第13話 這い上がってこい

 7月20日。

 真鍋の姿は北九州ファルコンズ2軍本拠地グラウンドにあった。


 うだるような暑さで、動かなくても次から次へと汗が湧き出てくる。

 それを拭う事すらせずに、真鍋は練習に打ち込む。

 投手とコミュニケーションを図り、バットを振り、試合に臨む。

 他選手との兼ね合いもあって全試合スタメンでマスクを被る事は勿論叶わないが、それでも久しぶりに野球をしている感覚を持てていた。


 夏の暑さは甲子園を思い出させた。

 場所も気候も全く違うのに、それでもやはり夏といえば甲子園だと真鍋は思う。

 それくらいに真鍋にとって思い入れの強い季節だった。


 各年代の選抜に常に選ばれ続けていた真鍋は、立花とは全く異なる人生を歩んできた。

 いつだってどのチームででも4番で捕手だったし、柱は真鍋だと監督からも言われ続けてきた。

 その期待に応える為に真鍋は努力し、結果も残してきた。


 その集大成の一つが昨年の夏甲子園優勝だと真剣に思っていたし、燃え尽き症候群が無かったと言えば嘘になるが、また新たなプロ野球人生が始まると思っていた。

 今思えばそんな物は思い上がりだったと断言出来る。

 確かに夏の甲子園優勝は誇れるものだ。

 チームメイト達と必死になって過ごした日々が今の自分を形成させたと言っても過言ではないし、あの頃の仲間たちは一生付き合っていく仲間だと思っている。

 言葉にはしなくても皆がそう思ってくれているだろうとも。


 今、あれだけの練習量をこなせと言われたらちょっと控えめにお断りしたいくらいには練習漬けの日々だったと苦笑いすら浮かんでくる。

 だからだろうか、あのまま自分がもしもドラフト1位でファルコンズに限らずどこかの球団に入団していたら、潰れていたかもしれないと思えた。


 いつだって王道のさらにど真ん中を闊歩してきた真鍋からすれば、立花の存在はあまりにも異色だった。

 全日本のキャプテンも努めた俺がまさか立花のコバンザメ扱いとは……。

 あまりにも面白くて笑えてくる。

 だが、不思議と真鍋には怒りも嫉妬も沸いてこなかった。

 一つには投手と捕手という互いに競うよりもバッテリーを組む立場だったということ。

 一つには今まで真鍋が捕手人生を過ごしてきた中で、唯一捕球する事が全く出来ない投手だったこと。

 さらにもう一つが、立花が全ての投球リードを完全に一任すると言った事にあった。


 

◆◆


 

「俺にはどうしても成し遂げたい事があるんです。その為には同じ年代で僕とバッテリーを組んでくれる捕手がいる。完璧な捕球で、なおかつ最高のリードをしてくれる捕手が」

「……どういう意味だ」

 

 不躾極まりない練習試合を行った後、ベンチで意気消沈している真鍋の元までやってきた立花がそう言った。

 完全に心を折られていた状態の真鍋は、剣呑そうな表情で立花に問う。

 あれだけ活躍して甲子園優勝を果たしたのに、目の前にいる無名も無名のどうやら同じ大阪の高校らしい投手が投げるボールに一球も当てられなかったのだ。

 その事実にプロ志望届の提出すら取りやめようかと思うほどに真鍋は心折れていた。

 何度反芻しても、何度シミュレートしても自分が目の前のこの投手を打てている姿が想像出来なかった。

 

「俺の球を少し受けてみてくれませんか」


 立花はそう言うと、真鍋の返答を待たずにボールを一球手に持ってマウンドへ向かう。

 

