戻ってきた鳥は自ら籠に入る

 三度目の冬がやってきました。もはや囚人たちの体力は限界に近付きつつあるように思われました。歌は毎日聞こえてきましたが声量は乏しく、言葉も途切れがちになっていました。その理由は冬の寒さだけではありません。今、牢内には彼らの心の拠り所となっていたすぴのら様がいないのです。


「奉行所より召喚の命が下った。数名のばてれんを差し出せとのことだ」


 事の起こりは昨年南蛮から日本に向かっていた御朱印船の拿捕でした。その船に異国の密航者が二名いたのです。

 潜入を企てたばてれんであると判断した役人は二名を捕縛し取り調べを始めました。しかし二人は頑強に否定しただの商人だと言い張ります。そこですでに囚われている他のばてれんを彼らに引き合わせ、言い分が正しいかどうかを判断することにしたのでした。


「これで牢内も少し広くなります。みなさん、お元気で」


 獄衣からばてれんの衣装に着替えられたすぴのら様は、はなむけのおらしょに見送られながら他の囚人とともに旅立っていかれました。その日から牢獄は火が消えたように活気を失ってしまったのです。


「いつお戻りになるのだろう」


 文を書く手伝いをしたあの日から、私はひんぱんにすぴのら様と言葉を交わすようになっていました。話をすればするほどその偉大さが身にしみます。圧倒的な知識量と的確な説明力。これほど傑出した人物に出会えた幸福に感謝せずにはいられませんでした。

 ただそれはあくまでも学問的な知識に限られていました。おらしょは別として異教に関する知識を聞く気は一切ありませんでした。それはすぴのら様も理解しているらしく敢えて話そうとはしませんでした。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


 役人に疑われないよう事あるごとに念仏を唱え、首には数珠を掛けてお役目に励みました。その甲斐あって、すぴのら様と短い会話をするだけならば役人も番人も口を挟むことはなくなっていました。


「君、あそこで働いているのかい」


 それはすぴのら様が召喚されてからだいぶ経った朝のことでした。牢獄へ向かう私に話し掛けてきた男がいたのです。年は二十才ほどで旅装束の若者です。


「はい」

「それはいい。私を牢獄の中へ入れてくれないか」


 初対面の相手によくもこんな図々しい物言いができるものだと思いました。しかも私はまだ十代の小僧です。そんな頼みを聞けるはずがありません。


「そのようなことは役人に頼んでください」

「頼んださ。でもまるで取り合ってくれないんだ。ここはおまえのような者が来る場所ではない、帰れ帰れってね」

「この牢獄に何の用があるのです」

「会いたい人がいるんだ。すぴのら様、私の師匠だ」


 意外な言葉でしたが驚きはありませんでした。すぴのら様は五十代。あれだけの学識をお持ちなのですから長い人生の中で弟子の一人や二人いたとしてもおかしくはありません。


「残念ですがすぴのら様はここにおられません」

「ええっ! まさか処刑されたんじゃ」

「違います!」


 驚く若者に事の次第を説明しました。捕縛者の詮議のために二十里ほど離れた土地へ召喚されたと聞くと若者の顔が明るく輝きました。


「わかった。ならそこへ行くまでだ。じゃあな」


 早足で歩き出す若者。本当にすぴのら様の弟子なのだろうかと疑心を抱いた私の耳に歌が聞こえてきました。


「おー、ぐるりよーざ、どーみの」


 誰に憚ることなく平然と声に出して歩いていきます。なるほど確かにすぴのら様の弟子に違いありません。


「おお、戻って来られたのですね」


 あの若者は本当に不運な星の元に生まれたのでしょう。すぴのら様たちが帰ってきたのはその翌日のことでした。

 召喚は無駄に終わった様子でした。結局ばてれんかどうかの真偽はわからず詮議はまだ続いているそうです。訪ねてきた若者については何も話しませんでした。


「今日は冷えるな。おや、あれは」


 すぴのら様のお戻りからひと月ほど経った朝、牢獄の玄関の前に誰かが立っていました。あの若者です。


「行き違いになるとはな。本当にツイてない」


 彼はすぐさま私に近寄り手を握りました。


「さあ、会わせてくれ。すぴのら様は中にいるんだろう」

「ですから私にそんな権限はありません。役人に申し出てください」

「それが無理だから君に頼んでいるんだろう」


 話が無茶苦茶です。役人に頼んで無理ならば私に頼むのはなお無理です。


「会って何をしたいのですか」

「円の広さについて話し合いたんだ」


 若者は懐から紙を取り出して広げました。たくさんの図形と数字と文字で埋め尽くされています。


「方形の広さは辺と辺を掛け合わせて求める。辺が一尺ならば広さは一平方尺。辺が二尺になれば広さは四平方尺。辺が二倍になれば広さは四倍になる。これは円形にも当てはまると考えられる。円の径が二倍になれば広さは四倍になる。それを証明したいんだ」


