第6話 捕手としての矜持

 北九州ファルコンズの正捕手といえば?


 この質問を投げ掛けたらどのような答えが返ってくるだろうか。


 ここ最近のニュースで野球を知った層は、真鍋 康介と言うだろう。

 往年の野球ファンであればもしかするとすでに引退して久しい打てて守れる捕手の先駆けとも呼ばれた 遠山 良一を挙げるだろうか。


 だが、プロ野球観戦・中継を楽しみにしているファンであればやはり『矢倉 友道』と言うはずだ。


 矢倉 友道32歳。北九州ファルコンズ 正捕手。

 社会人野球にて注目を浴び、24歳の時にドラフト4位でセントラル・リーグの愛知ビリオンズへ入団。

 即戦力捕手として期待されるが伸び悩む。

 だが、パシフィック・リーグの北九州ファルコンズにトレード移籍すると才能が開花。

 すぐにスタメンを奪取すると、そのまま4シーズンをほぼフルでスタメン出場する。

 2022年シーズンでは捕手として堂々の打率.278 を打ち、球界屈指の打てる捕手。

 やや慎重気味ながらも巧みなリードで先発陣を引っ張り、数々の勝利を呼び込んできた。


 打席に立てば、それなりに打てる。ホームランも毎年10本は固く、球界でも評価は高い。

 個人成績は良いが、チーム成績がついてこない。

 矢倉の評価はそう形容されていた。



 そんな矢倉だが、今はひどく苦しんでいた。

 2023年シーズンが開幕し、破竹の勢いで連勝街道を走り続けるチーム内において苦しみもがいていた。

 視線の先にあるピッチングマシーンからまた球が飛び出てくる。

 構えたミットが本能で動こうとするのを必死になって抑えるが、しかし僅かに動いたミットから球は逸れ、右腕を強打する。

 思わず痛みに顔を顰める。その場所にはすでに青痣があって、ちょうどそこにぶつかるようにして硬球が当たったからだ。


 次の球を待つ間、痛みに耐えながら矢倉は考える。名捕手とはなんぞや? と。


 打てる捕手、守れる捕手、強肩、リード技術……。

 だが、これらは全てが必要な要素であっても、根幹とはなり得ない。

 打てて守れても名捕手と呼ばれるとは必ずしも限らないのだ。

 

 では捕手に求められる物とは一体なんなのか?


 勝てる捕手。

 矢倉はそう考える。


 これは捕手という特異なポジションにも拠るだろう。

 扇の要とも形象されるキャッチャーは、投手を、ひいてはチームを牽引するポジションだ。

 リード次第で投手がノる・・事もあれば、ボコボコに打たれる事もある。

 打てるというのは野球の上で非常に重要な要素の1つではあるが、捕手はそれ以上にチームの勝利を求められるからだ。


 個人の打撃成績を蔑ろにするつもりは毛頭ない。

 だが、矢倉は自信のバッティングをこれ以上レベルアップする為に時間を使うのであれば、捕手としてのレベルアップに使いたかった。

 もちろん、打てれば打てるほどいいに変わりはない。

 3割を打てればそれだけでチームに好影響を及ぼし、打線はさらに重厚なものとなるだろう。

 だが矢倉としては、6点打てるチームよりも、0点に抑えられるチームの捕手でありたい。

 だからこそ、試合終盤での逆転を許す事が多いここ最近のファルコンズにあって、人一倍責任を感じていた。


 投手と捕手の関係性は特殊だ。

 勝ち続けているチーム内にあっても、その内容が悪ければ比例して両者の関係も悪化する。

 見える糸口があるのであれば話は別だが、ただひたすらに打ち込まれ続けると互いに不信感を抱くようになる。

 極端に言えば、7-6で勝った試合よりも、0-1で負けた試合の方が次に進めやすいというわけだ。

 勝たせる事が捕手の役割であることと矛盾するかもしれないが、0-1で負けた試合であれば、それは打線の問題であり、ピッチングに関してはもうほとんど満点だったと言ってからだ。


