6.

旭と鈴華は窓辺に並んで立ち、次々と上がる花火を飽きることなく見続けていた。

「今の、すごかった」

「おお。今のはデカかったな、迫力あったぜ」

プリッツをかじりながら言う鈴華に、旭はビールを少しずつ口にしながらうなずく。

月城や鯖尾への警戒は解いていないものの、この花火を前に酒も飲まないでいるのは無粋というものだ。すでに花火が始まってから三十分が経とうとしているが、これがまだ一杯目。普段の旭からすれば信じられないスローペースである。

「けどよ、東京の花火はもっと凄えんじゃねえのか? 有名なやつがあるだろ、どっかの川沿いにデケえのが何発も上がるやつ」

「隅多川花火大会のこと?」

「そう、それ。テレビのニュースで少しだけ見たことあるぜ」

鈴華は首を横に振る。

「私、それ行ったことない」

「マジか? 近くに住んどいて」

「近くない。遠い。東京って言っても広いんだよ? それにメチャクチャ人多いって有名だし、行く気にならない」

まあ、そんなものかも知れない。

考えてみれば旭だって、福岡の花火と言えば全国的に有名なのは筑前川花火大会なのに、それを見に行ったことはない。

「なるほどな」

「うん」

上がる花火を眺めながら、鈴華はふと独り言のように切り出した。

「さっきね。お父さんから電話があった」

旭は振り返る。

「昨日の夕方、工場のみんなに話したんだって。私のこと」

「どうなった?」

「みんなからメチャクチャ怒られたって。そんなバカな話があるかって、特にパートのおばさんとかから」

「ははっ、そりゃそうだろ」

「みんな怒って反対してくれたみたいだけど……でも、お父さんは言わなかったけど、やっぱり厳しいことに変わりはないみたい。お金の問題だから。おばさん達も反対はしてくれるけど、でも自分たちの生活費が出ないのは困るし、結局どうするかって所までは進んでないんじゃないかな」

「……そうか。それもそうだよな」

旭はうなずくしかなかった。

工場の人たちが良識的な反応をしてくれたのは嬉しいが、根本的な問題を解決しないことには、ただ感情論で騒ぎ立てたところで何の役にも立たない。

そして金の問題は、旭にもどうにもできない。この無力感を今、工場の人達も味わっているのだろうか。

「でもね、今日になってちょっとびっくりした事があったんだって」

「何だよ」

「事務所とか工場で、急に人が変わったみたいに仕事を頑張り始めた人たちがいるんだって。それまであんまり目立つような人じゃなかったのに、今日になっていきなり。で、その人たちには一つ共通点があるの。何だと思う?」

「もったいぶるなよ。何だ、お前のファンとかか?」

「私のファンなんているわけないじゃない。みんな四十歳くらいの人たち。おじさんと同じ世代の人たちなんだって」

言葉に詰まった。

四十歳前後。旭や神部と同じ、ロスジェネ世代。

鈴華の父親が不思議に思って尋ねてみると、その中の一人がボソリとこう答えたのだという。

「これ以上、年寄り共に好き勝手されるのが我慢ならない」

社長の娘がどうなろうが、そんなことは知ったことではない。ただ、俺たちの人生を搾取してきたクソ老人が、強欲にもさらに良い目をみようとするのが許せない。

そこにあるのは憤怒と怨念。

決して誉められたものではない、負の感情にまみれた動機。

「……そうか」

それでも、奮起した同世代が一部でも居ることが、旭は嬉しかった。

目の前の理不尽に心が反応することさえ出来ないほどに、本当に傷つき疲れ果ててしまっている同世代がいることを、知っているから。

がんばってほしい。

心からそう思う。

このさい動機が不純だろうが怨念まみれだろうが、どうでもいい。

心を燃やすことを、もう一度思い出してほしい。

部活、勉強、恋愛、ケンカ、仕事、何でもいい。

何かに心を燃やし、折れそうな自分を叱咤しながら全力で戦ったことが、誰しも一度はあったはず。その気持ちを思い出してほしい。

おそらくその瞬間こそが、生きていると実感できる最高の瞬間のはずだから。

「これからきっと、風向きが変わってくるさ。良い方向にな」

「うん、そうだと良いなって思う。けど気休めはいいよ」

鈴華は哀しげに微笑んだ。

「工場のみんなが頑張ってくれてるのは嬉しい。けど、たぶん今のままじゃどうにもならないだろうなって事も分かってる。私もそこまで子供じゃないよ」

残酷なまでに現実を直視したその言葉に、胸が締め付けられる。

改めて思う。こいつまだ十七歳なんだぞ、と。

何とかしてやりたいのに何もできない、そんな自分の無力さが本当に腹立たしい。

「けど私、心配してないよ」

そんなことを考えていたからだろうか。

「いざとなったら、おじさんのお嫁さんになれば良いんだもんね?」

「おう」

いともあっさり頷いてしまっていた。

「嬉しい」

鈴華は笑った。言葉通り、本当に嬉しそうに。

「ねえ私、おじさんのお嫁さんになれるの、嬉しいって思ってる」

わざわざ自分の心情を報告してくる無邪気な所作に、旭は思わず見入ってしまった。

照明の落とされた、タワーの展望台。

目の前で大輪の花を咲かせる打ち上げ花火。

四十三歳の自分のお嫁さんになると、笑顔で語る十七歳の少女。


―――― ああ、これは夢だな。


そのとき旭の胸に去来したのは、言いようのない寂寥感だった。

花火の光が鈴華を照らしている。その艶やかな髪が、若々しい肌が、七色の光を受けて輝いている。

それにひきかえ。

正面に目を戻し、鏡写しになった窓ガラスに映る自分の姿を眺める。

くたびれた髪。くすんだ肌。服装だけ着飾ったところでどうにもできない、全身から滲み出ている『老い』の気配。

これから人生を駆け上がっていく者と、これから人生を下っていく者。隣に並び立っているからこそ、その対比が鮮明だ。

以前「私、男運ないみたい」と、こいつは自分でそう言っていた。

本当にそうだ。同情する。そして申し訳ない。

ここに居るのが、四十三歳のオッサンでさえなかったなら。

俺でさえなかったなら。

この美しく幻想的な光景は、きっと一生ものの輝かしい思い出となっただろうに。

自分が若くない事が、申し訳なかった。そして、そんな事実が悲しかった。

若くさえあれば、自分は何も迷うことなく、この可憐な少女と共に歩む道を選んでいたのだろうに。

旭は今まで、自分がロスジェネ世代であるという実感が薄かった。

失われた世代ロストジェネレーションなどと言われても、自分が何かを失った感覚など全く無かった。


そうか。

これが、俺が失ったものか。


幸運が手から零れ落ちていく悲しみを、旭は歯を食いしばって堪えた。

欲は、ある。

相手の若さゆえの無知に、つけ込みたい欲はある。

当然だ、欲のない人間などいない。

大人であるかどうかは、欲のあるなしではない。すでにある欲を己の意志で制御できるかどうかだ。

俺は、正しく大人でありたい。たとえこんなクソみてえな人生の果てに舞い込んできた、人生最大の幸運を逃すことになっても、だ。

正しく大人であれ。

正しい大人がいない世界がどういうものか、俺は、俺たちの世代は、他の誰よりも分かっているのだから。



スマホの着信音が鳴った。

タバコを吸いに一階へ降りていた番場からの、緊急連絡。

話を聞き、旭は顔を引き締めて呟いた。

「来やがったか」


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