11.

月城の右フックを顎に受け、神部は床に倒れる。

緩慢な動作で身を起こし、吹き飛んだ眼鏡を拾ってヨロヨロと立ち上がる。

顔は腫れ上がり、切れた唇から血を流している神部とは対照的に、月城の方はほぼ無傷だ。神部のボディーブローやタックルは何度か成功しているものの、顔面への攻撃が全く当たらない。おぼつかない足取りで神部が繰り出したパンチを、月城は軽快なフットワークで悠々とかわす。

「………………」

旭は壁際で戦いの成り行きを見守っていた。

明らかな神部の劣勢。

と言うか、現時点で勝敗はほぼ決定していると言っていい。

しかし手は出さない。いま手を出すことは神部の誇りを傷つけることだからだ。

唇を噛みしめ、ただ黙って神部の背中を見守り続ける。

「っだらぁ!」

神部が渾身の力を込めてパンチを繰り出した。

遅い。しかもモーションが大きすぎてバレバレ。もうそんな動きしか出来ないのだ。

簡単にさばかれ、逆にパンチをもらう。

両肩を捕まれ、腹に膝蹴り。二発目、三発目と飛んでくる膝を両手で必死に抑えるが、月城はすかさず攻撃を足払いに変更して再び神部の体を床に叩きつける。

「がっ……!」

そして一瞬呼吸困難になって悶える神部の頭部に回り込み、月城は足を振り上げて頭を踏みつけた。

神部の体が一度跳ね、脱力する。

勝負ありだった。

「………………」

旭は壁から背を離し、歩き出す。

「今度は貴様か」

睨んでくる月城を無視し、屈んで神部の上体を抱き起こした。

「いい戦いっぷりだった。見届けたぜ」

神部は朦朧としながらも、まだ起き上がろうともがいていた。

脳震盪を起こしている。きっと視界はグルグルと上下を回っていることだろう。

「勝手に終わらせんな! 俺はまだ……!」

ろれつの回らない口で言う神部に腕を回し、旭は肩を貸して立たせた。

そのまま壁際へ移動させながら言う。

「ああ、そうだろうよ。お前はまだ戦える。分かってる。けどよ、独り占めはズリぃじゃねえか。俺にも獲物を残しといてくれよ」

笑って言ってやると、神部は押し黙る。

壁際に到着し、壁に背を預けて座らせると、神部は涙ぐんでいた。

「畜生。こんなことすら忘れてたなんてな……」

「ん?」

「負けるって、こんなに悔しいものだったんだな。負けて悔しいと思えたのなんて、本当に久々だぜ……」

旭は黙ってうなずいた。

思えば社会に出て以来、こんなに勝負らしい勝負をしたことがあっただろうか。

命がけでやれと言われて、上から色んな仕事を押しつけられた。でも、何をやってもつまらなかった。

所詮、ただのやっつけ仕事。勝利も敗北もなく、ただ延々と続く作業をこなすだけ。大した意義も感じられず、自分のやった事がどこに繋がっているのかも分からず、徒労感だけが残って充実感などカケラも無い。

いつもそんな仕事ばかりだった。そんな仕事しか、やらせてもらえなかった。

もっと上の管理職にでもなれば、その仕事の意義や成果が見えて、やりがいも少しはあったのかも知れない。

でもそんな上の役職は、上の世代のものだった。しかも年功序列のため、まだまだ余り物の先輩方が行列を作ってポストが空くのを待っている状態であり、とうてい自分たちに回ってくる気配など無かった。

上の世代による、やりがい搾取さくしゅ

ただの労働力として消耗品のように使い捨てられた。

もっと出来たのに。

考え、挑み、励み、そして結果に一喜一憂し。

そんな人間らしい豊かな人生の可能性を、上の世代に潰された。

神部が泣くのは、月城に負けて悔しいという事よりも。

自分の人生がいかに貧しいものなのかを実感してしまった、哀しみによるものだ。

「立派だったぜ。後は俺にやらせてくれ」

慰めの言葉など、あろうはずもない。

不遇の時代に生まれてしまった、他の世代には理解できない、俺達ロスジェネ世代だけが知る、癒しようのない哀しみに。

ゆずってやるよ。無様さらすんじゃねえぞ」

背後からの友の言葉に、ただ頷いて。

打ち上げ花火が照らす、福岡海浜タワーの展望フロア。

旭は月城と対峙する。

「……元はと言えば、貴様さえ居なければ……」

恨み言を口にする月城。

「情けねえセリフ吐いてんじゃねえ、国のてっぺん行こうって男がよ!」

それを一喝する旭。

「お前から見りゃ、俺なんてそこらに転がってる石コロみてえなもんだろうが。だったら石コロみてえに、蹴飛ばすなり踏み潰すなりして、押し通りゃいいだけの話だろうが」

両拳を握って構え、旭はえた。

「できるもんならなぁ!」

それを受けて、月城は静かに頷く。

何度も、何度も頷く。

「……誉めてやる。確かに貴様の言う通りだ」

ゆっくりと構え、そして裂帛の気迫と共に叫んだ。

「俺の前から消え失せろ、この路傍の石が!」

夜空に大輪の花が咲く。

七色の光を受けながら、二人の男が駆け出す。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


雄叫びと共に、二つの拳が激突した。


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