 確信しました。この若者はすぴのら様の弟子に違いありません。だからと言って私に何ができるでしょう。しばらく考えた後、言いました。


「会わせるのは無理ですがその書き付けをすぴのら様に見せることはできます。文字を通して話しあってみてはどうでしょう。今は牢内に筆と墨を持ち込むことを許されているのであなたの問いに文字で答えてくれるはずです」

「おお、それは名案。ならばお願いする」


 若者は懐からさらに数枚取り出すと私に差し出しました。


「お名前を聞かせてもらってもいいですか」

「吉田だ。都のあかでみあで学んだ吉田と言ってもらえばすぐわかるはずだ。では明朝」


 吉田様はひと月前と同じようにおらしょを口ずさみながら去って行きました。


 それからは吉田様とすぴのら様の架け橋をする毎日が続きました。番人の目を盗んで籠目の間から紙を差し入れ、夕食の椀を返す時にすぴのら様から紙を受け取るのです。

 幸いなことに私の行為が露見することはありませんでした。もし露見したとしても異教とはまったく関係のない算術の書き付けです。たいしたお咎めも受けなかったはずです。


「やはりそのようなお方でしたか。たいしたものです」


 やりとりが増えるにつれ吉田様やすぴのら様の経歴を知ることができました。すぴのら様がこの国に来られたのは二十年ほど前、都で伝道に励みながらあかでみあを設立。七年に渡り算術や星読みなどを教えられていたそうです。


「それでは吉田様はすぴのら様の弟子の弟子ではないですか」

「うむ、まあ正確に言えばそうなるな」


 そのあかでみあで学んでいたのは吉田様ではなく吉田様の伯父上でした。その伯父上に算術などを教えてもらっていたのですが、どうしても解決できない問題が山積みとなり、師の師であるすぴのら様に教えを乞うためにはるばる都からこの地まで会いに来たのです。


「それだけのためによくこんな遠方まで旅ができたものですね」

「真理の探究のためならば時も銭も惜しくはない。それが正しい人の生き方なのだ」


 吉田様もすぴのら様とは違う偉大さを身の内に宿しているようです。


 二人のやりとりは断続的にひと月ほど続きました。今はもう正確な円の広さを求める段階になっていましたが、それはすぴのら様でもわかりかねるものだったようです。


「どうやらここまでのようだね」


 吉田様の紙には方形の内部にすっぽりと収まった円形が描かれていました。


「この方形の広さに、ある数を掛ければ円形の広さが求まる。そこまではわかっている。だけどその数がわからない」

「ひとつの数を求めるのがそんなに難しいのですか」

「百分の七十九より小さく百分の七十八より大きい、今わかっているのはそこまでだ。すぴのら様の話ではその正確な数値は恐らく永遠にわからないらしい。どんなに学問が進んでも人は円形の正確な広さを求めることはできない。常に近似値で辛抱するしかないとのことだ」


 私は紙に描かれた円を眺めました。絶対に正確な広さを知り得ない図形。この単純な形にそんな秘密が込められているのです。


「人智を超えた図形。まさしく神の図形だね。さあて、私の探求は今日でお仕舞いにするよ。君にはずいぶん世話になった。いずれ何らかの形で礼をさせてもらうよ」

「都に帰るのですか」

「いや、せっかく西国まで来たんだ。この機会にひと月ほどぶらぶらするつもりだ。まずはもう一度すぴのら様が召喚された地へ行こうと思う。あそこには異国の商館があって珍品であふれ返っているからね」

「次にお会いできるときを楽しみにしています」

「おー、ぐるりよーざ、どーみの」


 いつものようにおらしょとともに去っていきます。何の迷いもなく歌える吉田様を少し羨ましく感じました。


「最近、書き付けはないのですね」


 吉田様が去ってから数日が経った夕刻、食べ終わった椀を返しながらすぴのら様が言いました。


「失礼、言い忘れておりました。やるべきことはやり切ったと申されて吉田様は数日前にこの地を去りました」

「そうですか。あなたがここを去る日もそう遠くありません。そのための心づもりをしておいてください」

「それは、どういう意味ですか」

「今にわかります」


 すぴのら様は籠目の間から空を見上げました。日の沈んだ西の空には一番星が輝き始めていました。

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