空から聞こえるのは解き放たれた鳥の歌
三度目の春が終わろうとしていました。冬の寒さからすっかり解放された牢獄には活気が戻ってくるはずなのですが、今年は重い空気が漂っていました。
「やはりあの二人はばてれんだったらしいぞ」
役人たちのうわさ話は私だけでなく囚人たちの耳にも入ります。二年前、ばてれんの嫌疑をかけられて捕縛された二人は厳しい責め苦の挙句、ついにばてれんであることを認めたのです。この事実は「心当たりがない」と証言したすぴのら様たちにとって大変都合が悪いことでした。同じばてれん同士で顔も名前も知らないのはあまりにも不自然だからです。
「ばてれんは
ばてれんに対する
「今日は魚はないのですか」
「ない。粥だけ食わせておけ」
その粥の量も明かに減っていました。申し訳ないと思いながら言い付けに従うしかありませんでした。
囚人たちも運命の日が間近に迫っていることは薄々感じていたのでしょう。毎日聞こえてくるおらしょにはこれまでにない悲痛な響きが感じられました。
七月になって牢内の空気は一層重くなりました。先の二人のばてれんが処刑されたのです。酷いものでした。密入国の手助けをした船長、および十二名の船員までもが一緒に処刑されたのです。御上の怒りがどれほどのものか想像に難くありませんでした。
「今日も良い日になりそうですね」
そんな日々の中でもすぴのら様の言葉や態度は以前と少しも変わりませんでした。穏やかな声で感謝を述べ、励まし、問いかけにはきちんと答えてくれます。最後まで自分らしく生きようとする姿を見ていると胸が潰れるような思いがしました。
そして八月に入ったある日の朝、
「以下の者、明朝出牢を命じる」
役人が名前を読み上げました。その数は二十五名。すぴのら様も入っています。ついにお別れの時が来たのだ、そう思いました。
その日は仕事が手に付きませんでした。誰とも会いたくありませんでした。口も利きたくありませんでした。こぼれそうになる涙を堪えながら日々の雑務を淡々とこなしました。
しかし夕刻になり、すぴのら様から
「ありがとう。今日も美味しかったですよ」
と空になった椀を受け取ったとき、私はもう我慢できなくなりました。小窓越しにすぴのら様を見据えながら言い放ちました。
「どうしてこの国に留まったのです。どうして異国へ去らなかったのです。こんな小さな国に何の未練があるのです。すぴのら様ならばもっと別の生き方ができたはずです。こんな最期を迎えずとも済んだはずです」
私の激した言葉を聞いてもすぴのら様の穏やかな表情は変わりません。優しい声で答えました。
「私は多くの信徒を作りました。その結果彼らに不幸をもたらしました。その責を負わずに私一人が助かることなどできようはずがありません。彼らとともに不幸を背負いたいのです」
「ならば異教を捨てさせればよいではありませんか。おらしょではなく念仏を唱える、たったそれだけのことでその不幸はなくせるのですから」
「そう、ですね。けれども、例えば……」
すぴのら様は少し考えられてからこう言いました。
「母の命を奪いなさい、そうすればあなたの命を助けてあげましょう。もし誰かにこう言われたとしたらあなたは母の命を奪えますか」
「そ、それは」
答えられませんでした。それはつまり母の命を奪えないと言っているのと同じことです。すぴのら様は笑顔を浮かべました。
「それと同じですよ。信仰は母の命と同じくらい大切なのです」
「しかし神など見えも聞こえもしません。本当の母とはまるで違います。そんな者に義理立てする必要などどこにあると言うのです」
「それはあなたが本当の母から多くの愛をもらっているからです。私の信徒たちはほんのわずかな愛すらもらえなかった悲しい方々なのです。彼らに愛を与えてくれたのは神だけでした。だからこそ捨てられないのです」
「愛を、もらえなかった……」
思いもしなかった言葉でした。母の愛。不意に私の脳裏におらしょの言葉が浮かびました。おー、ぐるりよーざ、どーみの。栄えある聖母。彼らが星空に見ていたのは無上の愛だったのでしょうか。
「神を必要としないあなたは幸いです。それに匹敵する愛をもらっているのですからね。その幸福に感謝してください」
私はもう言うべき言葉を持っていませんでした。元よりすぴのら様と言い合いをして勝てるはずもないのです。
「あなたのような立派な方が、こんな最期を迎えるなんて」
熱いものが頬を流れ落ちるのがわかりました。小窓からすぴのら様の手が伸び、私の頬を撫でました。
