第8話 ……ずん胴だ

 雨はやんでいないらしい。すりガラスの外でも雨が何かに当たる音が続いていて、ときどき雨粒が窓に当たって流れて行く。

 外はまだ明るい。千花名ちかなはカップに入ったまま冷めてしまったミルクティーを一口飲んだ。さっきより甘く感じないのは、味に慣れたからか、多祢子たねこ先生が二杯めだからと入れるはちみつの量を減らしてくれたからか。その味でちょうどいいと思った。

 階段をだれかが上がってくる音がした。勢いよく足音が近づいてくる。これは多祢子先生だろうと思っていると、その通りだった。

 「あと三十分ちょっとで出番だからね。そろそろ服着替えて」

 「はい」

 言って、とう椅子から立ち上がる。

 「チカってあんたなんにも食べてないねぇ」

 多祢子先生が上からのぞきこんで言った。千花名が返事するひまも与えないで

「チカってサイズMぐらいだよね?」

という。体型はきかれたくないけど、いまはそうはいかない。

 「いや、それよりは大きいです」

 「ああいやいや。こんなの裾の長さだけだから。大きいのにすると、裾、踏んづけちゃうよ。いまの制服のスカートぐらいでいいでしょ?」

 「ああ。はい」

 あいまいに返事すると、先生は廊下に出て行って、しばらくすると白い服を左手に掛けて戻って来た。あいかわらずどすどすと勢いよく歩くのは、先生の癖かも知れないし、その披露宴のために急いでいるからかも知れない。

 それで合うかどうかは不安だ。先生は小さかったころの千花名しか知らない。それに先生自身が大きいので、千花名の体が大きいのがわからないのかも知れない。

 それと、着替えはどこですればいいのだろう。

 「この部屋で着替えるんですか?」

 千花名がきくと、多祢子先生はちょっと困った顔をして

「うぅん……聖歌隊の着替え部屋行ってもいいけど、いちど階段下りて回っていかないといけないけど」

と言う。それはめんどうだし、間に合わなくなるかも知れない。それで黙っていると

「ここの部屋、鍵かけておくから、扉、両方とも。だからここで着替えたんでいいんじゃない? 外からも見えないから」

ということだったので

「じゃ、そうします」

と返事した。先生は千花名が座っていた椅子の隣の椅子に、持って来た白い服をそっと置いた。聖歌隊の服だからか、先生もていねいに扱っているようだ。

 「じゃ、あと三十分ぐらいしたら電話かけて呼ぶから。あ、チカって、名まえ、山辺やまなべ千花名だよね?」

 とっさに返事する。

 「はい」

 いや、名まえの紹介なんかいいです、と言うんだった。

 それとも「しなくていいです」と言わないと通じないか。

 「それじゃ、お願いね」

 でも、千花名が「しなくていいです」を言わないうちに、多祢子先生は部屋の扉を閉めて行ってしまった。


 先生が出て行ってからまず気づいたのは、サンダルかスリッパを持ってきてもらうんだったな、ということだ。

 ブーツを履いたままでは制服のスカートが脱げない。しかし下は板張りの床だ。きれいだけど、靴で歩いていた。

 その電話というのをこちらからかけて先生を呼ぼうか。しかし、番号はわからないし、わかったとしても、結婚式か披露宴かの最中の先生を呼ぶわけにもいかない。

 スリッパか上履きがあっただろうか。でも、それを捜しに出て、見つけられず、時間がかかって、着替えができなかったらどうしよう。

 しかたがないので椅子に座ったままブーツを脱いだ。ジャンパースカートの肩のホックをはずす。ファスナーを下ろす。ベルトもはずす。足を浮かせているからお尻の下に敷いたスカートがどうやっても取れない。お尻の横にジャンパースカートの上身頃を握った手をやったまま動きが取れなくなる。

 何をやっているんだろう。

 そのまま足でブーツをさぐり、引っかけて引っぱり上げ、軽く足を入れる。爪先立ちで腰を浮かせてスカートをお尻の下を通した。それで両足からブーツを振り落とすと、両足の膝を引っこめてスカートを脱ぐ。

 スカートを脱いでしまうと度胸がついた。またブーツに足を突っこんで、胸のリボンをはずし、シャツのボタンをはずしていく。

 下着だけのあられもない格好になる。あちらこちらが汗ばんでいる。拭いて、制汗スプレーも振りたい。でも、そのあいだに出番が来てしまったら、と思うと、鞄を取って、タオルを出して、スプレーの缶も出して、なんてやっている余裕はなかった。どうせ洗うのは先生だと思って、そのまま聖歌隊の制服をとる。なかに十字架の重いペンダントが入っていた。教会の聖歌隊なのだからあたりまえだ。その十字架はテーブルの上に置いて、服をかぶって着る。またブーツのなかの足を爪先で軽く踏ん張ってお尻の下を通す。たしかにこのサイズで裾が膝の少し下だ。肩幅はゆったりしていて問題はない。だが。

 ブーツに足を突っこんで立ち上がってみて、思う。

 ……ずん胴だ。

 ベルトがわりの紐を結んでみても、ずん胴だ。

 服がずん胴でないほうがありがたいかというと、そこまで自分の体型に自信はない。

 でも、子どものころにこの服にあこがれていたのか、と思うと、おかしい。

 フルートがちかっと光を反射した。

 「今日はわたし帰るから!」

 叩きつけるように言って出て行った菜穂なほを思い出した。

 出番前にいやなことを思い出していてはいけない。そうは思ったけれど、フルートを前に座っているとどうしても思い出してしまう。

 電話はかかってこない。それはそうだ。まだ十分も経っていない。

 急いで着替えただけあって。

 もう帰れない。菜穂は帰れたかも知れないけど、いまの千花名は帰れない。

 こんなことなら、もう少しもたもたするんだった。

 千花名は、膝に両手を置き、大きく息をついて、そのフルートのきらめきをじっと見つめた。

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