 だからこそ、ファルコンズのここ数年の成績に矢倉は悩み苦しんでいた。

 勝ったゲームのほとんどが乱打戦であり、投手陣の改革は急務と言われている。

 だが取った助っ人外国人ですら打ち込まれてしまうその内情は、中々に厳しいものがあった。


 そんな苦しんでいる矢倉に飛び込んできたのは、ドラ1ドラ2バッテリーの情報だった。

 ドラ1は何の前情報も持たない謎めいた左腕投手 立花 聡太。

 ドラ2は夏の甲子園で名門大阪藤陽を優勝に導いた真鍋 康介。


 矢倉はそれを知って危機感を抱いていた。

 いや、危機感自体は昨季からずっと抱いていたのだ。

 前情報では真鍋をファルコンズがドラ1で指名するとスポーツ新聞で言われ続けたからだ。

 まさか真鍋がドラ2になるとは、しかも他球団からの1位指名が無かった事も驚いた。

 後々聞けば、『ファルコンズ以外にたとえ何位で指名されても絶対に入団しない』と真鍋が言い続けていたかららしいが。

 結局、真鍋はしっかりとファルコンズに入団してきた。

 矢倉からすれば競争相手が一人増えたということだった。


 現在のファルコンズにおいて、捕手は矢倉以外にも勿論複数人在籍している。

 だがどの選手を見ても矢倉から見れば小粒、もしくは荒すぎる荒削りで、はっきり言って自分のポジションを脅かしそうな相手はいない。

 昨年の夏甲子園での真鍋のプレイを何度か見たが、まだ当面は相手にならないと矢倉は判断していた。


 だからこそ、入団してきた真鍋を春季キャンプで見た矢倉は驚いた。

 相当鍛え上げてきたのだろうと思える立派な体格もそうだが、何よりリード技術が目に見えて進化していた。

 まだまだ覚束ない点はあれども、ファルコンズ投手陣を相当勉強してきたのであろう。

 積極的に投手陣とも交流を図り、さも当然かのように1軍でシーズンをスタートさせた。


 春季キャンプの頃から、ドラ1ドラ2ルーキーズはチーム内でも話題に上がらなかった日は無かった。

 少し時間が空けば2人でなにやらずっと話をしている。

 コイツらできてるんじゃないか?

 チーム内でそう揶揄されるくらいにはずっと2人で何かを話していたからだ。

 時にはノートに何かを書きながら。

 時にはボールを手に持ちながら。

 寮の風呂でさえもなぜか頑なに2人で入ると聞いた時には驚いたものだった。


 しかも立花は投手にも関わらず、ピッチング練習をしない。

 いや、していないわけではないらしいが、どうやら監督含めたコーチ陣の前でしかその投球を見せていなかった。


 なぜ正捕手の自分にすら見せないのか。

 監督にそう言った事もある。

 だが、監督からは『まだお前に見せる時期じゃない』と言われた。

 何一つ納得のいく答えではなかったが、それ以上は何も言うつもりがないのか、監督からの返答は無かった。

 

 正捕手として取材陣からも相当数ルーキー達について聞かれたが、何も知らない、わからないとばかり返答していた。

 本当に何も知らなかったからだ。


「立花、真鍋ちょっといいか」


 だからだろうか、矢倉は自分からルーキー2人に声を掛けた。


「あ、お疲れ様っす。初めまして立花です」

「お疲れ様です! 矢倉さん!」


 ベンチに座って何やら話をしていた2人に声を掛けた。

 立花は座ったまま帽子も取らずに頭を下げる。

 真鍋はすっくと立ち上がり、被っていた帽子を取ると初々しい挨拶をした。


「こちらからしっかりと挨拶に回れていなくてすいません! 今年からお世話になります真鍋 康介と言います、先輩と同じ捕手として色々と勉強させてください!」


 ほら、立花お前もちゃんと挨拶しろ!

