第2話 妹の変化
それは偶然だった。
私が彼にぶつかって彼が道路に出てしまったこと。彼の目の前に大型のトラックが走ってきたこと。
そして必然だった。
鉄の塊がホームに吸い込まれていく刹那。トラックが彼に向かって唸っていく瞬間。この二つの似通った状況で私の頭を横切ったのは死だった。死に対する好奇心が頭をもたげ、興味が舌をのばして私の手にからみつく。
彼が私に救いの手を求めてきたのを、私はこの眼ではっきりと見た。だが私の興味は彼に手をのばさせてはくれなかったのだ。
それが彼の死を決めるものとなった。
私が越えられなかったその境界線を彼は越えていく。
死とは一瞬の瞬きの後そこにあった。
顔を覆った私の口から洩れたのは慟哭だったのだろうか、嘲笑だったのだろうか。
親友である斉藤浩志は大型トラックに轢かれて亡くなったと、彼の母親が教えてくれた。交通事故だった。妹の美優も浩志と交流があったので、葬式では俺と同じように声が枯れるまで泣いた。
身近に居た人の死というのは、ここまで辛いのかと思った。食事は喉を通らない。夜は彼を思い出して眠れない。
幼馴染として大学まで一緒に来た彼の喪失は、心が抉れるほどの痛みをもたらした。犯人を心の底から憎んだ。殺してやりたいほどの殺意ももった。それと同じだけの虚脱感も。
大学は一か月程休学した。
それ以上休もうとも思ったが、ずっと家に引きこもる俺を心配する両親に申し訳なかったのだ。
俺が学校を休んでいる間、妹は変わっていた。
部屋にずっと居たため、妹の変化を目のあたりにしたのは再び学校に通い始めての頃だ。ずっと俺を心配してくれた光輝と再会し、二人で授業に向かっていた時だった。偶然廊下の先で妹を見つける。
「……あれってお前の妹だよな? ずいぶん雰囲気違うみたいだけど」
あまりお洒落をしていなかった妹は、いつのまにか黒髪から茶髪へと髪の色を変えていた。 毛先に軽くウェーブまでかけていて、今まで重たそうだった髪が、軽く見える。
化粧も近くまで来るとしっかりとしていることが分かった。装飾品で着飾ることをあまり好まなかった美優が、耳にピアスをあけているのを見たときには、思わず声をあげていた。あれだけ耳に穴をあけるのは怖いと言っていたのに。
俺の声に気づいて美優がこちらを見る。ピアスが美優の動きに合わせて不器用に揺れた。
「あっ……裕兄」
「美優、お前」
「おしゃれしてみたんだけど似合ってるかな?」
笑顔をあまり出さない美優が、満面の笑みで俺と光輝の方を見る。
隣の友人は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに「似合ってるよ」と、言葉を返した。対して俺は、この前までの妹と別人のように感じて、美優の恰好を再度見てしまう。
「美優ちゃんかなり雰囲気変わったけど、彼氏でもできたの?」
光輝が俺の代わりに聞きたい事を聞いてくれた。
「違いますよ。最近おしゃれに目覚めただけです」
笑いながらそういう美優に、性格まで変わってしまったのかもしれないと思った。唖然としている俺を尻目に、美優は次の授業の教室へと入っていく。光輝はそんな俺を見つめて、「知らなかったか」と苦笑気味にこぼした。
「美優ちゃん好きな人でもできたのかもな」
恋愛をすると女性は綺麗になると聞いたことがあるが、妹もそうなのだろうか。だとしたら恋というのは偉大だ。人をここまで変えてしまうものなのか。俺には今の美優が何を思っているのか分からない。
こんなとき死んだ浩志なら、美優を見てどう言うだろう。
あいつは人の感情の機微をよく分かっていた。いや、正確にいえば個人という人を良く見ているからこそ、変化に気づくことが誰よりも早かったのだ。そんなあいつを皆が頼って、好いていたのに。
どうして。
木枯らしが吹き始め、本格的な冬がもう後ろまで迫って来るころ。浩志を悼む会というのが写真部の部室で行われた。
俺が大学に復帰してから一週間後の休日のことだった。
物事が落ち着いて考えられるようになったこの頃、俺の頭の片隅には誰にも言えない考え事ができた。
境界線という小説。事故に見せかけての殺人。浩志が死んでから明るくなった妹。小説の主人公である「私」も殺人を犯した後どこか人が変わっていくのだ。
美優がそのままだったら、俺はあの小説をそこまで気にかけなかったかもしれない。たまたま浩志は事故で死んだとずっとそう思えたはずだ。だが、俺にはどうしても妹が無理をしているように見える。内気だった妹が最近はいろいろな人と一緒に居るのを、よく見かけた。最近は帰りも遅い。俺も両親も心配していた。
何か心境を変えることがあったのではないかと。
その言葉を聞くたびに俺は恋愛という言葉ではなく、あの小説を思い出してしまう。
きっと偶然だと思いながら。
同じ写真部員である美優の変化に、周りが驚きの表情を返しながらも悼む会は始まった。悼む会といっても、浩志のことを語りながらの飲み会のようで、幽霊部員も引退した先輩方も皆集まった。
最初の黙祷では、何人かの女子部員がすすり泣きをもらした。それから皆で浩志の冥福を祈って乾杯をする。しばらく時間が経ったら、皆で事故現場に花を供える予定だ。
俺は酒に強いほうではないので、少し飲んだら酒飲みのグループから外れた。どうして同年代の奴らは、酒に強い人だらけなのだろうか。酔いを醒ますために、一旦外にでようと思っていたら後ろから声をかけられる。
「美優ちゃんずいぶんかわいくなったわね」
「野田先輩……」
先ほどまで大勢の人に囲まれていた先輩だったが、今は周りに誰もいない。野田先輩の手元にはアルコール度数の弱い酒があったが、それも無くなっていたようで、缶をゴミ箱に捨てると俺の隣に来た。
近くに椅子があったので、出入り口近くに二人で座る。皆自分達の話に夢中で、俺達二人が一緒にいることに気づいている人はいない。
「先輩もそう思いましたか」
「ええ、まるで別人のような変化ね」
野田先輩の視線が美優へと向けられている。未成年の妹は酒が飲めないので、同じ学年の後輩とオレンジジュースを飲んでいるのが目に入った。無表情が多かった妹は、そこにはいない。
「女性が綺麗になるのって、どういう時なんですかね?」
女性である野田先輩から、はっきりと意見を聞きたかったのかもしれない。気づけば俺の口から洩れたのはそんな言葉だった。
「恋をしたときじゃないかしら」
俺の問いを噛みしめるように、ゆっくりと野田先輩は答える。
「好きな人ができたら、かわいくなろうと思う。恋に破れても、見返してやろうと思って美しくなりたい。人によって様々だと思うけど、恋をしたら何かしら変わろうと思うんじゃないかしら」
大勢の中から自分というたった一人を見出してもらう。その為には、それ相応の自分磨きが必要だということだ。愛してもらう為には、愛される努力を。先輩が言っていることはそういう事だ。
「私を見て欲しい」
「えっ?」
俺の戸惑った反応に野田先輩が少し笑う。大人びた先輩は時折子供のような表情を見せるのだ。少し寂しそうな顔をして。
「美優ちゃんのおしゃれはそういう事なんじゃない」
妹は誰かに自分を見て欲しいということか。
美優の方を見ると、妹もいつの間にか俺と野田先輩の方を見ていた。俺と視線が合うと、すぐに視線をそらしてしまう。
「それが恋だけとは限らないけどね」
隣の先輩は最後にそんな言葉をこぼした。
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