第8話 ……ずん胴だ
雨はやんでいないらしい。すりガラスの外でも雨が何かに当たる音が続いていて、ときどき雨粒が窓に当たって流れて行く。
外はまだ明るい。
階段をだれかが上がってくる音がした。勢いよく足音が近づいてくる。これは多祢子先生だろうと思っていると、その通りだった。
「あと三十分ちょっとで出番だからね。そろそろ服着替えて」
「はい」
言って、
「チカってあんたなんにも食べてないねぇ」
多祢子先生が上からのぞきこんで言った。千花名が返事するひまも与えないで
「チカってサイズMぐらいだよね?」
という。体型はきかれたくないけど、いまはそうはいかない。
「いや、それよりは大きいです」
「ああいやいや。こんなの裾の長さだけだから。大きいのにすると、裾、踏んづけちゃうよ。いまの制服のスカートぐらいでいいでしょ?」
「ああ。はい」
あいまいに返事すると、先生は廊下に出て行って、しばらくすると白い服を左手に掛けて戻って来た。あいかわらずどすどすと勢いよく歩くのは、先生の癖かも知れないし、その披露宴のために急いでいるからかも知れない。
それで合うかどうかは不安だ。先生は小さかったころの千花名しか知らない。それに先生自身が大きいので、千花名の体が大きいのがわからないのかも知れない。
それと、着替えはどこですればいいのだろう。
「この部屋で着替えるんですか?」
千花名がきくと、多祢子先生はちょっと困った顔をして
「うぅん……聖歌隊の着替え部屋行ってもいいけど、いちど階段下りて回っていかないといけないけど」
と言う。それはめんどうだし、間に合わなくなるかも知れない。それで黙っていると
「ここの部屋、鍵かけておくから、扉、両方とも。だからここで着替えたんでいいんじゃない? 外からも見えないから」
ということだったので
「じゃ、そうします」
と返事した。先生は千花名が座っていた椅子の隣の椅子に、持って来た白い服をそっと置いた。聖歌隊の服だからか、先生もていねいに扱っているようだ。
「じゃ、あと三十分ぐらいしたら電話かけて呼ぶから。あ、チカって、名まえ、
とっさに返事する。
「はい」
いや、名まえの紹介なんかいいです、と言うんだった。
それとも「しなくていいです」と言わないと通じないか。
「それじゃ、お願いね」
でも、千花名が「しなくていいです」を言わないうちに、多祢子先生は部屋の扉を閉めて行ってしまった。
先生が出て行ってからまず気づいたのは、サンダルかスリッパを持ってきてもらうんだったな、ということだ。
ブーツを履いたままでは制服のスカートが脱げない。しかし下は板張りの床だ。きれいだけど、靴で歩いていた。
その電話というのをこちらからかけて先生を呼ぼうか。しかし、番号はわからないし、わかったとしても、結婚式か披露宴かの最中の先生を呼ぶわけにもいかない。
スリッパか上履きがあっただろうか。でも、それを捜しに出て、見つけられず、時間がかかって、着替えができなかったらどうしよう。
しかたがないので椅子に座ったままブーツを脱いだ。ジャンパースカートの肩のホックをはずす。ファスナーを下ろす。ベルトもはずす。足を浮かせているからお尻の下に敷いたスカートがどうやっても取れない。お尻の横にジャンパースカートの上身頃を握った手をやったまま動きが取れなくなる。
何をやっているんだろう。
そのまま足でブーツをさぐり、引っかけて引っぱり上げ、軽く足を入れる。爪先立ちで腰を浮かせてスカートをお尻の下を通した。それで両足からブーツを振り落とすと、両足の膝を引っこめてスカートを脱ぐ。
スカートを脱いでしまうと度胸がついた。またブーツに足を突っこんで、胸のリボンをはずし、シャツのボタンをはずしていく。
下着だけのあられもない格好になる。あちらこちらが汗ばんでいる。拭いて、制汗スプレーも振りたい。でも、そのあいだに出番が来てしまったら、と思うと、鞄を取って、タオルを出して、スプレーの缶も出して、なんてやっている余裕はなかった。どうせ洗うのは先生だと思って、そのまま聖歌隊の制服をとる。なかに十字架の重いペンダントが入っていた。教会の聖歌隊なのだからあたりまえだ。その十字架はテーブルの上に置いて、服をかぶって着る。またブーツのなかの足を爪先で軽く踏ん張ってお尻の下を通す。たしかにこのサイズで裾が膝の少し下だ。肩幅はゆったりしていて問題はない。だが。
ブーツに足を突っこんで立ち上がってみて、思う。
……ずん胴だ。
ベルトがわりの紐を結んでみても、ずん胴だ。
服がずん胴でないほうがありがたいかというと、そこまで自分の体型に自信はない。
でも、子どものころにこの服にあこがれていたのか、と思うと、おかしい。
フルートがちかっと光を反射した。
「今日はわたし帰るから!」
叩きつけるように言って出て行った
出番前にいやなことを思い出していてはいけない。そうは思ったけれど、フルートを前に座っているとどうしても思い出してしまう。
電話はかかってこない。それはそうだ。まだ十分も経っていない。
急いで着替えただけあって。
もう帰れない。菜穂は帰れたかも知れないけど、いまの千花名は帰れない。
こんなことなら、もう少しもたもたするんだった。
千花名は、膝に両手を置き、大きく息をついて、そのフルートのきらめきをじっと見つめた。
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