 座ったままで挨拶する立花に真鍋がそう怒るが、さして気にもとめていないのか立花は無視してノートに視線を戻す。


 なんなのだコイツらは……。


 不敬極まりない立花の態度への怒りよりも、奇妙な2人のルーキーへの興味の方が勝った。


「いや別に気にしないから構わんよ。それよりお前らは一体何を話していたんだ? 立花の球を俺が取る試合もあるんだから教えてくれ」


 矢倉は年長者としての余裕を見せるように、あえて作り笑いを顔に貼り付けて2人を見た。

 だが、そんな矢倉に向けられた視線は少し予想とは異なるものだった。

 立花からは平坦な感情の抑揚がまるで見られない視線。

 真鍋からは困ったような、だが少し自信のある視線が。


 そんなに変な事を俺は言ったか? 矢倉は2人の視線が奇妙で疑問を抱く。

 その答えは立花から返ってきた。


「いえ、たぶん矢倉さんが俺の球を試合で捕る事は当分無いと思います。恐らくですが最短でもオールスター明けの後半戦くらいからになるんじゃないですかね」


 たぶん捕れないと思うんで……なぁ? と立花が言いながら真鍋に問う。

 真鍋は立花と矢倉を交互に見ながら、だがしっかりと首を縦に振った。


 立花の球を俺が捕らない?

 しかも最短でも後半戦から?

 矢倉には立花が言っている意味が分からない。まるで拒絶されたように聞こえた。


「それは俺の能力が信用ならんと言いたいのか」


 言葉に怒気が含まれているのが矢倉自身にも分かっていた。

 怒りで肩が若干震える。それも自身で分かっていた。

 分かっていたがそれでも言わなければならなかった。

 ここで、はいわかりましたと引き下がってしまえば、それはチーム内での矢倉の求心力低下にも繋がるだろう。

 それは矢倉としても受け入れがたい事だった。

 

 だが、立花はそんな矢倉をまるで気にせずに視線をチラとだけ向けた。


「いえいえ、俺は矢倉さんの捕手能力を一ミリも疑ってないです。ファルコンズの正捕手は矢倉さんで、それはまだ当分続くでしょう」

「なら何故お前は俺に捕らせないんだ」

「いえ言ったじゃないですか。捕らせないんじゃなくて、捕れないって」

「なにぃ……?」


 それは捕手として最も侮辱にあたる言葉だと矢倉は思った。

 お前が捕手だったら捕逸するとでも言いたいのか?

 たかだか高卒上がりのお前の球を俺が捕れないだと……?


