籠の鳥は星空に聖なる母を見る

 秋が深まり冬が近づくにつれ囚人たちの生活は次第に過酷さを増していきました。暑苦しさを癒してくれた心地良い風は、頬を打ち手足を凍り付かせる寒風に変わり、汗を流し喉の渇きを潤してくれた慈雨は、衣服を濡らし体力を奪う無情の雨へと変わっていきました。両足を抱えてうずくまり、身を寄せ合ってひたすら寒さに耐える、そんな姿ばかりが目に付くようになりました。


 特に酷いのは雪の日です。降り込む雪をさえぎろうと敷かれている筵を立てかけると、番屋から役人が出てきて籠目から棒を突っ込み、立てかけた筵を突き倒すのです。それが何度も繰り返されるうちに囚人たちは諦め、再び膝を抱えて白い息を吐き始めるのでした。


 こんなつらい生活の中でも歌だけは毎日欠かさず聞こえてきました。まるでそれが生きている証しであるかのように彼らは歌い続けました。実際、その歌声を聞いていると心は穏やかになり、希望のようなものが満ちてくるのです。


「ああ、また歌っている」


 特に好きだったのはひとつの歌を複数人が少しずつずらして歌うやり方でした。違う言葉を互いに言い合えば耳障りなだけなのに、そこに音の調べを乗せると言葉同士が響き合い心地良い調和が生まれるのです。


「もし、人を呼んでいただけませんか」


 年が改まって数日経った寒い朝のことです。肥溜めから糞尿を汲み上げていると、いつも私にねぎらいの言葉をかけてくれるばてれんが籠目にへばりついてこう言いました。

 こんな呼びかけをされたのは初めてだったのでどうすればよいのかわからず何も答えずに黙っていると、彼は筵に横たわった一人のばてれんを指差しました。その青白く頬のこけた顔を見ておおよその事情がわかりました。

 役人を呼び、くぐり戸から引きずり出し、すでに事切れていることを確認した後、遺体は筵に包まれて運ばれていきました。すでに古希に近い老体ゆえ牢獄の劣悪な環境に耐えられなかったのでしょう。後に聞いたところによればかつて太閤様の通司を務めたほどのばてれんであったそうです。


「みなさん、祈りましょう」


 その時に聞こえてきた歌はこれまで耳にしてきた調べとはまったく異なったものでした。胸に広がるのは喜びではなく悲しみ。心躍るような軽快さはなく地の底に沈んでいくような重苦しさ。それなのに包み込むような優しさを感じさせてくれるのです。きっと死の国へ旅立つ者のためだけに作られた特別の歌なのでしょう。どんな時にも歌を忘れない彼らを見ていると、歌は常に寄り添い合う彼らの伴侶のようなものに思えてくるのでした。


「ばてれんにふみを書かせることになった。おまえはその手伝いをしろ」


 最初の殉教者が出てからひと月ほど経った頃、役人からこんなお役目を持ちかけられました。白羽の矢が立ったのはいつも言葉をかけてくださるあのばてれんです。彼が囚人たちのまとめ役となっていることは私だけでなく役人も気づいていました。彼に対しては誰もが尊敬の眼差しを向け、誰もが丁寧な口調で接するのですから気づかないほうがどうかしています。

 彼は役人に命じられてもすぐには承諾しませんでした。


「文を書く理由を教えてくれますか」


 そう問われた役人は手短に説明しました。ばてれん追放令が出ているにもかかわらず、朱印船に紛れ込んでこの国に潜入するばてれんが後を絶たない。そこでこの国のばてれんがどんなに酷い目に遭っているか文に書いておまえたちの仲間へ送ることにした。そこに書かれている悲惨な状況を知ればこの国へ来ようなどとは思わなくなるはずだ、と。

 彼はうなずいて承諾しました。ただし牢内は狭くて思うように書けないので外に出ることを所望しました。役人は渋々認めました。


「ここで書け」


 牢の周囲は二重の柵に囲まれ二重の扉で塞がれています。その通路のような場所に筵を敷き、机代わりの木箱と筆記具が運び込まれました。


「これが異国の筆と墨か」


 それらは捕縛に当たって押収したばてれんたちの荷物の中から持ち出したものでした。異国の筆の先は毛がなく尖っています。それを壺に入った墨に浸して字を書くのです。


「紙を押さえていてください」


 風でめくれ上がらないように紙を木箱に押さえつけるとばてれんは書き始めました。流れるような筆の先から見たこともない異国の文字が生み出されていきます。それを見ているだけで心が湧きたつような気持ちになりました。


