第9話
今日の明かりが沈むと、光によって現像されて脳にへばりついてくる数数の事象は粘着性を失い、冬のクラフトテープのようにしっかり貼りついて来ず、夏のそれはすぐに剥がれて弛んだ糸を伸ばし、アスファルトで生気を取り戻したガムのように柔らかく、ぴたりと記憶には固定しない。鎌倉高校を過ぎ、腰越漁港も過ぎた。ただこれだけの距離を歩くのに、もう龍宮城へは帰れない時間になっている。いや、時間にした。べっとりした海の風はまだまだ温くもならない。光線を失った分だけ、溜められた熱が悪さを持って地中から這いずり出て、湿度と手を組み、目の開いてきた夜の入口を大いに駆け巡り、一の音を十に感じさせる伝達力の狂った音響資材の皮膜となり、虫の音の静けさを鬱陶しいだけの煩いものにしている、それは暑苦しさだ。浦島太郎が砂浜に戻ってきたのは春の海だ。夏ならば、玉手箱を開ける前に、釣り竿を太くぶん回して箱など打っちゃって、本当の女を求めて闊歩しただろう。夏に老けるわけがない。竜宮城が夢ではなく、玉手箱によって老いた姿が夢なのだ。まだまだ魚達の狂乱の最中で、バーベキューコンロで肉を焼き、ダンスミュージックを低く利かせて流し、砂をかけ、空き缶を積み上げ、真剣勝負から遠い競技力のないビーチボールを打ち上げ、たくさんの海の家から、巣穴から出てくる無数の蟻は、由比ヶ浜、浦島太郎は、間違いなく、江ノ島に降りて、片瀬海岸で時間を過ごしていたのだと、今日の活動を終えた海の家の隊列が物語っている。どこからか聞いたことがある。夏の夜の江ノ島は、ヌーディストビーチだと。貧弱な日本人の性欲が飛び交い、たやすく交渉を持てると、小さな花火は時折始まり、原始と同じ感性の笑い声が、その火花と同じ小ささで、夜の砂浜に浮き出て、吹けば消えるオアシスの存在で、儚さではなく、つまらなさを、生きるつまらなさをこの上なく発散させている。中年になり、思い残していた学業をと、改めて大学生となり、歳の離れた若い学生と勉学を共にするのと違い、三十歳を前に大学生になり、大した経験も積んでこなかったせいで、二十歳前後の若者と同じ無知を依然と持ち続け、大きな志もないので若さゆえの無謀な挑戦などとてもできず、新入生歓迎の飲み会の席でも、年齢を有効に使えずに浮いて、この先の学校生活の期待を削がれるように、江ノ島の夜は自分を一人剥離させる。まずは体の話し相手を、心の話し相手を、波の小さなこの海岸は、闇から、自我から轆轤を回して、希求していた人物像の継ぎ接ぎくらいを出現させる、と信じて、今日の歩みで遅らせてきたのに、闇は姿を見せず、声は学識のない若さを見せるのみで、見えないこの砂浜は、予想を遥かに超えた静けさにあって、由比ヶ浜の盛り上がりを影に映す程だと思いきや、どれもこれも眠ってしまっているじゃないか。これが自然なのだろう。夜の海は季節を関係なく静かなものだ。闇に沈み、波の音を響かせて、幕の奥に今の他を観るのだ。浦島太郎は玉手箱を開けていない。来る日も来る日も砂浜に出てきて、寝転がり、竜宮城を夢見て毎日を過ごし、気づけば何もなく、歳を重ねていたという、目立った特徴のない凡人の人生を過ごしていただけだ。今のように、夜に並べられた砂浜のビーチチェアに無断で寝転び、波の音を聴いて、台風からの美しく長大な波を描き、下手なりに、まぐれに滑れた一本のマニューバーを反芻して、もう付き合いのない友人達や、夏の一日の蟹の感興や、ぐずついた花火の夜を人並み事にざわつかせて、夜を過ごし、波を聴き、寝返りを打ち、やっぱり風は冷たくなってきて、夏の温度もやっぱり眠るのだと、上着のない肌に湿った冷たさが冴え渡り、帰りを持たなかった今はしばらく続き、火照りを冷まし、乾きに塗らせぬまま、こうして夜露に濡れていく砂浜の一人として、帰りの朝を待つしかないのだ。
砂浜 酒井小言 @moopy3000
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