 2人の光景を両校の監督やチームメイトが遠巻きに見ているが、監督含めて声を掛けてこない。

 真鍋が周囲をよく見ると、立花の所属している野球部の顧問が滝のように汗を流しながら、何やら藤陽の監督に頭を下げている。

 どうやらその様子からどうしても自分に球を受けさせたいらしい。

 そう理解した真鍋は、これでもかと重い両足でキャッチャー防具を付けると、ノロノロとした足取りでバッターボックスへ向かった。


 バッターボックスに姿を現した真鍋を見て、立花が近づいてきた。


「真鍋サン、まず俺の球種を言います。全部です。全部投げられます」

「は?」

「それに、速い球、遅い球も投げ分けられます。まぁ、元々が遅いですけど」

「お、おいちょっと」

「コースも全て自由自在に投げられます」

「何を言って――」

「さっき変だと思いませんでした? なんでこのボールをウチのキャッチャーが捕れるんだって」


 それは真鍋も思った。

 というよりも、試合中もずっと思っていた事だ。


 まるでゲームかと思ってしまうほどの軌道。

 捉えたかと思った瞬間に視界から真面目に消える。

 立花の手からボールが投げ放たれている姿はこの目で見ているのに、何か細工でもしているんじゃないかと本気で思ったくらいだ。


「おーい……ちょっと捕ってくれるか」


 真鍋が立花の言葉の真意を探っていると、立花が一人の選手を呼んだ。

 見るとベンチからは呼ばれると思っていたのだろう、先程まで立花の球を受けていた捕手が走ってきた。

 だが、キャッチャーミットこそ手に持っているものの、マスクも防具も付けていない。

 さすがにそれはダメだろと注意をしようとする真鍋を立花がサッと上げた手で制止した。


 走ってきたチームメイトは笑顔で立花に近づく。

 そのまま真鍋に向かって帽子を取ると、同学年にも関わらずきっちりと頭を下げて挨拶する姿を見て、真鍋もどこか怒りのやり場を失い、頷いてしまった。

 悪い、ごめんな。おう、全然えぇよえぇよ、さっきみたいにすればいいんだよな。うん、悪いけど頼むわ。おっけーおっけー。


 立花とチームメイトのやり取りをすぐ横で見る真鍋。

 チームメイトにしては何だか妙に距離感が離れているというか、野球部らしくないというか……。

 しっくりと来ない真鍋をよそに、立花が声を掛ける。

 

「真鍋サンはコイツのすぐそばで、コイツが捕る姿を見ていてください」


 そう言うと立花はマウンドに立った。


 ――んじゃいくぞ、おっけー。

 

 その言葉を合図に立花が投球モーションに入る。

 そのまま投球。

 バッターボックスから少し離れているとはいえ、先程のようにあり得ない軌道のまま、ボールはキャッチャーミットへと吸い込まれた。


「ん……?」

「もう一球いきますよ。今度はキャッチャーだけを見ていてください」


 真鍋が疑問符を浮かべているが、それを無視して立花が投球モーションへ入る。

 だが真鍋はそれを見ずにキャッチャーだけを見ていた。


 バスン! というあまり綺麗じゃない音とともにボールがミットへと吸い込まれた。


「目を瞑ったまま捕っているのか……」

「そういう事です」


 スマンな、助かったわ。全然えぇって、憧れの大阪藤陽の真鍋サンの前でキャッチャーしたとか一生モンやろ!

 そう言うとベンチへと走って戻っていくキャッチャー。

早速ベンチに戻ったキャッチャーが何やら他選手とワイワイと盛り上がっている。

そんな小気味いい立花とチームメイトの会話すらどこか遠い場所で聞いているかのように真鍋は思考に耽っていた。

 そんな思いふける真鍋がポツリ、と零した言葉に同意する立花。

 

「要するに俺の球を全て目を閉じたまま捕ってくれてたんですよ。普通ならめちゃくちゃ怖いはずですけどね。何とか無理言ってやってもらいました」

「……」

「でも、捕球だけなんですよ。……有り難いんですけどね。有り難いけれど、流石に目を閉じたままでプロは通用しないだろうし、何よりリードが俺もアイツも上手くない」

「……」

「だから、俺を完璧にリードして、かつ、俺の球を捕ってくれるキャッチャーを同学年で探してたんです」

「それが、俺だと……?」

「えぇ、その為に全国津々浦々の高校捕手を腐るかってくらい調べましたから、アイツらと」


 そう言って立花が少し手を上げると、立花のチームメイト達も皆手を上げて笑いながら振り返してきた。

 それを見た真鍋は、怒りよりも怖さすら浮かんでくる。


「仕組んでたって事か」

「ちょっと語弊がありますけどね。万全のリサーチの結果、真鍋サンにポイントを当てさせてもらってって事です」

「俺が、俺たちが甲子園優勝したからか?」

「いやそこはあんまり関係ないかな。甲子園優勝しても給料上がるわけじゃないし。それに真鍋サンの打撃には別に俺興味ないし」


 あれだけ甲子園で打った俺のバッティングに興味がない?

 普通の投手であればじゃあ投げてみろと言いたくなるほどの大言壮語だと一瞬思ったが、すぐに徹底的に抑えられた事を思い出して留まる。


「俺とバッテリーを組んで2人で完璧にやれれば、打たれないはずなんですよ。そう簡単にはね」

「お前の全てのピッチングを俺に任せるって言うのか」

「えぇ、100%任せます。俺は求められた通りに投げます。だから抑えたら真鍋サンの功績、抑えられなかったら100%真鍋サンの責任です」


 だってその通りに投げるんだからそうでしょ?