 矢倉の肩が怒りでわなわなと震える。

 その怒りは表情にも現れ、みるみるうちに顔が怒りで赤く染まった。


「立花お前ちょっと来い」

「え、今ミーティング中なんスけど」

「いいから来い! お前の球ごとき捕れないわけがないだろうが!」


 矢倉はそう言うと、ルーキー2人に背を向けてキャッチャーミットとマスクを手にブルペンへと向かう。

 監督が何と言おうが知ったものか。

 正捕手である俺を除け者にしている事もそもそも気に食わない。

 たとえ後でしこたま怒られようとも、あのクソ生意気なルーキーをきっちりカタにはめてやる・・・・・・・・


 スパイクがカツ! カツ! と音を立てるのも気にせずにドシドシと歩みをブルペンへと向けた。


 到着したブルペンには、まさかの副島監督の姿があった。

 どうやら数人のピッチャーの様子を見ているらしく、矢倉の姿を見た副島が訝しそうな視線を向けた。


「なんだヤグ、お前今日はブルペンに用事無いだろ」

「監督! 俺に立花の球を捕らせてください!」


 ヤグと愛称で呼ばれた事も無視して監督に掴みかからんばかりの勢いで矢倉がそう言った。


「はぁ……お前なぁ、まだ時期じゃないと言っただろうが」

「そもそも時期ってなんなんですか! 俺じゃ物足りないんならそう言ってくださいよ!」

「誰もそんな事は言っとらんだろう」

「言ってるようなものじゃないですか!」

「俺はな、お前の為を思って言ってるんだぞ。この大事な時期にチーム全体を把握出来るように自由にしてるつもりなんだが」

「その中に立花と真鍋は入れるなと言いたいんですか」

「入れるなと言ってるんじゃない。入らないと言ってるんだ」

「……俺のこと、バカにしてるんですか」

「あのなぁ……」


 2人のそんな禅問答のようなやり取りは当然ながらブルペンにいた全員が注目していた。

 気がつけば、声が鳴り響いていたブルペン内はシーンとしている。

 端から見れば、チームのトップと正捕手のいがみ合いにしか見えない。

 そのいがみ合いの中心に2人のルーキーが立っているのは全員が理解していた。


「僕はいいですよ、監督」


 困った様子の副島と、それを強く睨みつける矢倉のもとに、ようやく注目のルーキーが現れた。

 入団会見での傲岸不遜さそのままに悠然と現れると、副島にそう言った立花。

 後ろからは借りてきた猫のように真鍋が付いてきている。


「適当な事を言うなよ立花。お前だけの問題じゃない。矢倉自身の問題にもなるんだぞ」

「でも、このままだと矢倉さん納得しないでしょう? それに矢倉さんが納得してくれないと康介もやりにくいでしょうし」


 立花がそう言いながら後ろに立っていた真鍋にくいっと顎を向けた。

 その言葉に、「カァーっ、お前を取ったのは失敗だったかもな」「来月になったらそんな事も言わなくなるでしょ」などと軽口を言い始める2人に矢倉は怒りを通り越していた。


「よしわかった。それじゃ10球だ。立花が投げる球を10球のうち1度でも矢倉が捕れば俺は真剣に前半戦から立花の捕手に矢倉を検討する」

「うっす、了解です」

「わかりました」

「……」


 監督の言葉にさも当然かのように頷く立花と真鍋。

 立花はまだわかる。

 どんな理由かはわからないが、捕れないと本人が言っているのだから。

 だが、自分と同じ立場にいるはずの真鍋までスッキリとした表情で頷いた。

 やはりお前も口には出さないがそう思っているのか。


 今にも怒りでわめき出しそうなその闘争心を胸に、矢倉はのしのしと定位置に向って歩き始めた。

 今、何かを口に出せば暴言しか出ないように思ったからだ。


「いいか矢倉、約束だぞ。10だ。それで捕れなければお前は俺の言う事を聞け。わかったな」

「……」

「わかったな!?」


 バックネットから念を押すように言う副島に矢倉は小さく首を縦に振った。


 クソが、コイツら覚えてやがれ。

 今年が終わったら絶対にFAで移籍してやる。

 俺くらい打てて守れるなら他でも絶対に手が挙がるはずだ。

 こんなクソみたいな監督とルーキーがいるチームなどもはや愛着もない。

 育ててくれた恩はあるが、それを打ち捨てたのはコイツらなのだ。


 そう胸に強く決める矢倉の視線の先には立花がピッチングの準備をしていた。

 ブルペンの中にはすでに他選手の姿は無い。

 副島が出ていくように指示したからだ。

 何人かの選手は自分たちも同席したいと願い出たが、これ以上厄介事を増やしたくない副島からのにらみ殺しそうな視線ですごすごと退場していた。


 

 シン、としたブルペン。

 バックネットには副島がいて、真鍋はブルペン内の少し離れた場所に立っていた。


「んじゃ矢倉さん本気でいきますよ。絶対にミットを動かさないでくださいね・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 まずはフォークから行きます。

 立花のその言葉に、インローへミットを動かす矢倉。

 ストライクゾーンからボールゾーンへ逃げていくフォークだ。


 立花が頷く。

 大きく振りかぶってそのまま投球。


 遅い。

 最初に感じたのはそれだった。

 バッティングピッチャーだとでも言われたほうが納得できるほどに球速が遅い。

 球がそのまま近づいてきた時、ミットとはまるで違う場所に球は向かっていた。

 インローを要求したはずなのに、球筋はインハイ。しかもストライクゾーンギリギリの高さだ。


 矢倉は捕逸しないようにとミットを動かす。

 球を捕りに行ったはずのミットは空を切り、そのままボールは矢倉の右足付近を通り抜けてポスっ、とバックネットへと当たった。


「……は?」


 矢倉は呆然とした。

 球がまるで消えたように見えたからだ。

 手に持ったミットを開くがそこには当然のように球は無く、後ろを振り向くとそこには勢いを失って転がった白球。さらにその先には渋い表情の副島もいた。


「も、もう一球!」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。

 ほとんど無心のままで矢倉はそう言う。

 立花はそれに頷くと近くに置いていたボール入れに手を伸ばし、投球ポジションへと入った。


「もう一回、フォークいきます」


 慌てて矢倉はミットを構える。

 今度はインハイだ。

 先ほどとは打って変わって、ボールからストライクゾーンへと切り込んでくる形となる。

 立花は頷いて投球モーションに入る。


 その手からボールが離れた瞬間、これはワイルドピッチだ! そう確信して矢倉は立ち上がった。

 どう見てもその軌道は大きく後ろに逸らすに違いない。

 偉そうに言ったそばから暴投かよ!

