おらしょを口ずさめば……

沢田和早

籠に押し込められたたくさんの鳥たち

 私が都に出てきてもう二十年ほどになります。それまでは西国の片田舎に住むありふれた農民でした。その頃は自分が都に出て町医として生計を立てていけるようになるとは夢にも思っておりませんでした。大恩人の吉田様との出会いがなければ、私は今でも片田舎で畑を耕しながら生きていたことでしょう。


「おお、こたびは三巻本で出されたのですね」


 その吉田様からたった今、新編の算術書が届けられました。最初の版を出したのが十五年ほど前。たちまち世間の評判となり何度も版を重ねてきた名著です。今回は大幅に増補しただけでなく下巻には解のない遺題まで載せられています。これでまた多くの好事家こうずかたちがこの書の虜になることでしょう。


「今も変わらず算術を究めようとしておられるのですね」


 初めて出会ったときの吉田様は二十代、私は十代でした。二人ともずいぶん年をとりましたがあの頃の若々しい情熱は今でも吉田様の中で燃え続けているようです。


「あの方もきっとお喜びになるに違いない」


 そしてもう一人、吉田様と同じくらい大切な大恩人であるあの方の面影が浮かんできました。いつも穏やかで優しい声で歌っていた、今はもう亡きあのお方の姿が。私は口ずさんでいました。


「え、べりつす、どみに、まにい、えてぬむ……」



 私の実家は米農家でそこそこ余裕のある暮らしをしておりました。ただ農家の三男坊ということもあり両親からは軽く扱われておりました。跡を継ぐのは長男ですからいずれは家を出て自立するか、あるいは独り身のまま居候のように実家に住み続けるか、そのような人生しかなかったのです。


「牢獄の小間使いですか?」


 ある日、父が新しい働き口の話を持ってきました。やがて家を出る私のために手に職を付けさせたかったのでしょう、これまでも職人や商家の手伝いなどを何度かさせられていました。しかし生来の飽きっぽい性格のせいかどれも長続きしなかったのです。


「そうだ。それくらいならおまえでも務まるだろう」

「どんな牢獄なのですか」

「捕縛されたばてれんたちの牢獄、そう聞いている」


 ばてれん、異国から来た異教徒たちです。それだけで興味が湧き上がりました。

 太閤様がばてれん追放を命じられたのが三十年前のこと。そして二十年前に出された禁教令によって二十六人のばてれんが処刑され、それ以後禁教の動きは活発化し異教徒たちはことごとく追放、改宗させられたのです。

 すでにこの国には存在しないはずのばてれん、それが見られるというのですから興味をかき立てられないはずがありません。


「わかりました。ぜひやらせてください」

「そ、そうか。しっかりな」


 私の言葉にこれまでにない意気込みを感じたのでしょう。父は少し驚いた顔をしていました。

 お務めは八月から始まりました。家から通うには遠すぎるので、牢獄に米や炭を納めている近くの農家に寄宿し、そこから毎日通うことになりました。


「こ、これが牢獄なのですか」

「そうだ。ばてれんのために新しく作らせた特別の檻だ」


 二重格子の玄関を抜けて敷地に足を踏み入れた私は驚きを禁じ得ませんでした。間口が二間、奥行きが三間ほどの、竹で編んだ大きな籠が土の上に置かれているだけなのです。適度な間隔で太い柱が十本ほど打ち込まれてはいますが、周囲は竹で編まれた隙間だらけの壁にすぎません。巨大な鳥籠、そんな印象でした。

 ただ天井には申し訳程度に藁ぶきの屋根が被せられていました。風は防げなくても雨露だけはなんとかしのげそうです。


「ばてれんは背が高く体も大きいと聞いています。このような場所でよろしいでのすか」

「居心地が良くては牢獄の意味がなかろう。それにここに入れる全員がばてれんなのではない。情けないことに半数近くは異教に心を狂わされた我が国の民だ。ここに来るのは五日後、それまでに仕事を覚えておけ」

