第3話 まだまだですね、大人になる、って
「ずっとやってるんだ。フルート」
「ああ。ええ」
「去年は惜しかったね。地区選考会」
「ああ」
目を伏せて答える。
千花名は驚いていた。
多祢子先生は千花名の反応にはかまわず続ける。
「まあ、相手が
「そんな有名なんですか?」
千花名は思わず顔を上げた。
「ふふん」
多祢子先生は小さく笑ったけれど、何ごとも豪快な多祢子先生だから、その笑い声は大きく聞こえた。
「それは、明珠女の室内楽部が、ってこと? それても、あんたたちが明珠女に競り負けて本選に行けなかったってこと?」
「あ……」
引っかけられた。そう感じたことも表に出さないで、千花名は答える。
「いや、その両方です」
「そりゃあ、音楽教室やってるんだもの。知ってるわよ」
どちらを、とも言わずに、多祢子先生は答えた。
「でも、わたし、お教室やめてもう五年も経つけど」
「四年かな?」
先生は遠慮なく口をはさんだ。
「中一の春までは来てたからね」
「あ」
それでそれから四年なのか五年なのか。どっちでもいい。
「でも、あのころはまだ音楽部じゃなかったから」
「音楽続けてるのがつらそうだな、とは感じたよ。環境が変わって、さ」
「はい」
そうだったのだろうか。
たしかに正令女子に入って音楽から急に遠ざかった。でも、それが、音楽を続けているのがつらかったからかというと、どうだろう。
「でも、それから一度も会わなかったのに」
「正令の音楽部の動向なんかずっとチェックしてるよ。ご近所だしね。だから中学の三年で千花名ちゃんが代表になったときもすぐ気がついた。ああ、やっぱり続けてたんだ、って。正令の文化祭も行ってみようと毎年思うんだけど、文化祭って日曜日じゃない? 教会って土曜日日曜日がいちばん忙しいからね」
「そうなんですか?」
話が千花名がフルートをやめた話からそれてほっとする。
「それはそうだよ」
多祢子先生は決めつけるように言う。
「日曜日がなんで休みかっていうと、もともとはヨーロッパの人が日曜日は教会に行く日だから休みにしようってことにしたからだから、教会は日曜日がいぢはんの仕事日なんだよ」
千花名はクリスチャンではないからわからない。
「土曜日とかはそれの準備でばたばたするからね」
多祢子先生は、言って、笑って、カップからミルクティーを飲む。
千花名もカップを口につけた。
甘い。あったかい。喉から肩から、張りつめていた力がほどけて行くようだ。
いまもはちみつ入りだ。さっきは熱くて、味まではわからなかった。
ほっと息をついて、左手を添えてカップをお皿に置く。
「で、どうしたの?」
多祢子先生がきく。
「何がですか?」
いちどわからないふりをしてみる。
「元気なさそうじゃない?」
ほかの人にそんなことを言われたら?
どう答えるだろう?
たとえば、親とかに。
「わたし、いつもこんなのですよ」
「ふふっ」
多祢子先生はカップを胸の前に持ったまま笑った。昔と同じまっ白な歯を見せて。
「前はこんなのじゃなかったけど。大人になって、落ちついた、ってこと?」
「はい」
でも、すぐに、はい、はなかったな、と思い直す。
大人になってはいない。
さっきの
小さく笑う。
「でも、まだまだですね。大人になる、っていうのは」
「そんなことないわよぉ」
多祢子先生が大きい声で決めつける。
「あと二年で高校は卒業してるでしょ? それから二年で二十歳になるんだから、大人なんてもうすぐだから」
「あ、いや。そういうことを言ってるんじゃなくて」
そう言った拍子に気がついた。
さっきこの部屋が小さく見えた理由にだ。
夢をなくしたからとかではない。
ただ千花名の体が大きくなったからだ。
ここでフルートを習っていたころは背が低かった。小学生だから低かったというだけではない。小学校のクラスの女の子で並ぶと小さいほうから五番めくらいだった。ところが、いまは、三十五人女子ばかりのクラスで高いほうから十番めくらいだ。千花名より高いほうにはバレー部のアタッカーとかボート部のレギュラーとかがいるから、運動部のスターを除くと千花名の背の高さは目立つ。
中一のころにバレーボールをやっていて、背が低いことに何度もくやしい思いをした。もっと背が高くなれれば、背が高くなれればとずっと考えていたら、三年生のころにはクラスでも大きいほうになっていた。
「じゃ、どういうことを言ってるの?」
多祢子先生は容赦なくきいてくる。
こういう人だったな、と思い出す。
言いたくないこと、言いにくいことをどんどんときいてくる。それが、遠慮がちにでもなく、押しつけるようにでもなく、高いテンションできいてくるので、答えなければいけなくなる。
「うまく言えないけど」
千花名は目を伏せて答えて、間をとった。
温かいミルクティーで体が温まったからか、また汗が出てくる。
息をついて、
それで答える気もちが遠のいた。ちらっと多祢子先生を見上げて、また目を伏せる。
「ああ、まあいいや」
多祢子先生が言った。だいぶ冷めてきたはずのミルクティーを一口飲む。
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