 何とかして球を捕ろうと、胸中で毒を吐きながらジャンプした瞬間、ボールは矢倉の目から消えて矢倉は胸に衝撃を受けた。


「え」


 ポン、ポンと二度バウンドしてから止まったボール。

 ミットを見るとやはりそこにはボールは無い。


 なぜボールが捕れていない?

 今、ボールが俺のプロテクターに当たったのか?


 疑問符がいくつも浮かぶ。

 しかもそれは1つも消えることなく、時間を追えば負うほどに増えていく。


「次、いきますね」


 だが、その問いが終わる前に立花が声を掛けた。

 すでに手にはボール。

 矢倉は冷や汗が止まらない事を理解しながらも、震える手でミットを構えた。

 ガラガラと自身のプライドが崩れていくのがわかる。

 それでも矢倉はミットを構えずにはいられなかった。

 それが北九州ファルコンズ正捕手としての矜持だったからだ。


「次、カーブです」

「次、シュート」

「シンカー」

「ナックル」

「パーム」


 …。

 ……。

 ………。


 

 矢倉は一球も捕れなかった。

 あまりの衝撃に矢倉は茫然自失だった。

 たかが高卒ルーキー。

 しかもその球はプロレベルではないほどに遅く、球威もさして無い。

 当たれば飛ぶだろう。

 当たれば……だが。


 しかし、変化球は一級品だった。

 いや、一級品どころの話ではない。

 本当の意味で消える魔球だった。

 しかもその魔球が一体何球種あるというのだ?

 フォーク、カーブ、シンカー、ナックル、今や久しく見なくなったパームまである。

 さらにまだまだ球種はあるらしく、そのどれもが超一流を飛び越えて神の領域に到っている。

 このボールを誰が打てると? 当てられるというのだ?

 捕手ですら捕れないというのに……。


「だから俺はやめとけって言ったんだ」


 キャッチャーマスクすら取らずに呆然としていた矢倉に副島が声を掛けた。

 悲壮な表情で副島を見る矢倉。そこにはほんの少し前に添島へ食らいついていた正捕手の姿は無かった。


「今の大事な時期にこれをお前が知ったら、はっきり言えばチームどころではなくなるだろう。お前は絶対に立花の球を捕ろうと躍起になるだろうし、それはチームに良い影響を及ぼすとは思えない。だから立花は真鍋専属で考えていたんだ。逆に真鍋は立花以外の球を捕れなくなっているというのもあるがな」


 さっさと調整しろよ、と真鍋を小突く副島を見て、矢倉が違和感を感じた。


「立花以外が捕れないというのは一体……」

「あぁ……お前まだ立花はあの変化球が持ち味だと思ってるんだな」

「違うんですか……」

「よし、立花最後にもう一球投げてやれ。ストレートだ」


 副島にそう言われるのをすでに分かっていたのか、立花は小さく頷くとボール入れに手を向ける。


「矢倉、お前マスク捕れ。んでプロテクターも帽子も全部取って座れ」

「え、どういう意味ですか」

「まんまの意味だ。それで座ってミットを構えたら目を閉じろ」

「え!」

「いいから! 座ってここだという位置にミットを構えたら目を閉じるんだ!」


 それが嫌ならさっさと出て行け!