 そう言う立花に思わず笑ってしまう真鍋。あまりにも突拍子もなく、しかもぶっ飛んでいる。

 抑えられなければお前のせいだなんて言われた事すら無い。

 しばらく笑っていた真鍋だったが、急に真顔に戻った。


「バカ言うな。求められた通りに投げるだけで抑えられるほど野球は甘くないんだよ。その時の球場の雰囲気、両チームの空気感、投手野手の目線一つや打者の調子、回や場面で全部変わる。野球は経験と才能と努力に裏打ちされたものだが、同時に水物でもあるんだ。野球を舐めるなバカが!」


 魔球だけで抑えられるほど野球は甘くない。

 苦し紛れのラッキーヒット一本で流れが変わる事などよくあるし、逆に淡々とゲッツーを取れた事で流れを断ち切れる事だってある。

 それらをどれだけ自分たちのモノに出来るかでシーソーを常に自分たちの寄せる作業が必要なのだ。

 だからこそ捕手は特にプレイの声が掛かった瞬間から、全方位を注視し、穴が出来そうな場所があれば事前に潰していかないといけない。

 平静を装って言ったつもりが、真鍋自身も驚くほどに語気が強くなってしまった。


「キャッチャーは球を受けるだけじゃない。扇の要としてチームを成り立たせないといけないんだ。その為にはまずお前の球を捕れるようにする所からだな」

「おぉっ! じゃあ僕と一緒のチームでプロ行ってくれますか」

「そもそもお前の行きたいチームってどこなんだよ」

「ファルコンズですね。ファルコンズ以外は考えてないです」

「なんで」

「一番金持ってるんで。さっき言ったでしょ、成し遂げたい事があるって。その為にどうしても金が必要なんです。大金が」

「なんだよそれ……」

「まぁまぁ、それはまた追々で。とりあえずファルコンズ以外には入団しないって明言してくださいよ!」


 あ、それとドラ1は俺で行けるようにちょいと動きますから! なんて事まで言う立花にどこまでが本気なのか真鍋にも分からなくなった。

 そもそも、ファルコンズの1位を決める権利などコイツに何も無いではないか。

 例え出来たとしても、野球協定を真正面から無視するような立花の言葉に真鍋は理解が追いつかなかった。


「今日の練習試合のビデオをファルコンズに送るんで。それでドラ1指名を確約しなかったら他球団にも送るって脅したらいいでしょ」

「お前それヤバいだろ……」

「もう一蓮托生でしょ。それに真鍋サンだって俺の球を打者で迎えたくないでしょうに」

「それは嫌だな。打てる気が全くしなかったわ」

「んじゃそういう事で。ファルコンズから何か言われたら、ニコイチ獲得以外は認めないとでも言ってください」

「お前なぁ……」


 言ってる事はまるで無茶苦茶で現実味が無いのに、なぜか真鍋はいつの間にか笑っていた。

 ここまで理解の埒外にいる野球人を見たことが無かったというのもあるかもしれない。

 敵視するとかそんな次元ではなく、マスコットキャラにすら見えてくる。


「とりあえずは何とか真鍋サンが俺の球を捕れるところからですね……」


 ベンチにいるチームメイトに向けて大きく両手で○を作りながらブツブツと独り言を呟く立花。そんな立花の丸印を見て、固唾を呑んでいた選手たちがワッと湧き上がる。

 それを横目で見ていた藤陽の選手たちは何が何だかわからず困っているが、それを流して立花は早速今後の進め方に思考を向けているらしかった。


「おい」

「ん? なんです? 進め方に希望とか――」

「その気色悪い喋り方をやめてくれ。お前敬語とか慣れてへんやろ」

 

 真鍋の言葉に、ピクリと止まった立花だが、すぐにニヤリと笑って「やっぱわかる?」と聞いてきた。


「分かるわ! 明らかに俺をおちょくってるやろ」

「おちょくってワケじゃないんですけどねー。敬語使うとこんな感じになってまうねん」

「腹立つからやめてくれ。もうタメ口でええから普通に喋れ」

「おっマジ? それは助かるわー。いや俺も喋ってて気持ち悪かってん」

「ほなすぐやめろよ。名前も真鍋じゃなくて康介でええ。お前、下の名前は?」

「聡太。立花 聡太やで」

「んじゃ俺も聡太って呼ぶわ。だからお前も康介って呼べ」

「えっ、いきなり距離感近すぎて引く」

「やかましいわ! ほらさっさとマウンド戻れや! 練習するんやろ!」

「康介サンって癇癪持ち? こわぁ」

「シバクぞお前! はよいけ!」



◆◆



「真鍋、お前オールスター明けから2軍で気張ってこい」


 前半戦最終日、試合前に呼び出された監督室で真鍋は副島にそう言われた。


「2軍、ですか」

 

