第6話 だから千花名ちゃんが順番で上
いまから三年前、中学校二年生のころ、それも今日と同じようなうっとうしい雨の日だった。ただし季節は秋、それも冬が近いころだった。
つつつっと
「ねえ、千花名ってフルート吹けるんでしょ?」
と誘ったのが、
一年生では同じクラスだったけれど、二年生では別のクラスになっていた。
「吹けるけど、なんで?」
千花名は正令での暮らしで身につけた無関心そうな言いかたで答えた。でも、菜穂は、微笑を絶やさず、白い頬に赤いぽつぽつが目立つのも隠さないで、気さくに言った。
「わたしといっしょに、音楽部、入らない?」
「軽音楽部じゃなくて音楽部?」
「うん」
「ああ、べつにいいよ」
そっけなく答える。
そうだ。さっき
このときも同じだった。「べつにいいよ」というのは「音楽部なんか入らなくていいよ」のつもりだったのに、菜穂は「入ってもいいよ」という意味だと解釈してしまったのだ。
菜穂も、ふだんはどっちかというと無表情だ。ただ、色白で、その白い肌の色に似合う薄い色の髪で、それを頭の後ろでまとめているのがとてもお嬢様っぽくて似合っていた。そして、しゃべると、軽やかな声で表情豊かに話す。吹き出物かにきびか知らないけれど、顔に赤いぽつぽつがある。普通なら隠したりごまかしたりするだろう。ところがそれが肌の白さを引き立てている。かえって顔を明るく見せる。千花名も色白だけれど、その菜穂とくらべると単調で、ただ絵の具で白く塗っただけのようだ。
菜穂は、背の高さは中ぐらいだけど、体のつくりがきゃしゃでチャーミングだ。
千花名は、バレー部にいるあいだは、背が高くなりたい、体が大きくなってほしいと思っていた。心から願っていた。身長計は持っていなかったから、自分の本棚の横に定規の目盛りを写した紙を貼りつけて、英語の辞書を頭に当てて、毎日、身長を測っていた。それで少しでも伸びていると嬉しかった。辞書はそうやって使った回数が勉強で使った回数よりもずっと多かった。
でも、バレー部から離れてみると、体が大きいことには何の意味もなかった。それだけに菜穂のそのきゃしゃな体つきはよけいに魅力的に見えた。
その菜穂が、入部届の用紙を持って来て、しかも五人まで書ける用紙を持って来て、しかもいちばん上の欄を空けて自分の名まえを書いて、
「千花名も、はい」
と差し出したときに、断る勇気はなかった。菜穂の名まえの下に自分の名を書こうとすると
「ああ、ちがうちがう。なんで下に書こうとするかなぁ」
と軽やかな声で言う。
「え? だって順番で上から書いて行くものじゃないの?」
と千花名が言い返すと、
「あ。いやいや。だから千花名ちゃんが順番で上」
と言われて、理屈はよくわからないまま、自分の名まえを上に書いた。
音楽部というのはつまりオーケストラで、べつにいやではなかったけれど、練習がたいへんそうだった。それで入学後に部活を選ぶときには最初から候補からはずしていた。
だから、入部してもまたオーケストラの幽霊部員になるんだろうな、と思っていたら、そうではなかった。
千花名が菜穂に連れられて音楽室に行ってみると、
野入
背は小さくて、菜穂よりも高いけど千花名より低い。
「先生、連れて来ました」
言って、菜穂が笑った。
「あ。フルートが上手、って子だね。隣のクラスの」
少し内にこもるような低い声で、野入先生は言った。
「はい!」
菜穂が嬉しそうに答える。千花名が
「あ。上手じゃないです」
と止める。下手だとは思わないけれど、上手なのかというとよくわからない。
でも、菜穂と野入先生は二人で顔を合わせて笑った。
「いや、だからね」
野入先生が説明する。
「こんど、室内楽部門を作りたいのよ。音楽部のなかに」
そう言われただけで納得してしまいそうな言いかただった。でも何の説明もまだ受けていない。
「はい」
「音楽部ってオーケストラだけど、いつまで続けてられるか、ってあってね」
「はい」
そこで止めておけばよかったのに、
「いつまで、ってどういうことですか?」
つられてきいてしまった。
「だって、いまどき、みんな疲れる部活はやりたがらないじゃない?」
野入先生はあけすけに言って短く笑った。
「オーケストラって、拘束時間が長いし、人数多くないと成り立たないでしょ? しかも大きい曲をやろうとするとほかから応援来てもらうから、日曜練習とかざらだし」
「ああ。だから入るのやめたんですけど」
千花名は正直に言う。いま思うとよくそこまで無愛想に言ったものだ。でも野入先生は
「でしょー!」
と大声で相槌を打った。
「でね。室内楽のコンクールとかこれまでも出てたんだけど、これまではオーケストラの奏者でうまい子や余裕のある子に出てもらってたんだけど、やっぱりそれじゃ集中できないから。いや、コンクールで上の成績がとれなくても本人が楽しければいいんだけど、押しつけ合いみたいになっちゃってね。それはよくないと思ったから」
「はい」
たしかによくないと思う。
「だったら、うちのクラスの菜穂ちゃんがピアノ上手だし、部活どこも入ってないっていうから」
ああ。そうか。
文化祭委員会とか、遠足の係とか、街に花を植えて育てるボランティアの世話係とか、そういうのばっかりやらされていたから、菜穂には「決まった部活」がないのだ。
「それで」
とこんどは菜穂が言う。
「たしか、千花名、一年生の自己紹介のときに、フルート吹けます、って言ってたでしょ? それ、思い出して」
言った覚えはない。ずっと隠していたつもりだった。
でも、言ったのかも知れない。一年生の最初のことだから、まだうきうきしていたか、それとも何か人と違うことを言わなければと思ったのか。
野入先生と菜穂はとても仲がいいようだ。それがそのときの千花名には気に入らなかった。それでわざと愛想なく言った。
「習ってるからうまいとは限らないです」
「じゃ、吹いてみて」
野入先生は身を乗り出してそう答えた。千花名はさらに無愛想に返事した。
「いや。いま楽器持ってないですから」
「じゃ、今度ね」
「はい」
それで、その日はそのまま解散したのだったと思う。野入先生とも菜穂とも分かれて、一人で帰った。
「今度」をいつにするのか決めなかった。そのまま千花名がフルートを持って行かないで、だまっていれば、その、菜穂と千花名で室内楽をやるという話もそれきりになっていたのかも知れない。クラスが違う菜穂とはほとんど会わなかったし、会っても菜穂は催促のようなことは何も言わなかった。野入先生とはもっと会わなかった。もちろん朝礼で先生を見かけることはあったけれど、別のクラスの担任だから、声をかけられることもなかった。
そういう日が一週間ぐらいつづいた。
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