 監督の強い口調に慌てて防具を取る矢倉。

 硬球を生身のままで受けることなど捕手になってからはほとんどない。

 いくら立花の球が遅く球威も低いとしても、直撃すれば内出血は避けられないだろう。

 それでもここまでくればやるしか無いと、矢倉は怯えながらも座りミットを構えた。

 場所はアウトローいっぱい。

 右打者であっても左打者であっても見逃してもおかしくない場所である。

 審判によっては誤審が生まれてもおかしくないほどにギリギリの位置にミットを構えた。


「んじゃストレート行きますよ」


 ザッ、と土を蹴る音。

 すぐその後にバシッと左手に持つミットに衝撃を感じ、ほぼ無意識で何とか力を込めた。


「ストライーク!」


 いくぶんかかすれの混じった声で副島が声高らかにそう言った。

 恐る恐る目を開き、ミットを開ける矢倉。

 そこには、確かにボールが入っていた。

 変化球の時以上の衝撃を受ける矢倉。

 ガツン! と鈍器で殴られたようだった。


「わかったかヤグ」


 ミットを見たまま固まっていた矢倉に声を掛ける副島。

 いつの間にか矢倉を愛称で呼んでおり、声色も先程までとは打って変わって優しげだった。


「立花の真骨頂はあの変幻自在の変化球ではない。もちろん、武器としてこれ以上無いものを持っているが、そうじゃない。誇るべきはあのコントロール能力だ。精密機械どころじゃぁない。立花は投げたい場所に正確無比に一ミリのズレも無く投げ込む事が出来るんだよ」


 言っている事が理解出来なかった。

 投げたい場所に投げられる?

 一ミリのズレもない?

 そんなの、どのピッチャーにも出来るわけがない。

 ボールは回転するのだ。

 その回転は一定ではなく、絶対に毎球異なる。

 さらに天候や風によっても異なってくる。

 様々な要素がかみ合った中でピッチャーは何とかしてボールを投げているのだ。

 そんなのロボットにさえ出来るわけがない。


「立花が言っただろう、絶対にミットを動かさないでくれ、と。それに立花が投げた変化球の曲がりは一定じゃない。立花の投げ具合で大きくも小さくもなる」

「そんなの捕れるわけがないじゃないですか」

「だから言っただろうが。捕らないんじゃなくて捕れないと。そもそも捕りに行く必要なんて無いんだ。構えていればそこにボールが自分からやって来るんだから」


 おい真鍋、お前の身体を矢倉に見せてやれ。


 副島が矢倉から視線を外し、ブルペンの端にいた真鍋に声を掛けた。

 身体を見せる? 意味が分からずに顔を顰めている矢倉を置いて、物凄く嫌そうな表情で防具を脱いでいく真鍋。

 そしてそのまま上半身のユニフォームのボタンを全て開けると、中に着ていたインナーも脱いだ。


「そ、それは……」


 ブルペンで露わになった真鍋の上半身を見て、矢倉が言葉を失った。

 そこには、無数の内出血で青黒くなった部分がいくつもあったからだ。

 腕、肩、腹、果ては鎖骨付近にまで。


「それは真鍋が入団が決まってから今まで特練で受けた捕手練習のものだ。具体的にはピッチングマシーンから出てくる球がどれだけ逸れようが、真鍋は一切ミットを動かさない練習だな」

「ほら、やっぱり引かれるじゃないですか。だから風呂でも見せたくないんですよ……」

「その身体じゃ女も引っ掛けられんな」

「触られるだけでも痛いのにそれどころじゃないですよ監督!」

「だが、その身体がお前の捕手としての矜持だな」

「まぁ、引かれるのは嫌ですけど、努力の賜物だとは思ってます」


 なんだその練習は。

 ぶつくさと言う真鍋とその身体を見て笑っている副島を見て、矢倉は思わず言いそうになって口を噤んだ。


「機械とはいえ、ボールは毎回必ず異なる弾道となる。だが、どれだけ弾道が逸れようが真鍋は最初に構えた場所からミットを動かしてはならんのだ。なぜなら立花の球は絶対に構えた場所に飛んでくるからな」