 副島の言葉を反芻する真鍋。

 だが、不思議と悔しさは湧いてこなかった。


「悔しそうにしてないな。やっぱりお前自身も分かってたか」


 腕を組んだまま真鍋の表情をしっかりと見ていた副島は、なぜか大きく頷いた。


「立花の登録抹消と意味合いが違う。お前はこのまま今年いっぱいは2軍で出場やな」

「実力不足、ですよね」

「そう、その通りやな。まずはプロの試合勘を掴む為というのもあるが、まだお前に1軍は早い。少なくとも数年は矢倉の定位置は堅いとお前も思ってるんやろ?」

「はい」


 今度は真鍋が大きく頷く。

 それほどまでに真鍋は矢倉との力量差を痛感していた。

 リード一つ取っても、バッティング技術にしても、捕手全般の能力が自分の遥か上位互換だと感じていた。

 ある程度パワーで押せていたバッティングも、やはり木製バットだとホームラン級の当たりが深い位置でのアウトに変わる事もある。

 安易に中距離ヒッターに切り替えようとはまだ思っていないが、だがそもそも根本から自分の捕手像を見つめ直す時期かもしれないと真鍋は改めて考えていた。


「将来的に立花がこのチームの柱になる。アイツが先発をするかどうかはわからんがな。だが、あれほどの実績を続ければ否が応でも柱になるやろ。そこにお前もついて行けるようになってもらわんとアカン」

「はい、仰っている事はわかります」

「でもな、お前が一つ気を付けないとイカン事がある。……わかるか?」

「捕手が俺じゃなくてもいいって事ですよね」

「おう、正しくソレやな。俺は立花を唯一無二と思っているが、お前をそこまでとは思っていない」

「……はい」

「だが、そこまでたどり着ける可能性があるとは思っている。お前次第やがな」


 副島の言葉は真鍋の心に深く突き刺さった。

 しかし、真鍋は反論の言葉が出てこない。

 それは真鍋自身が立花の球を入団前から受けていた時にも思っていた事だったからだ。

 まさか自分が替えの利く存在だと思う日が来るなど思ってもいなかった。

 気づいたその日はさすがに寮で一人必死に声を堪えて涙を流したほどだ。

 唯一、あの時だけが立花の持って生まれた才能としか形容出来ない資質に嫉妬した。

 だからこそ、己の野球人生を立ち戻れたとも言えるが。



「ここからがお前のプロ野球人生の始まりだと思え」

「ここから、ですか」

「そうだ。前半戦は立花に引っ張られて色々とお前にも迷惑掛けたやろうが、ここからがお前の本当のプロ野球人生の始まりだ。その為にお前は2軍でしっかりと力を付けて、這い上がって来い」

「はい……」

「2軍も甘いモンじゃないからな。粟食ってたら年ばっかり取って気づけば終わるぞ。必死になってここまで這い上がって来いよ」

「……わかりました」


 真鍋は副島に大きく頭を下げて監督室をでた。

 わざわざ試合前にこうやって監督室まで呼んで通達してくれた事を真鍋は感謝していた。

 本来であればそこまでする必要など無いからだ。

 


 真鍋 康介。

 その男のこれまでの実績は眩いほど輝かしい。

 だが、それらは実績ではあってもプロ野球人生に何ら作用しない。

 

 2軍では登録抹消された立花もいた。

 抹消期間が終えるとすぐに立花は1軍に上がってしまった為、2人が顔を合わせたのは1月も無かったが、真鍋にとっては妙に立花の球を捕るのが嬉しかった。


「俺を何年も待たせてくれんなよ。はよせんとFAでどっか行ってまうぞ」

「お前がファルコンズがええ言うたんやろ」

「んなもん忘れたわ」

「アホか」


 

 這い上がって来いと言った監督。

 待たせるなよと言った立花。


 真鍋の野球人生はここからやっと始まる。

 立花の横に立てるように。だが、主人公でもあれるように。


 絶対に這い上がってやる。

 真鍋は流れる汗も厭わずに走り抜ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る