5.
花火の開始から三十分。
冴木が壁際の椅子に腰かけて、ワインを片手に花火を眺めているところへ、神部がやってきた。
「あら、番場さんはどうしたんです?」
「タバコだと。エレベーターで下まで降りてったよ」
「タワー内禁煙だから喫煙者は大変ですね」
「やっとあのオッサンから解放されたよ。……旭と嬢ちゃんは?」
冴木はワイングラスで前方を指す。
二人で並んで花火を見ている旭と鈴華の背中があった。
「なんか良い雰囲気だから、そっとしといてあげようかと」
「マジか。四十過ぎのおっさんが、女子高生と何話したらそうなるんだ」
「お祭りの屋台の話とかしてましたよ。たこ焼きは焼きもろこしの後に食べるべきだ、とか何とか」
「……いい雰囲気か? それ」
神部は空いていた椅子を持ってきて座り、手にしていたビールグラスを冴木に向かって突き出す。
「何の乾杯ですか?」
「何でもいいだろ。今後二度とないであろう、世にも奇妙な大型連休に」
「いいですね、それ」
冴木は笑いながら神部のグラスに自分のグラスを当てた。
神部は一息で半分ほど飲み干し、息をつく。
「明日が仕事だなんて信じられねえなぁ。寝て起きたら、明日もまだホテルのレストランで朝飯食いながら、今日は嬢ちゃんをどこに連れて行こうかって話してるような気がするぜ」
「私もです。変ですよね、この三日間の方がよっぽど非日常だったはずなのに、もうこっちが当たり前みたいになってて」
「本当にもう、二度とねえだろうな。こんなことは」
「そうでしょうか。いわゆる常識ってのに背く勇気さえあれば、これからもこんな冒険する機会はたくさんあるんじゃないかって私は思うんですけど。今までだって、本当はチャンスはいっぱいあったんですよ、きっと」
そう言う冴木を、神部は驚きの顔で見つめる。
「おいどうしたよ、旭みてえなこと言い出して」
「旭さんってこんなこと言うんですか? まあ言いそうですけど。だってこの三日間を客観的に見たら、私達って単に有給を三日取っただけですよ? 既存のルール内でも、やろうと思えば冒険はできたんだなあって思いました」
「いや今回の一件は、嬢ちゃんっていう特大のイレギュラーが迷い込んできたからだろうが」
「きっかけはそうですけど。でも神部さん、最初にうちの応接室で鈴華ちゃんが月城さんに攫われた時、神部さんと旭さんが自分で取り返してきてくれたじゃないですか。常識で考えたら、あのとき警察に連絡して終わりの筈だったのに。そしたら今回の冒険もなかった筈です」
そう言われて神部は考える。
確かにそうだった。
「きっかけは鈴華ちゃんだったかも知れないけど、そのチャンスを掴んだのは、神部さんと旭さん自身だったんですよ」
「……いや、俺はあのとき家に帰るところだったんだ。そこへ旭が来て、前の車を追えって。俺はワケも分からねえうちに巻き込まれただけなんだよ」
「そういえば旭さんって、どうしてあんなに真剣に追いかけてったんでしょう?」
「知らねえ。本人いわく、助けてって言われたからだとさ」
冴木は首を傾げた。
「何ですかそれ?」
「だから知らねえって」
「旭さんって、たまにそういう単純って言うか、純粋なとこありますよね。もういい歳したおじさんなのに。気が若いのは、ある意味羨ましいかもです」
「羨ましい?」
神部はビールを一口飲んだ。
話題の旭は、今も鈴華と何事か話している。今度はわたあめとりんご飴の順番でも決めているのだろうか。
「冴木は旭と飲んだことあるか?」
神部の声が急に低くなったのを感じ取り、冴木は振り返った。
「いえ、ありませんけど」
「あいつな、一緒に飲みに行っても最近の仕事の話しかしねえんだよ。そうじゃなけりゃ中学とか高校の頃の話」
「そうなんですか。……それが?」
「分からねえか。あいつって元は鉱山労働者だったろ、その頃の話が全然出て来ねえって言ってるんだよ。俺もそれとなく聞いたことがあるが、いつも『クソみてえだった』って一言で終わるんだ。仮にも二十代、三十代っていう人生の中でも激動の二十年間の感想が、一言で終わっちまうんだよ」
冴木は首をひねる。
「そうなんですか? どういうことでしょう。思い出すのも嫌なくらい、ひどい思い出だから……とか?」
「逆だよ。思い出すほどの事なんか何もないからさ。二十年も体を酷使してずっと頑張ってきたのに、酒の席で語れる思い出ひとつ無えってんだよ。空っぽなのさ、あいつの人生は」
思い出が何もない。
それがどういうことなのか、冴木にはうまく想像することが出来なかった。
「あいつが気が若いってのは、それが原因なのかも知れねえ。空っぽだから、高校の頃から頭の中が更新されてねえのさ。俺にはそれが羨ましいとは思えねえな」
「そんなことって有り得ます? 二十年も時間があって、楽しかった思い出の一つくらい」
「それが無えって本人が言ってるんだよ。そりゃ美味いもん食ったとか、小さい事はあったかも知れねえが、本人にとっちゃ記憶に残しておくに値する事じゃなかったってことだろ」
ふと、冴木は小野寺のことを思い出した。
そういえば小野寺も嘆いていた。二十代、三十代とは最も人生が動く期間ではなかったのか。それなのに私は仕事しか記憶にない、と
ロスジェネ世代は仕事に人生のすべてを捧げることを当然とする、昭和の思想を受け継いだ最後の世代。そして何一つ報われることのなかった世代だ。
すべてを捧げたその仕事すら、本人にとっては記憶に残す価値もない空疎なものだったというのなら、旭という人間の人生は何だったというのだろう。
金もない。添い遂げてくれる伴侶もいない。思い出すら何もない。
過去もなく未来もない。そんな人生とは。
冴木はワイングラスを揺らしながら、遠くにいる旭の後ろ姿を眺める。いつもアホ面で脳天気に笑っているオジサンの背中が、急に寂しく、哀れなものに見えた。
話が暗くなってしまったのを気にしたのか、神部が急に口調を明るく変えて言った。
「ま、でも今はちょっと羨ましいかも知れねえな。なんたってJKにモテてるわけだし。俺にはとてもとても真似できねえわ」
その軽口に、冴木は乗った。
「なに枯れたフリしてるんですか、まだ四十前半のくせに。同じ四十代でも男と女じゃ全然違うんですよ? 甘えないで下さい」
暗に小野寺のことを言ったつもりだった。
その意図を、神部は正しく察知した。
「それズルくねえか?」
「ズルくないです」
「甘えるなとか久々に聞いたぜ。やっぱこの歳になっても、それ言われるとムカつくもんだなぁ」
「どうぞ好きなだけムカついてて下さい。私は思ったことを言うだけですから」
「ビール取ってくる」
「行ってらっしゃい。ついでに私のワインも取ってきてもらえると嬉しいです」
「………………」
神部は無言で立ち上がる。
ドリンクコーナーまで歩いて行き、空になった自分のグラスを返却する。
そして新たなビールグラスとワイングラスを持って、再び冴木のもとへ戻って行くのだった。
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