第9話 めぐりあって、結婚するんだよね

 今日、練習のために音楽室に行くと、中等部二年生の二人がいた。この二人の担当楽器はヴァイオリンとチェロで、中等部の三年生と組んで三重奏曲を弾くことになっている。三年生は高等部への進級が半年後ということで特別授業が組まれていて、また来ていない。

 室内楽部で音楽室を押さえている日には、だれとだれの組がどの時間に練習するかという時間が決めてある。

 この中等部の子たちの練習時間は千花名ちかな菜穂なほの後だった。

 千花名と菜穂は秋のコンクールに向けて曲を練習しておかなければいけない。その準備が遅れていて、千花名は焦りを感じていた。

 遅れているのは、菜穂がなかなか曲を身につけてこないからだ。いつも途中まで弾いて、

「ごめん。今日はここまで」

で止めてしまう。

 コンクールのために選んだ曲は、もともとはヴァイオリンのための曲で、フルートで吹くとどうなるか。千花名は一人では通して吹いてみたけれど、ピアノと合わせたときにどうなるかがわからない。ピアノの楽譜を覚えるのはたいへんなのはわかるけれど、千花名にしても早く感覚をつかんでおきたいのだ。

 去年まではこんなことはなかった。自分から誘っただけあって、先に菜穂がピアノを仕上げてきて、それに千花名が合わせる、というのがこれまでのパターンだった。

 今日も、最初に仕上がっているところをいちど合わせたあとは、菜穂が一人でピアノを練習していた。

 千花名はずっと前に覚えた部分だ。それを菜穂が詰まりながら何度も弾き直している。

 千花名もときどきフルートを取り上げては吹いてみるが、菜穂の弾いているところに合わせると、菜穂にはプレッシャーになるらしく、すぐに弾くのを止めてしまう。だからといって、ぜんぜん別のところを吹くとよけいにじゃましているようだ。軽く音階の練習をしてあとは待っているしかなかった。

 高等部の先輩がそんな状況なのに、中等部の二人は横でずっとおしゃべりしている。

 ほかの組の練習時間に来たときにはおとなしくしているものだし、できれば、ほかの組の練習をきいてアドバイスするなり、自分たちの演奏の参考にするなりするもので、練習のじゃまをしていいというわけではない。この子たちもおしゃべりするなら外でやってくれればいいのに、と思う。

 眼鏡をかけたチェロの子は気にしているようで、ときどき千花名の顔をうかがっていたが、もう一人のヴァイオリンの子のほうはお構いなくしゃべりまくっている。

 菜穂といい、この二年生といい、ストレスがたまる、と思う。だからといって、自分たちの練習時間が終わる前に練習を打ち切って出て行くのもいやだった。そうすると菜穂は傷つくだろう。菜穂との関係をいまこじらせると、ただでさえ遅れている練習がもっと遅れる。

 千花名は、フルートを置くこともせず、口もとにも持っていかず、中途半端に胸の前に持ったまま、ぼんやりと考えた。

 ライバルの明珠めいしゅ女学館じょがっかん高校室内楽部を破って全国に行く、というのが目標なのかどうかはわからない。全国大会なんて行ったことはないし、想像しようとしても遠くにぼうっとぼやけた姿でしか思い浮かべられない。

 じゃあ、何が目標なんだろう?

 地区選考会まで行って、恥ずかしくない演奏をすること?

 それとも……。

 「ねえねえ、山辺やまなべ先輩」

 ヴァイオリンの子がいきなり声をかけてきた。

 「野入のいり先生ってまだ独身ですよね?」

 菜穂が弾くのをやめた。それがその子の大声を気にしてなのかどうかはわからない。

 「いや、おしゃべりやめようよ」と言ったほうがいいのだろうか。

 でもそういうのは苦手だ。言って効果があればいいけれど、効果もなくて中等部の子にいやな先輩と思われるだけなら、それはめんどうだ。しかも、うるさいヴァイオリンの子の向こうで、チェロの子も眼鏡を輝かせて興味津々という顔でこっちを見ている。

 さっきからきいていると、今年は野入先生が練習をあまり見に来てくれないという話から、野入先生も忙しくなったんだろうとチェロの子が言い、それに対して、いや、さっき野入先生が急いで廊下を歩いているのとすれ違った、という話になって。

 そこからどうして独身かどうかなんて話になったかは、よくわからない。千花名はとりあえず無愛想に答えた。

 「いや、そのはずだけど」

 菜穂がちらっと千花名を見たが、そのまままたアップライトピアノのほうを向いてしまった。

 千花名の乗り気のしなさそうな答えにも、ヴァイオリンの子は身を乗り出してきた。

 「結婚の話とかないのかな?」

 言うと、チェロの子も

「ありそうだよね」

と言う。それで、ヴァイオリンの子が

「ねえねえ、先輩、何か知りません?」

ときいた。

 千花名はどう答えていいかわからない。

 野入先生はこの子たちの学年は教えているらしく、やっぱり人気があるらしい。少なくともこの子たちは野入先生のファンと言っていい。

 で、いま千花名が困っているのは、この子たちが、野入先生が結婚するのを望んでいるのか、いないのか、わからないということだ。

 もし相手がどこかの学校の男子の中学生ならば、「どっちにしても先生がキミと結婚する可能性なんかないんだから、気にするのやめなよ」と言うところだけれど。

 千花名自身はどうだろう?

 野入先生はいい先生だと思う。では、結婚してほしいかというと?

 どっちでもいいと思った。もし、いますぐ結婚することになって、先生が家の都合で学校をやめるとかいうことになると、それはいやだ。いまと同じように部の指導をしてほしい。だいたい、室内楽部門はともかく、人数が多くて練習もきついオーケストラがいまもやっていけているのは、野入先生がていねいにめんどうをみているからなのだ。先生がいなくなれば、オーケストラも成り立たなくなるだろう。そうなると室内楽だっていまのままというわけにはいかなくなる。

 でも、先生が、このままずっと結婚しないで四十歳とか五十歳とかになるのがいいかというと、それはかわいそうだと思う。

 その程度だ。

 「いや、知らないけど」

 「先生のことだから、結婚したらきっと幸せになるよね」

 言ったのは、落ちついているチェロの子のほうだ。それにヴァイオリンの子が応える。

 「きっとすごいいい男の人とめぐりあって、結婚するんだよね」

 千花名は何とも返事しないつもりだった。

 そこで

「ねえ、山辺先輩、どう思います?」

ときかれなければ。

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