「はい」


 私に課せられたお役目は囚人たちの食事の支度、厠の始末、そして草刈りや荷物の運搬などの雑用でした。

 見習いの四日間はあっという間に過ぎ、五日目、ばてれんたちが牢獄にやってきました。皆等しく薄汚れた単衣ひとえの獄衣をまとってはいましたが誰がばてれんで誰が信徒なのか一目でわかりました。

 背が高く、髪の色も目の色も私たちとは違う彼らはまるで別の生き物のように思われました。それだけでもずいぶんと驚いたのですが、その人数を見て私はさらに驚きました。


「いくら何でも多すぎる」


 牢内の広さは十畳ほど。ですからせいぜい十人ほどが閉じ込められるものと思っていたのです。けれども送られてきた人数は三十を超えていました。これでは横になることすらできません。


「まだ詰め込めるな」


 全員を閉じ込めた後で役人がつぶやきました。その薄笑いを眺めながらこれほどまでに過酷な仕打ちをされるのかと空恐ろしくなったのを覚えています。


 その日から私はお役目に励みました。一番大変なのは食事の支度です。これは一日に一度、夕食のみでした。食事と言っても実に簡素なものです。魚をのせた玄米の粥がひと椀と水、それだけです。水の代わりに汁を出すこともありましたが、味はほとんどなく具も大根の葉がわずかに浮いているようなもので水と大差ありませんでした。

 牢の入り口は小さなくぐり戸で、その上に小窓がついていました。食事の椀はそこから差し入れるのです。


「ありがとう、ありがとう」


 ばてれんたちも信徒たちも必ずそう言って私が差し出す椀を受け取りました。まるで幼子のようなたどたどしい言葉で礼を言われると少し恥ずかしい気がしました。私は無言でした。無駄口を叩くなと言われていたからです。


「主よ、あなたの御恵みによりこの賜物を祝し給え」


 食事の前には必ず祈りを捧げました。敷かれた筵に端座し、みすぼらしい椀を胸に抱いて一心に言葉をつぶやくのです。そしてその祈りはやがて歌へと変わりました。


「おー、ぐるりよーざ、どーみの」


 不思議な歌でした。明らかにこの国の言葉ではありません。しかし異国の言葉でもないような気がしました。歌と言ってよいのかどうかすらわかりません。ただその言葉には祈りに似た響きが宿っているように感じられました。


「それでは、いただきましょう」


 歌い終えると彼らは食べ始めました。粗末な粥にもかかわらず、まるで御馳走でも振る舞われたかのように笑顔を浮かべて食べるのです。あの歌には食べ物の味を良くする力でも秘められているのではないか、そんな気さえするのでした。


「ありがとう、ございました」


 食べ終わった椀を返すときも彼らは感謝の言葉を忘れませんでした。その後片付けをして私の一日のお役目は終わるのです。


 夜が遅いこともあって朝の仕事は日がだいぶ昇ってからです。最初に取り掛かるのは囚人たちの糞尿の後始末でした。厠は牢獄の内側に置かれていましたが外にある糞溜めにつながっており、そこに溜まった糞尿を汲み取るのが私のお役目でした。

 集めた糞尿は農家に売ります。下肥を施した畑の作物は実りが各段に違いますから、農家は喜んで銭を出し引き取ってくれるのです。その儲けが役人の懐に入っていることは薄々気づいていました。


「あなたは立派です」

 糞尿を汲み取る私に向かってばてれんは必ずこう言いました。

「人が嫌がる汚い仕事をする、あなたは立派です」


 褒められて嬉しくならないはずがありません。しかし私は素直には喜びませんでした。ここに閉じ込められた信者たちはこのようなばてれんの甘言に騙されたがゆえに、今のような境遇に落ちてしまったのではないか、そんな思いが捨てきれなかったからです。


「らおだて、どーみの、おーねー」


 しかし時折きこえてくるこの歌だけは私の心を揺さぶりました。食事の時だけでなく日に何度も彼らは歌いました。まったく意味のわからない言葉の羅列、しかしその言葉が持つ調べは不思議と心にしみるのです。この歌だけはいつまでも聞いていたい、そう感じ始めていました。


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