10.
月城はまだ鯖尾を殴り続けていた。
周囲の黒服たちも、もう止めるのを諦めたのか、途方に暮れたようにそれを静観している。近づいて行くと彼らが警戒するように身構えたので、旭は彼らに軽く両手を挙げて、敵意がない事を示した。
「よう、もうそれくらいにしとけよ。死んじまうぜ」
月城の背中に呼びかけると、ピクリと反応した。
「殺しちまったら、もう政治家どころじゃないだろ。選挙にも出られなくなるぞ。……何があった? おまえ変だぞ」
月城は肩で息をしていた。
急かすことはせず、相手が話し出すのを静かに待つ。
やがて最後に一発殴って、月城はようやく拳を止めた。
「こいつは放火を企てた」
「放火? どこに」
「昨夜、お前達が泊まっていたホテルにだ」
驚きに一瞬言葉を失う。
「放火は重罪だ。もし本当に火事が起こったなら、警察は威信にかけて追ってくるだろう。絶対に逃げられん。こいつが捕まれば、先生にも会社にも、どれほどの迷惑がかかるか分からん。だから俺が止めた」
昨夜、自分たちが安心して眠っている間に、そんなことが起こっていたとは。
さきほど乱闘前に月城と鯖尾が交わしていた会話を思い出す。
月城は犯罪だ、非常識だと言っていた。
何の話なのか分からなかったから口を挟めなかったが、まさか放火とは。本当にとんでもない犯罪ではないか。
「しかしこいつは俺を先生に告発したらしい。お嬢さんを連れ戻すのを邪魔された、月城は先生の命令に背こうとしている気配がある、と言ってな」
「なんだと? いやでも、詳しい事情を話せばいいじゃないか」
「そんな言い訳が通用するわけがないだろう」
「いや言い訳じゃないだろ。真っ当な理由じゃねえか」
旭の言葉に首を横に振ったのは、月城ではなく神部だった。
「それでも『言い訳』ってことになるんだよ。上の人間は結果しか見ねえからな。どれだけ現場の言い分が正当なものでも、上の者は情状酌量なんかしてくれねえさ」
「何でだよ? だってサバ野郎が本当に火ぃ付けちまったら、いずれその大先生にも面倒が行くじゃねえか」
「だから、上はそういうの興味ねえんだって。結果が悪けりゃすべて言い訳、責任者の首を切って終わり。その方が簡単だろ」
「簡単って何だよ。そんなバカな話があるか」
「そのバカな話がまかり通るのが世の中なんだよ。偉い先生とか大企業なんざ、どこもそうさ。上が現場の話を聞かなさ過ぎるんだ。だから理不尽な人事が起こる。優秀な者がクビになり、バカが昇進する。そして昇進したバカは優秀な部下を潰して行く。バカは、優秀な部下の言うことが理解できないからだ。そして優秀な部下も組織を去り、組織はバカだらけになって行く」
神部は月城に同情の眼差しを向ける。
「そして残念なことに、部下にもバカはいるもんだ。教育してきた後輩に裏切られるってのは辛いよなぁ、月城さん。俺もそうだったから分かるぜ」
月城がフラリと立ち上がった。
神部に振り返る。しかしその顔に友好の意志はない。
「ふざけるな。俺とお前を一緒にするな。少なくとも俺は、お前のように批評家気取りで世間に文句を言うだけの無能ではない」
「おっと、これは手厳しい」
「俺から見れば、お前も同じだ。不満があるならなぜ変えようとしない。どうして自ら行動を起こさない。何もせず不平不満を言うだけで、他の誰かが何とかしてくれるのを待っているだけ。俺から見ればお前も、上の奴らと変わらぬ無能だ」
神部は頭をかいた。
「俺だって戦ったさ……つっても、これは本当に言い訳にしかならねえわな。けっきょく俺、負けたし」
「負けた奴が戦っている人間の邪魔をするな!」
神部の冷めた態度に、月城は怒りを露わにして叫んだ。
「戦っている人間って、それ自分の事かい」
「そうだ、俺はお前と違って戦っている! しかもお前とは比べものにならん巨悪とな! それをお前らのような小物が邪魔をしたんだ!」
「別所井とかいう爺さんの犬になって女子高生を
「別所井がクズなことくらい、百も承知に決まっているだろう!」
吐き捨てられた言葉に、旭は一瞬目を丸くした。
決定的な一言だった。
「しかし今は耐えねばならんのだ! 正しい事をするには、今を堪え忍んで上に行くしか無いのだ! 俺がやっていることの意味が分からんバカは黙っていろ、バカが俺の邪魔をするな! バカはバカらしく、余計なことは考えず賢い者に従っていればいいのだ!」
