第10話 大人になったこともないくせに!

 千花名ちかなは、ここでこのおしゃべりを終わらせたかった。だいたい、先生の結婚なんて、生徒たちでどうにかできることではないのだ。

 「いや、それは幸せになると思うけど」

 言いかたが無愛想だったと思ったので、つけ加える。

 「いい人だから」

 そのとき、やっと、千花名は菜穂なほが立ち上がっているのに気づいた。

 ピアノの蓋は閉めてある。そっと蓋を閉めて、そっと鞄を手に取ったらしい。もう鞄は肩にかけていた。

 ああ、しまった、と思った。

 止めなければいけなかったのだ。この子たちのおしゃべりを。

 菜穂は、ピアノの横に立って、千花名を見下ろしていた。

 おしゃべりしていた子たちではなく、千花名を見ていた。

 あれっ、と思う。

 怒っている。それはわかる。

 しかし、それだけではなく、いつもの菜穂の顔と、何かが違う。

 菜穂は、千花名を見ておいて、ぷんっと横を向いた。

 「いい人が結婚したら幸せになるって思うなんて、意外と千花名って子どもだね!」

 反射的にむっとした。

 どうしてこのおしゃべりしていた子たちにではなくて、自分に絡むのだろう?

 しかも、いま練習が遅れていて迷惑をかけているのは、菜穂のほうなのに。

 それで、千花名は言い返した。

 「いい人が結婚して幸せになることを祈ったり願ったりして、何か悪いの?」

 「祈ったり願ったりはいいよ、べつに」

 菜穂はさらに早口になって言った。

 「でも、どうして幸せになるって決めつけるの?」

 わけがわからなかった。

 決めつけたわけではない。ただのたわいのない雑談だ。

 二人の後輩も怯えていた。いや、ヴァイオリンの子のほうはわからない。チェロの子は、その眼鏡に映っている部屋の明かりがふるえるので、細かくふるえているのがわかった。

 千花名は立ち上がった。

 もしかすると、それがよくなかったのかも知れない。千花名のほうが体が大きいので、菜穂を見下ろすことになる。

 しかも、黒板と教室の机のあいだで、菜穂の通り道をふさいでいた。

 千花名は深呼吸してから言った。

 「ねえ、もうちょっと大人になろうよ。この子たちだって……」

 そこまで言ったときだった。

 「大人大人って、大人になったこともないくせに!」

 菜穂は声を張り上げた。いちどもきいたことのない、金切り声とか悲鳴とか言ってもいいような声だった。

 そうなると、引っこむよりも、引っこみがつかなくなるのが千花名だ。

 「いや、だから、そういうのが……」

大人になってないということじゃない?

 「今日はわたし帰るから!」

 そう言うと、菜穂は千花名を押しのけた。千花名がフルートを落としそうになる。フルートをしっかりつかんだあいだに、菜穂はすぐ横を通り抜けてしまった。

 そのときには気づかなかった。

 いま思い出す。

 菜穂はお化粧していた。ふわっとやさしいいい香りが残った。

 そのお化粧のせいで、あのいつもの赤いぽつぽつが見えず、それで、菜穂の顔がいつもと違って見えたのだ。

 菜穂は扉をぴしゃんと閉めたりせず、普通に穏やかに閉めて行った。

 そのあとで、後輩二人が大きく息をついた。

 「ああ、怖かった!」

 ヴァイオリンの子が言う。

 「小山おやま先輩って、いつもあんなのなんですか?」

 「ああ、えっと……」

 いつもはあんなのではない。

 でも、そう答えると、この子は次に「じゃあどうしてあんなに怒ったんでしょうね?」と他人ごとのようにきいてくるだろう。

 いや、あんたたちがうるさくするからだよ、と答えてもいいのだけれど、それではこの二人は納得しないだろう。それ以上に、千花名が納得しない。

 人が練習しているときに、おしゃべりしないこと、とぴしゃっと言ってもよかったけど、そんな先輩ぶってみる元気もなかった。

 「こんなのじゃわたしも練習できないから、わたしも帰るわ」

 そう無愛想に言って、不可解そうにしているヴァイオリンの子と、悪いことをしたという顔でこっちを見ている眼鏡のチェロの子をあとに残して、千花名も音楽室を出た。

 帰りがけに菜穂の姿をちらっと見た。

 図書館前に木が植えてあるところがある。その向こう側の温室と合わせて「植物観察園」と呼ばれていた。さまざまな種類の木をあつめているらしくて、授業で植物の観察に使う。千花名も二回か三回ここでそういう授業を受けたことがある。

 見通しが悪いわけではないが、木が混み合っていて昼でも薄暗い。とくにこんなうっとうしい雨の日はそうだ。

 菜穂はそこにいた。

 傘もささないで。

 奥のほうの木の幹に手をついて、じっと前を向いていた。

 眉をひそめてはいる。でも泣いてはいないようだった。千花名が見ていることに気がついている様子もない。

 泣いているならば行って声をかけなければ、と思ったけれど、なんだ、泣いてないんだ……。

 それに、帰るから、と言ったくせに、帰ってないじゃんか。

 千花名はそう思うと不愉快になった。腹が立った。それでそのまま門を出た。

 駅に向かう道で千花名は多祢子たねこ先生と出会った。

 そして。

 いま、千花名はここにいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る