「ここであなたに会えたのは私にとっても本当に幸福なことでした。さあ、もう行ってください。まだお役目が残っているのでしょう。そして明朝は笑顔で私を見送ってください」
「はい」
私は椀を入れた籠を持って牢を離れました。そしてそれがすぴのら様と交わした最後の言葉となりました。
明朝、二十五名の囚人はおらしょを歌いながら処刑場へと連れられていきました。これほどまでに悲壮な響きで胸に迫るおらしょを聞いたのは後にも先にもこれ一度きりです。私は涙を堪えながら彼らを見送りました。そして残された八名も三日後に出牢し、その日をもって私はお役目を辞することにしました。
「やあ、元気にしていたかい」
やることもなく所在ない日々を過ごしていたある日、ひょっこりと吉田様が家にやってきました。驚いて話を聞くと一緒に都へ行かないかと言うのです。
「実は君のことはすぴのら様から頼まれていたんだ。やりとりしている紙の隅に『この者は学術の才あり。すでに私から多くの知識を得ている。都にて学ばせればひとかどの人物にならん』と書かれていた。私はすぴのら様の弟子の弟子だけど君はすぴのら様の弟子だからね。どうだい、都でさらに学んでみないか」
「それは願ってもないことですが、都で暮らせるほどの余裕はありません」
「銭の心配は無用。こう見えても実家は豪商なんだ。それに別れ際にこの礼をさせてもらうって言っただろう。これがその礼だ。ありがたく受け取ってくれ」
さっそく家族と相談したところ反対する者は一人もいませんでした。こうして私の都生活は始まったのです。
「あれからもう二十年近くが経つのか」
都での日々は矢のような速さで過ぎていきました。最初は吉田様と同じく算術を学んでいましたが、より直接的に人と関わりたいと感じるようになり、結局医術の道を選びました。
修業はとてもつらく、時として挫折しかける時もありました。そんな時、私はいつもおらしょを口ずさみました。狭い牢獄で苦難に耐えていたばてれんたち。彼らに比べれば今の私の苦しみなど取るに足りないではないか、そう思いながら頑張り続けたのです。
「どうだい、これこそ算術の集大成だ」
都に来て六年目、吉田様は一冊の算術書を出版しました。図がふんだんに使われていることもあって大評判となり、類似の書が出回るほどでした。
残念ながら方形と円形の広さの比は六年経ってもわからなかったようです。
「方形の広さが百ならばその内側にぴったりはまる円形の広さは七十九。これを円法七九と言う」
「結局百分の七十九のままなのですね」
「すぴのら様も言っていただろう。人には円形の近似値しかわからないって。だからこれでいいんだよ」
実際、現実の場面で使うにはこの数値で十分でした。吉田様は算術の知識を土木や測量に活用して人工池や隧道を作り、水飢饉に苦しむ多くの農民を救っています。やはりたいしたお方でした。
「すぴのら様の図に似ているな」
届いたばかりの新編算術書を眺めながら考えるのは、すぴのら様は何を求めていたのだろうということです。それはこの二十年間、ずっと私の頭を離れませんでした。しかし最近、なんとなくその答えがわかってきたような気がするのです。
すぴのら様が求めていたもの、それは真理だったのではないかと。数の真理、人の真理、星の真理。それらの探求の果てに行き着いたのが神だったのではないか、そう思うようになったのです。すぴのら様にとって神と真理は同一だったのです。だからこそ命をかけても守りたかったのでしょう。
「おや、これは」
算術書の最後の一枚をめくったとき、刷られたものではなく筆で書かれた文字が目にとまりました。きっと吉田様が私だけのために直接書き入れてくれたのでしょう。思わず顔がほころびました。
「吉田様の中にもまだすぴのら様は残っているのだな」
書を閉じて縁側に出ました。いつの間にか日は暮れ、空には星が輝き始めています。私の耳に歌声が聞こえてきました。牢獄で毎日聞いていたおらしょです。きっとぱらいそに行ったすぴのら様たちが歌っているのでしょう。その声に合わせるように、吉田様が私のために書き添えてくれたおらしょを口ずさみました。
え、べりつす、どみに、まにい、えてぬむ
et veritas Domini manet in aeternum
そして神の真理は永遠に残り続けるのです……
おらしょを口ずさめば…… 沢田和早 @123456789
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