境界線

詩音

第1話 境界線

 

 線の外側を超えたいと思ったことがあった。


 衝動的にその線を越えていき、刹那の一瞬で走る鉄の塊に、体を吹き飛ばされ死に行くその姿を想像したことがある。

 なぜそうしたかったのか分からない。辛いことがその時特別あったわけでもない。ただこのまま死んだらどうなるのか知りたかったのかもしれない。

 自分の死を嘆きどれくらいの人が涙を流してくれるのだろうか、自分は彼らの心に何を残して逝くのだろうか。

 私の中でその考えを実行に移してはいけないという理性はまだあった。踏み出しそうな足をまだ止められる力はあった。だからこそ思考だけが渦巻き、脳の奥底で沈殿していく。アナウンスが時間を知らせる。鉄の塊がもうすぐホームに吸い込まれようとする。

 くすぶった思いは殺せない。





「岸野君何見てるの?」


 心地よいソプラノの声が物語へと潜っていた俺を一気に現実へと浮上させた。目をしばたかせて後ろを見ると、この部の先輩である野田桜先輩が俺の後ろからパソコンを覗き込んでいる。思いのほか近い距離と、突然の人の来訪に声が出そうになったが、野田先輩の前で醜態をさらすことだけは避けられた。


「間違えて誰かのUSBもってきちゃったみたいで、一つだけファイルがあったから見てみたんですけど……」


 そう言って、彼女が見やすいように席を譲る。四年生であり卒論に追われている彼女がここに来るのは久しぶりのことだ。才色兼備で知られている野田先輩がこの写真部に入ってきてから部員の数は右肩あがりだが、彼女が卒論で部活に顔を出さなくなるとほとんどが幽霊部員になった。もはや活動しているのは、写真を本当に撮りたい人達だけになっている。


「小説みたいね、これ」


 野田先輩の言葉に頷く。USBの中に入っていたのは境界線と書かれた小説だ。俺の持っていたのは黒いUSBであり、これとまったく同じものだ。自分のはないからどこかで取り違えてしまったのだろう。


「先輩のではないですよね?」

「ええ。でも見せてもらってもいい?」


 これを書いた人には申し訳ないが、自分一人ではどうしようかと思っていたので、先輩にも見てもらうことにする。

 彼女は真剣な目で画面の文字を追っている。俺はその間に唯一の心当たりである、小説を書いていると言っていた友人に連絡を取ってみた。昨日彼と一緒に図書室へ行ってレポートを書いていたから、間違えて取り違いになったのかもしれない。休み時間だったので、電話を掛けると平井光輝はすぐに出た。簡潔に内容を伝えると彼は笑いながら、俺じゃないなと電話の向こうで言う。


「ちなみにどんな小説だったんだ?」

「……なんか殺人鬼の手記見てる感じかな」

「は?」

「死に興味を持った「私」が男を殺して自殺するまでの物語」


 一言でいえばまさにそれだ。

 推理小説と思えば主人公の罪を暴く探偵はいない。断罪してくれる警察官もいない。「私」は結局男の後を追うように自らの望んだ死をしたのだ。


「へー……そういうのってどういう思いで書いたのか気になるな」

「俺もそう思った。とりあえず学生課にでも預けるよ。書いた人は探していると思うし」

「そうしとけ」

 光輝との電話はそこで終わった。先輩はもう少ししたら読みおわるだろう。物語は終盤に入っていた。




「……一人の生涯を見ているようでおもしろかったわ」


 野田先輩は、小さな吐息をもらしてこちらへと目をみやる。純粋な笑みを浮かべて「書いている人はどう思ってたのかしらね」と。


「さあ……。でも「私」が最後自殺しちゃうのは後味悪いですね」

「そうね……私もそう思うわ」


 野田先輩がそう言って手首の腕時計を見る。携帯を見るとそろそろ次の授業が始まるころだった。


「ごめんね、ちょっと力になれそうにないかも……」

「いえ、学生課に預けておきますよ。これだけだとさすがに誰だか分かりませんし。それより早く行かないと遅れちゃいますよ」


 俺の言葉に野田先輩は柔らかく微笑む。


「今日あなたに会えてよかったわ岸野君。また今度ね」

「そんなありがたい言葉言われたら、あいつに嫉妬されそうですよ」


 彼女と部活で一番仲が良いのは俺の親友だ。よく二人でいるところを校内で見かける。野田先輩がどう思っているかは分からないが、あいつは野田先輩のことを好ましく思っているはずだ。

 俺の苦笑交じりの言葉に、相変わらず彼女は微笑んだままだった。




 野田先輩が出て行った後も俺は部室にいた。

 部室の壁に貼られた交差点の一場面。変わりゆく夕暮れに溶け合う鱗雲。笑いあう部員。それらの写真が薄汚れた壁をいくらかましに見せている。写真を眺めながら俺は昨日の行動を思い出していた。

 光輝と別れて、俺がUSBを取り出した場面といえば、自宅でしか考えられない。もしかしたら、妹もパソコンを使っていたから、その時かもしれない。連絡を入れようと携帯電話へ手を伸ばせば、野田先輩と入れ違いのようにその人物は来た。

 長い黒髪を重たそうに揺らして入ってきたのは妹の美優だ。兄妹揃って同じ部活に入っているため、会う頻度が高いのが今回はラッキーだった。今まさに連絡しようと思っていた妹の来訪だったので、「丁度よかった」と声に出せば案の定不思議そうな顔をされたが、俺の手元のUSBを見て表情が固まる。


「お前小説書いてるか?」


 美優は俺から視線をそらした。妹のその様子に、USBの持ち主が彼女だと察する。気まずそうな顔でこちらを窺う美優に彼女の黒いUSBを渡した。


「ごめん。中身見ちゃったんだ。境界線っていう小説であってるよな?」


 美優は俺の言葉に何も返さない。だが大人しい彼女の無言は肯定と同じ意味だった。美優は俺からUSBを受け取ると、自分のカバンの中から俺の黒いUSBを取り出した。昨日自宅で二人ともパソコンを使っていたからそこで取り間違えたのだろう。

 美優は何も言わずに部室から出ていった。




 それから三日後、俺の親友である斉藤浩志が死んだ。交通事故だった。

 境界線の主人公である「私」が男を殺したのも交通事故を装っての殺人だったことを思い出す。

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