第2話
忘れた傘を取りに彼は再び鎌倉へ来た。稲村ヶ崎の小山の上にある知人宅へ直接行かず、鎌倉駅から歩いて寄り道しながら向かうことにした。夏の正午はすでに狂おしい暑さにむせ返り、人混みの小町通りの騒がしい流れに沿って鶴岡八幡宮へ来たが、砂利道を歩く人がたてる砂埃が無味な陽射しによって質量を透かされ、境内は砂漠を歩くより退屈で苦痛に思え、彼は大銀杏だけを見て鳥居へ戻った。
鳩も煮えくるスコールの陽射しだ。(頼朝ノ墓ノ辺リハ冷ヤリトシテイルダロウ)地図を開くのも億劫で近辺の寺社を観てまわる気はとうに失せてしまった。銭洗弁財天から源氏山の登山道を歩けば、湿気った熱も土の潤いで幾分中和されて気分良く歩けるだろう。三日三晩ドコロカ一ヶ月モ続ク雷雲カラノ容赦ナイ大粒ノ雨ガ至ル樹皮ト梢カラ四方八方無分別ニ鳴リ続ケル。
貧弱な桜では山の緑陰は望めず、浜へ向かう彼は、緑や土がなくても、騒騒しい甲冑の虫の喚きよりは、日焼けするにはもってこいの味気ない参道を歩くほうがましだと自分自身に納得させて歩いた。どうして男は日傘を差さないのかと考えた。恥だろうか。日焼けすることに怯えてしまえば男が廃るからだろうか。炎天ノ下ニ、黒イ山高帽ヲ被ッタ固太リノ中年男性ノ集団ハぱにえヲ身ニ着ケタ二百年前ノ西洋ノ貴婦人ノヨウニ腰ヲ気持チ後ロヘ突キ出シテ、丸ミノアル黒イ日傘ヲ差シテ無表情ノママ歩イテクル。なら自分が日傘を差してムーブメントを起こすか。彼は考えたが、とても出来やしない。恥よりも黒く汚れた肌を選ぶだろう。
そんな考えはバーベキューコンロの拡大された由比ヶ浜に着いて消し飛んだ。微量のエックス線よりもはるかに影響のある紫外線に、唇以外の粘膜の露出した肌を水着で隠すだけの曝け出された皮膚を焼かせるのはどれほど害を及ぼすだろう。大西洋ニ面シタもろっこノ街ノ古イ防御ノ為ノ外壁近クノ宿ノ屋上デ焦ゲツイタ黒イ肌ヲサラニ太陽ヘ捧ゲルへるべると・ふぉん・からやん似ノどいつ人ノ痩セタ筋ト皮ノ弛ミガ残ル黒イびきにぱんつノ燔祭。日傘はやはり必要だと彼は考えたが、この砂浜では不格好だろう。例え理不尽な、道理に合わない要求を欲したデモンストレーションであっても、参加して声を上げなければならない盲目的な強制力にこの砂浜は支配されていると感じるも、これが当然だと、ふやけた皮膚を慎重に剥がす姉の指使いの古い写真に、悪こそ道理だと瞬時に彼の記憶の一枚が意見を述べてきた。
岸辺の葦よりも密集した湾曲した砂浜は、夏に存在するどの生物よりもうるさく、あれくらい騒ぎ立てなければ夏の酷暑と気分を合わすことはできないのだろう。一見無秩序に見える肉と色と貧相の氾濫は、一定のモラルとマナーに守られていて、良識からの逸脱は昼の砂浜にはまだ埋もれ眠っているのだろう。彼は地獄の一風景を見て、足首さえも肌を出さず、サンダルも履かずに紐のついた靴で砂浜を歩く自分が、良からぬ目的の為にここへ来ているようで、葬式に白いタキシードを着る気分を味わった。若い女の水着姿を何人も見つめた。漫画雑誌の表紙ほどにも性的興奮を誘い出すのはなく、梢にとまる雀の尾っぽほどにしか感じなかった。
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