一歩、踏み出してくる。
陽炎のような怒気をまとって。
目に激しい狂気の色をたたえて。
「俺は……諦めん。お嬢さんを渡せ。明日の朝にでも先生の目の前に連れてくれば、まだ……」
ゆっくりと歩み寄ってくる姿に戦いの気配を感じ、旭が前に出ようとした。
しかしそれを神部が止めた。
「俺にやらせろ」
「神部。でもよ」
「いいから。こいつは俺がやらなきゃいけねえ」
阿修羅のような様相で迫ってくる月城を、神部はむしろ哀れみの目で見つめる。
「可哀相にな。志があって、頭も良くて、最後まで諦めないガッツもあって……あんたほど上等な人間が、こうも見事に空回りしなきゃいけなくなるなんてな。ホント、なんで俺達ばかりがこんな目に遭わなきゃいけないんだろうな。あんたのこと、他人の気がしねえよ」
いちど眼鏡を外し、ギュッと目を閉じてから、かけ直す。
そこには紛れもなく、戦う男の顔があった。
「だからこそ、お前は俺が止める」
「ふざけるな、この負け犬が!」
次の瞬間、弾かれたように月城が駆け出し、迎え撃つ神部と同時に拳を放った。
/
警察とゴロツキたちとの揉め事は、未だに続いていた。
その混乱をくぐり抜け、番場らは図書館前の臨時タクシー乗り場までたどり着く。
「よし、ここまで来れば一安心だ。後はタクシーに乗ってホテルまで戻りゃ、一件落着ってわけだ」
番場は今来たばかりの道を振り返り、タワーを見上げて言った。
「冴木、後はお前一人でも大丈夫だよな。嬢ちゃん連れてホテルに帰ってろ」
「え、番場さんはどうするんですか?」
驚いて尋ねる冴木に、
「ゴロツキ共もだいぶ鎮圧されてきてる。そろそろ警察にも上の騒動が知れて、警官が上に行くはずだ。だから俺はタワーに戻る。もう一回エレベーターに乗って、そんで途中で緊急停止ボタンを押す」
エレベーターを使用不能にして時間を稼ごうというのだ。
「そんなことして。警察の邪魔したら番場さんが捕まっちゃいますよ。せっかく逃げて来られたのに」
「あのガキどもが、一丁前に男同士の真剣勝負やってんだぜ。警察なんぞに邪魔されちゃ興冷めってもんよ」
もう六十にも手が届こうかという歳のくせに、番場は悪童のように笑っていた。
冴木は呆れを通り越して感嘆の息をつく。
男はいつまで経っても子供だと、いろんな所で耳にしてきた。
実際その通りだと思ったことも、何度もある。
しかしこれは極めつけだ。祭りか何かだと勘違いしているのではないだろうか。
でも、なぜだろう。
不思議と不快にはならない。
こうなったら、とことんまでやってほしいという気持ちも心の中に確かにあった。
「あんまり派手なことしないで下さいよ。番場さん、ただでさえ謹慎中なんですから。これ以上仕事を休むようなら減給も検討させてもらいますからね」
「おお怖ぇ。そいつは勘弁だな、分かったよ」
鈴華が不安そうに尋ねる。
「おじさんは。おじさんは警察に捕まったりしませんよね」
「分からねえ。ひょっとしたら騒ぎを起こした主犯格の一人として、今夜は警察署に缶詰になるかも知れねえ。そうなったら、明日の嬢ちゃんの見送りもできねえかも知れねえな」
「どうしよう。警察に捕まったら犯罪者ってことになるんですよね」
番場は上を向いて大笑いした。
「まさか。人殺したわけでもあるまいし、ケンカしたくらいでそこまで大事にゃならねえよ。それにもし、そうなったとしてもだ。あいつがそんなこと気にすると思うのか?」
鈴華は首を横に振る。
「気にしないと思います。でも、おじさんがそんなこと気にする人じゃないって分かってるから、だから余計に嫌なんです」
番場は目を細めた。
「いい奴だな、嬢ちゃん。あいつが嬢ちゃんのこと気に入ってる理由が分かる気がするぜ」
鈴華の頭をポンポンと軽く撫でて言う。
「例の小学校のバー。一回くらい連れて行ってやりたかったぜ」
そしてタクシーへ誘導し、運転手に行き先を告げてから二人を乗り込ませる。車が動き出し、冴木と鈴華はホテルへ向かって行った。
それを見送り、番場は改めてタワーを見上げる。
「さて行くか。ここは俺が年長者として、ガキ共にしっかりお膳立てしてやらねえとなぁ。……って、俺もずいぶんマトモなこと言うようになったもんだぜ」
自分で言って少し照れてしまい、番場は苦笑するのだった。
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