第5話 菜穂は、文句も言わないで明るく

 浅井あさい多祢子たねこ先生はここの教会の牧師さんの娘だ。シスターとかそういう仕事をするつもりはないらしいが、一家の生活を助けるために、ここの教会で音楽を教えているんだという。

 体育系の大学の卒業生だ。体力もあるし運動神経もいい。幼稚園の先生の資格も持っている。先生の資格を取るために音楽も勉強して、それを活かしていま音楽を教えている、ということらしい。

 多祢子先生にはその結婚式というのに出るかときかれた。出たほうがいいですか、というと、じっと座って、お父さんの長い説教を身動きしないできいてるのが楽しいのなら、と言う。

 多祢子先生が「お父さん」というのは、多祢子先生のお父さんだから、この教会の牧師さんだ。キリスト教の範囲だということは知っているが、どういう派なのかは知らない。カトリックではないということはきいた。

 いずれにしても、クリスチャンでもない自分にはきいてもよくわからない話だろうし、話をきいていて寝たりすると多祢子先生に恥をかかせる。出ないことにした。

 披露宴に最初からいたらいろいろ食べられるよ、ホテルとかの披露宴と違って高級なものは出ないけど、と言われたけれど、うちでご飯食べないといけませんから、と断った。

 そんなに食欲はない。もっとはっきり言うと何も食べたくなかった。多祢子先生はミルクティーの二杯めを入れてくれ、部屋にあるお菓子は好きに食べていいと言ってくれたけれど、ミルクティーを少し飲んだだけだ。

 いま、千花名ちかなはお教室の部屋に一人だ。

 分けてケースに入れてあったフルートを組み立てて、軽く息を吹きこんでみる。せっかくピアノがあるのだから音合わせをしようと思えばできたけれど、それもめんどうだと思った。フルートだけで演奏するのなら、しいて音合わせをする必要はない。いいかげんに組み立てると音がずれることがあるが、そこまでひどい管の挿しかたはしていないつもりだ。

 それで吹き口に軽く息を吹きこんで、音が出るのを確かめ、音の高さも確かめて、ケースにいっしょに入れていた赤いフェルトの上にフルートを置く。

 フルートをこうやって目のまえに準備すると、どうしても考えてしまう。

 正令せいれい女子の音楽部でこれからもフルートを吹いていけるのだろうか?

 部活で吹けなくなっても、どこかでフルートを吹く機会があるだろうか?

 そんなことを考えると、その演奏の本番ぎりぎりまでフルートにはさわりたくなくなった。

 「大人大人って、大人になったこともないくせに!」

 菜穂なほのことばがよみがえる。

 大人なら、こんなことで悩まなくてもすむのかな。


 正令女子は中高一貫のお嬢様学校だ。

 そして、千花名の家はここから電車で十分行った駅からまた十分ぐらい歩いたところにある。

 この線の沿線は高級住宅街ということになっているらしい。でも、千花名の住む街は、大きくて長い商店街があり、そこにいつ建ったかわからないような薄汚れた家が軒を連ねている。「住宅街」ではあってもとても「高級」とは言えなさそうだった。もっとも、菜穂にそう言ったら、

「何言ってるの? そんなロケーションで一軒家が並んでるってだけで高級でしょ? そうでなきゃいまごろビルだらけになってるはずだよ」

と言われた。でも、千花名の家の生活が「高級」なのなら、「中級」以下とはどんな暮らしのことを言うのだろう。

 そんな街の小学校に通って、千花名は溶けこめなかった。何駅か離れたところにある多祢子先生の音楽教室に通い始めたのも、その小学校や小学校の友だちから離れていたかったからかも知れない。

 最初はピアノを習っていたが、多祢子先生に「フルートっておもしろいよ、やってみない?」と言われて習う楽器をフルートに変えた。そのころは気づかなかったけれど、いま思うと、ピアノがなかなかうまくならないからそう言われたんだろう。

 そして、この教会の音楽学校の近くに、正令女子学園中学校と高等学校があった。

 フルートを習いに来ると、白のシャツに黒のジャンパースカート、襟元には校章のブローチと組み合わされた赤いリボンという制服の生徒たちといつもすれ違った。とても「都会のお姉さん」な感じがした。それで、中学校どうするの、とお母さんにきかれたとき、千花名は「正令に行きたい」と言った。

 その「お嬢様学校」らしさこそが自分に合うと、千花名は思っていたのだ。

 しかし通ってみると想像していたのとは違っていた。

 寄り集まると品のない話をする。授業はまじめに聴かない。宿題はだれかが正解の書いてある本を探し出し、SNSで教え合う。それは当てられて答えたり黒板に答えを書かされたりするときには教え合いもできないから、みんな勉強はするのだろうけれど、手が抜けるところはできるかぎり手を抜いていた。

 そういうなかでも何でもまじめにやる子はみんなから浮いていた。みんなは、遠足の係とか、文化祭委員とか、仕事が多くてしかも目立たない係や委員をそういう子に押しつけていた。

 その押しつけられている子の一人が小山おやま菜穂だった。

 もし押しつけられて菜穂が悲惨な顔をして泣いたりしていれば、それはいじめということになったのかも知れない。でも、菜穂は、文句も言わないで明るくその役を務めていた。

 千花名は浮かないように目立たないようにやっていた。宿題の教え合いにも加わった。だからそういう押しつけられ役にはならずにすんだ。

 でも、それは、想像していたお嬢様学校での正しい学園生活とは違っていた。まったく違っていた。

 お教室をやめたのもそのころだった。多祢子先生のお教室に行くところを同級生に見られ、

「千花名ってクリスチャンだったんだ」

と言われたからだ。

 「いや、違うけど」

 「えーっ? でも、あの角のところの教会に行ってたでしょ?」

 「ああ」

 そのとき、なぜか、あそこでフルートを習っているから、と言えなかった。

 「あそこの家のお姉さんが前からの知り合いでね」

 そう言うと、その同級生は

「ふうん」

とだけ言って離れて行った。

 それからはお教室に通う気がしなくなり、それで、お教室をやめたのだった。

 学校では最初はバレーボール部に入った。

 でも背の高さが足りなかった。力だって弱い。レギュラーにはなれそうもなかった。

 レギュラーになれないくらいどうでもいい、むしろ気が楽だと思っていたら、後から入って来た一年生のほうが先に準レギュラーになってしまった。そのころは千花名は背が伸びて、背の高さはハンデにならないくらいになっていたけれど、それから練習してもレギュラーにも準レギュラーにもなれそうにない。

 それで基礎練習だけずっと続けるのかと思うとつまらなくなった。正式に退部はしなかったけれど、練習に行かなくなった。最初のころは部のメンバーが何度か誘いに来たけれども、そのたびに理由をつくって避けていると、何も言ってこなくなった。

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