「ふんふん、ふんふん」


 彼にとっても久しぶりの筆記は楽しかったのでしょう。いつもの調べが鼻歌となって聞こえてきました。知らぬ間に私の口から言葉が漏れました。


「おー、ぐるりよーざ、どーみの」


 言った後ですぐ口を塞ぎました。彼も手を止めて私を見ました。驚いて丸くなった目がこちらに向けられています。

 私は周囲を見回しました。役人はすでに詰所へ戻り、北にある番屋や柵を監視する番人に目立った動きはありません。どうやら誰にも聞かれなかったようです。


「その言葉はとても崇高なものです。けれども」

 ばてれんは言葉を区切ると声を潜めて言いました。

「ここでは二度と口にしてはいけません。今度はあなたが牢獄に押し込められることになります」


 私は大きくうなずきました。うかつでした。毎日聞いているうちに覚えてしまった言葉は、声に出さなくても頭の中で毎日喋っていました。それどころか彼らと一緒に無言で歌っていることすらありました。今も頭の中だけで喋ったつもりでした。どうして声に出てしまったのか、私自身が不思議で仕方がなかったのです。


「歌に興味があるのですか」


 私はうなずきました。ばてれんはにっこりと微笑みました。


「これはおらしょと言います。私たちの言葉ではオラシオ、祈りの言葉。この国で言うところの念仏のようなものでしょうか」

「歌にはどんな意味があるのですか」


 思わず訊いてしまいました。言葉を声に出したことでずっと締め付けていたタガが外れてしまったようです。


「おー、ぐるりよーざ、どーみの、いきせんさ、すんでら、しーでら。星空を越えた高みに居られる聖なる母よ、そんな意味でしょうか」

「星空の上に? その母はどうやってそんな場所まで行けたのですか」


 私の問いに彼は苦笑しました。きっと手短に説明するには難し過ぎる質問だったのでしょう。はぐらかすようにこんな言葉が返ってきました。


「星空はとても有意義なものですよ。星を見れば私たちの住む大地のことがわかるのですから。まさに星は聖なる母です」


 星を見て大地がわかる? そんな馬鹿なと思いました。いくら何でもこんな怪しい言葉を信じる者などいるはずがありません。さりとてこのばてれんが冗談を言っているようにも思えないのです。


「具体的に教えてください。星から何がわかるのです」

「そうですね。あなたは私たちが住む大地が球体であると知っていますか」


 小耳に挟んだことはありました。昔ばてれんが地球儀なるものを「これこそ大地の真の姿」と言って献上したという話です。私は曖昧に答えました。


「ええ、まあ」

「それなら話が早い。ちょっと待ってください」


 彼は新しい紙を取り出すと大きな円を描きました。


「ここが北の極、こちらが南の極。そして北の極の真上には北の方角の目印となる星があります。の方角にあるのであなたたちは子の星と呼んでいるようですね」

「はい」

「この子の星の見え方で私たちが今どれくらい北にいるかがわかるのです。例えばあなたが北の極に立てば子の星はどこに見えますか」

「頭上です」

「そうです。ではそこから南に下がって南の極とのちょうど中間、この一番膨らんだ地点に立てばどこに見えますか」


 少し考えました。しかし描かれた図を見れば答えはすぐわかりました。


「水平線すれすれに見えます」

「そうです。つまりあなたが子の星を見上げた時の勾配は、地球の中心から今あなたがいる地点を見上げた時の勾配に等しくなるのです。これで南北方向の位置を決定できます」


 言葉だけでは理解できませんでした。しかし紙に描かれた図を見れば、それは容易に理解できました。確かに二つの勾配は同じ傾きを持っているように見えます。


「では東西方向の位置はどのように決めるのですか」

「いろいろありますが月食を使う方法が簡単でしょう。月が欠け始める時刻は場所によって異なります。そこで東西方向に離れた二地点で月食開始時刻を測定し、その差から二つの地点の東西方向の勾配差を計算するのです。実際私は八年前に、ここから三里ほど離れた土地で月食を観測し、南蛮に住む私の仲間との観測結果から勾配差を割り出しています」

「こらっ、何を喋っている!」


 さすがに話が過ぎたようです。柵を見回っている番人が怒声をあげました。


「汁に入っている菜を訊いています。あれは何ですか」

「あ、あれはおもに大根の葉です」


 何という機転の早さ。粗末な食事の描写のための会話なら不自然さはありません。番人は怪訝な顔をしましたが、

「口よりも手を動かせ。わかったな」

 と言って歩き出しました。


 私はほっと胸を撫でおろすと正面で筆を走らせるばてれんを見つめました。今はもう彼に対する私の印象は完全に覆っていました。甘言で異教に誘う異国人、そんな考えはきれいさっぱり消え去りました。これだけの知識と経験を持った人物がどうしてこんな牢獄に押し込められているのか、その理不尽さに腹立たしさすら覚えたのです。


「あなたは何者ですか」

「見ての通り、牢に囚われた一人のばてれんにすぎません」


 納得できない答えでした。私は無言で彼を見つめ続けました。


「もしかして名を知りたいのですか。それなら、すぴのら、と呼んでください」

「すぴのら様」


 こうして私は半年近く経ってようやくこのばてれんの名を知ったのです。

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