第2話 熱さがちかっと痛みになって
「おじゃまします」
小さく言って、首を縮めた。
首を縮めてあたりを伺うのは
いやな癖だ。でもいまはどうしようもない。
「どうぞどうぞ」
この傘立ては千花名がはじめてこの教会に来たときからあった。いまでは、骨組みは錆びて、はめてある赤いプラスチックの玉は色褪せている。
左側の聖堂は扉は開いていた。右の広間も半開きになっていて、どちらも中に人がいて何かしているようだ。でも多祢子先生は、右の広間に入ってだれかにコンビニの袋を手渡すと、まっすぐに階段を上り、別棟の二階の右側の部屋に入った。
千花名がここに通っていたころにお教室と呼んでいた部屋だ。
ここの教会は、二軒の家がくっついて並んだような造りになっていて、手前の棟に聖堂があり、奥の棟が牧師さんの家になっている。とはいってもそうはっきり分かれているわけでもなく、奥の二階は信者さんたちが習い事をしたり行事の準備をしたりする部屋になっているし、一階の広間も、半分は手前の建物だけれど、半分は奥の建物に入りこんでいる。だから、多祢子先生を含めて、牧師さんの家族が使えるほんとにパーソナルな場所はそんなに広くないはずだ。
千花名もつづいてそのお教室の部屋に入り、木の扉を閉めた。
「これで、体、拭いて」
多祢子先生がそっけなく言って白いタオルを渡してくれた。鞄を椅子に置いて、雨と汗とで濡れた髪を拭き、首を拭き、顔にタオルを押し当て、それからタオルをたたみ直して制服の濡れたところをとんとんと叩く。
そんなに濡れたつもりはなかったが、タオルはじっとりと水を吸っていた。
床も、壁の下半分も、木の色そのままの板張りだ。千花名のブーツから水が床に滲みて黒い跡をつくる。
千花名はそのお教室の部屋を見回した。
窓側の壁の窓のあいだに作り付けの小さいオルガンがある。小さいながら上や横にパイプが並んでいるからパイプオルガンなのか、パイプはただの飾りなのか千花名は知らない。部屋の奥にはピアノも置いてある。
廊下側の扉は手前と奥と二つあって、いま千花名が入った手前の扉の近くには楕円形のテーブルが置いてある。まわりに
奥には廊下とは別のほうに向いた目立たない小さい扉があって、その向こうはキッチンになっていたはずだ。
お教室に通っていたころは、この部屋はもっと広いと思っていた。でもいま見回してみるとそうでもない。狭い、ということはないが、普通だ。
きっと、いろんなことに夢を持ち、いつかはどこにでも行けると思いこんではしゃいでいたあのころだったから、この部屋も大きく見えたんだろう。
借りたタオルで足や靴まで拭くのは気がひけたので、ジャンパースカートの前だけ軽く叩いて、
「ありがとう」
とタオルを返した。多祢子先生がきく。
「お茶は? この季節にあったかいのしかないけど」
「あ、いいですいいです」
「いいです、じゃあ、あったかいのでいいです、なのか、お茶はなしでいいです、なのかわからないじゃない? 冷たいほうがいいです、かも知れないし」
多祢子先生はテンションが高い。千花名はまたやったかな、と思う。小さい声で首を縮めて言う。
「いや、なしでいいです、なんですけど」
「だめだよ。もう火をつけちゃったんだから」
「だったら、それ以外に選択肢ないじゃないですか」
「ふふっ」
多祢子先生は悪びれもせず笑った。
「ま、座って待ってて」
そう言われたので、大きい楕円のテーブルの、いちばん扉に近い椅子に座った。
たぶんお教室に通っていたころと変わっていない、同じ椅子だ。先生はまたキッチンに戻る。
鞄を引き寄せる。鞄も濡れていたから、さっき借りたタオルで拭けばよかったと思う。
自分のハンカチで拭いてもいいけれど、
だから、別に持っていたフルートのケースだけをテーブルの上に置く。鞄より内側に持って気をつけていたつもりでも、やっぱり濡れていた。硬いケースの表面をハンカチでひととおり拭って、留め金を開ける。
赤い光沢のある布の上で、
ちょうど、この楽器が、いろいろに吹きこまれる息のひと息ずつの個性を和らげて、音にしてくれるように。
金のような色できれいなので千花名はこのフルートが気に入っていた。でも、顧問の
千花名は座って、その輝きをじっと見ていた。
濡れていたり曇っていたりしたら拭いたほうがいいかな、と思って出したのだが、その必要はなさそうだ。
がたがたっと音がして、キッチンから多祢子先生が出てきた。
昔のメイドさんのように片手でカップが二つ載ったお盆を持っている。多祢子先生は運動神経抜群だから、こんなことをしても落としたりはしないだろう。
白い磁器のカップを千花名の前に置く。藍色の蔓草模様に、ところどころ黄色が混じった模様のカップだ。入っているのは昔と同じはちみつ入りのミルクティーだろう。それとも、千花名が大きくなったから、もうはちみつは入っていないだろうか。
もう一つのティーカップを向かい側の席に置いて、多祢子先生は腰を下ろした。二人のあいだに砂糖壺を置く。
「どうぞ」
「あ。はい。いただきます」
千花名は小さく言ってティーカップの取っ手に手をやった。多祢子先生もカップをとり、もう一口めを口に入れている。千花名もそれに倣った。もともと熱いのは平気だが、それでも最初に唇に触れたとき、熱さがちかっと痛みになって走った。
その熱さだけ唇に感じて、まずカップを置く。
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