 だからお前の動きは全然おかしくないし、むしろコイツらがおかしいんだ。

 副島のそんな言葉も矢倉にはまるで響かなかった。

 捕れていないのだ、高卒ルーキーなんてことない球が。


「ちなみに真鍋がまとも球を捕れるようになったのはごく最近だ。コイツら入団前から2人で練習していたらしいから、何ヶ月かかったんだ?」

「ざっと半年ですかね」

「と、いうわけだ矢倉」


 どういうわけか、と言いそうになって立花の言葉がすとんと落ちた。


「真鍋が半年なら、お前だったらもっと早いだろう? お前なら半分の3ヶ月でモノに出来ると俺は確信している」


 しっかりと目を見てそう言う副島に矢倉は何と返せばいいのかわからなかった。

 今の監督の言葉を真正面から受け止めれば、信頼されていると理解していいだろう。

 しかも真鍋は対立花で特練を繰り返した結果、通常のピッチャーの球を捕れなくなっているらしい。

 きっと監督はその辺りの修正も含めてお前なら全部やれるだろ? と言っているのだ。


「本来であれば、再来週あたりから始めるつもりだった。だから今年のキャンプは今まで以上に気合を入れとけって言っただろ?」


 副島の言葉に矢倉は思い出していた。

 確かにキャンプイン初日、副島はそう矢倉に言っていた。

 だが矢倉からすれば、昨年の雪辱を果たす為の1つの方便だと思っていただけだった。


「監督、それはもっとちゃんと言ってくれないとわからないです」

「ん? そうか? 俺とお前の間柄なら分かると思ってたんだが」

「大事なポイント何も言ってないじゃないスか」

「細かい事をファルコンズの正捕手がグチグチ言うな」

「ひでぇ」


 ここ数年、副島から掛けられた言葉で最も嬉しい言葉だった。

 たった4人しかないブルペンで、しかもその内2人はルーキー。

 誰かが聞いているわけでも、評判が上がるわけでもない。

 だが、信頼されている事はこんなに嬉しかったのだと改めて矢倉は思い起こされた気分だった。


「監督、立花、真鍋。どうか頼みます。俺もファルコンズの一員として泥臭くやってみたくなりました」

「お前はもともと泥臭いだろ」

「こちらこそ宜しくお願いします! 矢倉先輩!」

「これからお世話になります」


 矢倉はプライドも何もかも捨て去る気持ちで3人に頭を下げた。

 だが、それは実際にはプライドを捨てる気持ちから生まれたものではなく、捕手としてのプライドゆえに頭を下げたのだと本人は気づいていなかった。


 また、この後言った立花の言葉も矢倉には嬉しかった。


「副島監督が言ったようにファルコンズの正捕手は矢倉さんです。これは俺も康介も思っていることです。俺らは矢倉さんを蔑ろになんて全くするつもりはありません。次世代の正捕手は康介ですが、それを育てる気持ちも持っててほしいんです。それに確かに球は捕れなかったですけど、康介の時に比べたら雲泥の差でしたよ。さすがはファルコンズの正捕手ッスね」

「おい聡太! お前それを言ったら上半身裸でいる俺がアホみたいやんけ!」

「お前はアホみたいなんじゃなくて、阿呆だよ」

「ぶっ飛ばすぞてめー!」

「いつまでも裸のままでじゃれつくな! さっさとユニフォームを着んかバカ真鍋!」

「ちょっ! 監督までそりゃないですって……」


 いがみ合うルーキー2人と、それを怒りながらも笑っている監督を見て矢倉は決心した。

 ファルコンズの一員として、正捕手として、そして捕手人生を掛けようと。

 もうその頃にはFAの事などすっかり頭からは飛んでいて、これから始まる捕手人生の矜持を持って。



 今日もファルコンズは勝利した。

 矢倉がスタメンをマスクを被り、6回を終えて失点は1。

 7回で登板した立花と真鍋に合わせて先発ピッチャーと矢倉も降板する。

 もうチーム内の誰もその光景に違和感を感じていない。

 いや、表情には出していないだけで、こんな馬鹿げた指揮采配に疑問を抱いている選手もきっといるだろう。


 だが、そんな声も今の矢倉には届かない。

 ベンチに戻ってすぐ、目を見開かんばかりの形相でマウンドを睨む矢倉。

 一球でも見逃してたまるかと立花のピッチングを、そしてその先に座る真鍋を見る。

 今この瞬間だけはファルコンズの正捕手という肩書を捨てていた。

 構えたミットをピクリとも動かさない真鍋。

 吸い込まれるようにそこに消えていくボール。

 またストライクで三振だ。

 試合はそのままなんのメイクドラマも迎える事無く、淡々と終えた。

 



 試合終わり、矢倉はシーズン中ではあり得ないくらいにここから深夜特練を始める。

 今日も飯の誘いは断った。それどころではないからだ。

 帰りたそうにしているブルペンコーチを意にもせず、淡々と投げ込まれるピッチングマシーンを回し続ける。

 また捕逸した。

 青痣の上にまたボールが当たる。

 さらなる痛みが左腕に走るが、矢倉は嬉しそうだ。

 まるで増えていく内出血の数が、自分の成長の証のように思えてきて、俺もヤキが回ったかな、と一人小さく笑った。

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