる。私も、ジェシーも』
『でも、離れ離れは寂しいじゃないか……』
『えぇ、勿論寂しいし悲しい。ジェシーもしょっちゅうパパに会いたいって泣いてるわ。でも、パパも頑張ってるから私も我慢するって言ってる』
『ジェシーが……』
『そうね。何だって頑張ったり我慢する事がいいとは私も思わない。……でも、後悔はしてほしくないの。あなたの為にも私達の為にも』
『……』
『今すぐ帰ってくると言っても、あなたが続けると言っても私たちは100%応援するわ。だって家族なんだもの。私たちは何があってもあなたの理解者であり味方だと思ってる』
『本当に嬉しいよ、愛してる』
『私も世界の誰よりもあなたとジェシーを愛してるわ。だから、悩んで苦しんでいるあなたを見ているととても胸が辛くて苦しいの』
ファーマーは、妻の言葉に思わず先程まで怒鳴りあった男の姿頭に浮かんでしかめっ面をしてしまう。
『……似たような事を、さっき通訳からも言われたよ』
『アラ! それならとてもいい人が通訳に付いてくれたのね! 家族の私達と同じ気持ちだなんて最高の人じゃない!』
『そうだな……』
ニッコリと笑う妻の笑顔に、思わず苦笑いを浮かべてしまうファーマー。
まるであの男の苦笑いみたいじゃないかと自虐してしまうほどだった。
『もうこれで言うのは最後にするけど、本当にあなたが後悔しないようにしてほしいの。私たちはあなたが取った行動を100%サポートして応援するわ』
だからもう一度よく考えてみて、愛してるわあなた。
そう言って通話は切られた。
通話が終わってからも、ファーマーは長い時間を暗くなってしまった画面を見つめたまま動けなかった。
きっと妻は酔っている事をわかっていただろう。
それでも大好きな笑顔でそっと優しく寄り添ってくれた。
通訳の男が妻と同じ事を言ったのは癪だったが、今は怒りよりも笑いが浮かんでくる。
「フンッ、何が胸が辛くて苦しいだよ、お前は俺のただの通訳じゃないか」
吐いた言葉が空に消える。
さすがに今になって飲みすぎた酒が回ってきたのか、低い天井がゆらゆらと揺れる。
それはひどく不安定で、今にもグルグルと回り始めそうだ。
ファーマーはそのままゆらゆらと揺れる天井を見つめ続けていたが、目を大きく見開くと、ガバリと起き上がり、机へと歩み寄ると携帯を手に取った。
「Hey Jap」
『……なんだ』
『もう表面は取り繕わなくなったか?』
『もうアンタとの関係はおしまいだ。取り繕う必要もないだろ』
『そういえば、さっきの店で金を払ってなかったと思ってな』
『俺が払っといた。後で返せよ』
『HAHA!! お前、そっちの方がキャラ立ってて面白いぞ』
『黙れ! お前が帰った後に散々こっちは謝り倒してんだ!』
『なんだ? お前飲んでんのか?』
『お前のクソみたいな話を聞いた後なんだから酒くらい飲ませろよ!』
『ダメだ』
『ハァ? なんで俺がお前に酒の事で指図されなきゃならないんだ』
『今から俺が禁酒するからだ』
『……ハァァ?』
『だからお前も禁酒しろ。というか今からサウナで酒を抜くからお前も付き合え』
『ファーマー、アンタ……どうしたんだ?』
『残り時間は少ないが、本気でやるからお前も付き合え』
『……マジで言ってんのか?』
『あぁマジだ。お前が火を点けたんだから責任持って付き合えよ』
『今どこにいる?』
『自分の部屋だ。すぐに用意しろ』
『すぐに行く! ちょっと待ってろ!』
『さっさと来ないと置いていくぞ!』
『うるせぇ! 俺にも段取りがあるんだから黙って待っとけ!』
『お前、俺より口悪いんじゃねぇか……』
翌日から、人が変わったように練習に打ち込んだファーマー。
練習していた真鍋にも真摯に謝罪し、真鍋もこれを満面の笑みで受け入れた。
他の投手や野手とも積極的に自分から交流を図り、人一倍チームメイトの活躍を喜んだ。
しかし、結局この後ファーマーが1軍へ再昇格することは無かった。
そしてそのまま契約満了で退団。
他の日本球団からのオファーもあったがファーマーはこれを固辞。
そのまま米国へ帰国となった。
だが、通訳との2人の関係は、ファーマーがファルコンズを退団してからも続いた。
その後、ファーマーが通訳の男をあの時の酒代だと言って米国へ自費で招待。
妻と娘も紹介して、以降家族ぐるみの関係が続いた。
ディナーも終えて娘が寝てから大人3人での席では、酒の入った通訳が盛大にファーマーの愚痴を妻に暴露し、ファーマーはひどく怒られたらしい。
それでもファーマーも通訳もずっと笑顔で、人種も国も何もかもが違う2人だったが、それは正しくパートナー(相棒)だった。
※いつもありがとうございます。
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