第8話

 誘ってくれた女性に一応連絡したら、やはり電話には出なかった。あんな人まみれの由比ヶ浜で、荷物を砂かどこかに置き、携帯電話は肌身につけず遊んでいることだろう。電話に出たら、先週会ったばかりの人達の所へ行っただろうか、なにかしら理由をつけて行かなかっただろう。本当に会う気でいたら、灼熱の百三十四号線を、渋滞の車の中からじろじろ見られながら歩き、浮かれた真夏の群集に没入しただろう。その気はないのに、わざわざ何かを待ちわびるような人の振る舞いをするのは、一人でいるからこそ開き直って動くくせに、機会があれば誰かと話して行動したがるやたら周囲を気にする勿体振った演技をしないためで、同伴者を待つ者はどこでもいいから入場券を持っていて、会場を待ちわびるようなもので、今は一人でいくら心細くても、あとあと必ず報われることを承知しているからこそ、やたら周囲に目を向けたり、時間を気にして、小動物らしい動きを見せるのだ。行く気はないのに誘われるのを待ちつつ、稲村ヶ崎の砂浜に坐って波を見る。傘はもう取り返したのだから、さっさと江ノ電に乗って藤沢まで行けばいいのに、夕立さえ起きそうにない雲のない空は、靄に濁って暑さに醗酵してしまった。とにかくだるい。太陽に逆上せ上がった赤味が表れてきた。波が小さいから、平凡な海の光景はより一層つまらなさが漂っている。誘ってくれた女性から電話がかかってきた。まず電話に出れなかったことを軽い調子で言い、次に鎌倉にいることを大声で喜び、姉さん肌で由比ガ浜へ誘い、いくぶんしつこく誘ったのち、割とあっさりに残念な口調でまた会いましょうと。何か得るものがあっただろうか。傘の先で砂に線を引いたり、引っ掻いたりしてみる。この人はすべて率直だから、それも面倒見の良い心根がこのように出るのだから、うらやましい。気づけば、夕陽でも見て帰れそうな頃合いだ。稲村ヶ崎の公園へ移動すると、たくさんの三脚で陣取るカメラマンが控えている。ぼやけていた空は、沈みゆく太陽に吹き払われたのか、それとも共に沈んでいるのか、空気が澄んできて、鮮烈な焼け色が現出されていく。まるで日蝕でも拝むような公園の人だかりだ。現象の崇高さはどちらもほぼ変わらない。由比ヶ浜も稲村ヶ崎も同様だ。今日の太陽が消えゆく。にぎわった砂浜も、裸の人達も消えゆく。

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