13.

当時のことを思い出したのか、冴木は指先で目元を拭う。

その仕草に、神部は見てはいけないものを見たような気がして、慌てて自分のグラスに視線を落とした。

「私、何もできなかったんです。本当に何にも」

「……まあ、そうだったみたいだな」

「慰めてくれないんですね」

「俺は心にもねえ事は言わない主義なんだよ」

冴木は笑った。

「良かったです。神部さんがここで『そんなことない。君の気持ちはきっと小野寺さんにも伝わってたはずだ』とか言い出す人じゃなくて」

「何だその中身カラッポなセリフ」

「ですよねぇ」

うんうんと頷いてグラスを弄ぶ。

セピア色の照明を受けて、カクテルが乱反射する様を穏やかに眺め、そして少しだけそれをあおる。

息をつき、独り言のように言葉を続けた。

「なにも死ぬことは無かったんじゃないかって、今でも思うんです。仮に結婚がダメだったとしても社会的には成功してたんですし、この多様性の時代に、そんな自殺とまで思い詰めなくても」

すかさず神部が口を挟む。

「やめとけ。人が何に絶望して、何に希望を持つかなんて、それこそ人による。それこそお前の言う多様性ってやつだ。自分のモノサシで、人様のやることに滅多なこと言うもんじゃねえ」

「でも、いくら何でもそんな昭和的って言うか」

「昭和的も何も、俺らは昭和の人間だよ」

そう言って冴木をたしなめるものの、すぐに神部は付け足した。

「まあ……それでも死ぬべきじゃなかったってのは、俺も思うけどな。死んじまったら何もかも終わりなんだからよ。もったいねえ」

「あれ、フォローしてくれました?」

「フォロー?」

「死んでほしくなかったって言う私の気持ちを汲んで、俺もそう思うって同調してくれました?」

「勘ぐり過ぎだ。思ったことを言ったまでだよ」

苦りきった顔でグラスに口を付ける神部に、冴木は微笑んだ。

「良かったです。神部さんがここで『自分の人生に自分で幕を降ろす、それも立派な選択肢の一つだと思う』とか言い出す人じゃなくて」

「何だその悟った風なセリフ。偉そうに」

「ですよねぇ」

なぜか楽しそうにうんうんと頷く。何だと言うのか。

冴木は天井を見上げ、言葉を続ける。

「どうすれば良かったんでしょう。一体どこで何をどうすれば、小野寺さんは死なずに済んだんでしょう」

「考えるだけ時間の無駄だぞ、それ」

「言い方ぁ」

ジト目で隣を睨むが、神部はわざと正面を向いたままで、目を合わせようとしない。

「お前個人がどうにかできた問題じゃねえって言ってんだよ。こいつは俺達の世代に降りかかった、災害みてえなもんなんだ。台風で街がメチャクチャになるのは、お前個人が何かしたところで、どうにかなるもんじゃねえだろう」

「災害って、さすがに誇張しすぎじゃないですか。仮にそうだったとしても、考えることはあると思います。手に負えないからって何も考えないのは、単なる思考停止じゃないですか」

冴木がそう食い下がると、神部は一瞬、何かを堪える素振りを見せた。

長い息を吐き、ぶっきらぼうに言う。

「なら試しにここで、ガチで考えてみるか? 小野寺さんだけじゃねえ、結婚できなかったロスジェネ世代は何百万人といるが、どうすればそれを救えたのかを。結論なんか出ると本気で思うのか? 小一時間ほど、ああでもないこうでもないって言い合って、けっきょく空中分解するのがオチだろうが。結論の出ねえ議論なんて、ムダ以外の何物でもねえ」

その声には少なからぬ怒気が込められていた。

それを感じ取り、冴木は黙り込む。

神部はあくまで冴木と目を合わせようとせず、グラスの中の焼酎を睨みつけながら言った。

「いいか、ロスジェネ問題はお前にとっちゃ、実感の伴わない過去の歴史なのかも知れねえがな。俺達にとっちゃ、リアルで体験してきた現実だ。俺達だけが経験してきた、俺達だけの苦しみだ。それを他人から酒の肴みてえに扱われるのは、いい気分がしねえ」

「酒の肴って、そんなつもりじゃ」

「そんなつもりがなくても、結果的にそうなるだろ。……まあ、他の世代に俺らのことを話題にしてもらえるのは、有り難い事なのかも知れねえけどよ。正直、いい気分はしねえってのが本音だ」

言いながら、神部は心の中で舌打ちしていた。

まずったな。嫌な流れだ。せっかくなら楽しい酒を飲みたかったが、しくじっちまった。もう、ここらが潮時か。

そう思っていたのだが。

「やっぱり当事者の言葉は違いますね」

「へ?」

思いがけず穏やかな声に驚いて振り向くと、なぜか冴木は微笑んだままだった。

「良かったです。神部さんがここで『難しいよね。皆で考えて行かなきゃいけないよね』とか言い出す人じゃなくて」

「うわ出たよ。結論、難しいよね。意味のねえ議論の筆頭じゃねえか」

「ですよねぇ」

何やら楽しそうだ。

不思議に思って神部は尋ねた。

「なあ、さっきから何なんだよ? ですよねですよねって、そればっか」

「神部さん、そもそもどうして私がこの話を始めたのか覚えてます? 神部さんが私の昔の婚約者について訊いたからですよ」

「そうだったな。……ん? てこたぁ」

「そういうセリフを言う人だったんですよ、私の元婚約者って。無難だけど中身カラッポな事しか言わない人。優しいんじゃなくて人当たりが良いだけの人。小野寺さんのお葬式のとき、それに気付いたんです。あれ、この人って、深い議論から逃げようとしてないか? って」

どこか自嘲混じりにそう言う。

「いったん気付いちゃったら、もうその後は、彼がただ要領よく立ち回ってるだけなのがハッキリ見えるようになりまして。ああ、恋が冷めるってこんな感じなんだなって思いました」

「若かったな」

「ええ、若かったです。せっかく小野寺さんに応援してもらってたのに、ダメにしちゃいました」

「んなことねえよ。小野寺さんは、よく考えろって言ってたんだろ? お前はよく考えた。よく考えた結果、そいつはお前にとって納得できる妥協の範囲を越えていた。だから婚約破棄した。お前はちゃんと小野寺さんの言いつけを守ったんだ、きっと誉めてくれるさ」

冴木は目を瞬かせた。

「あれ、もしかしてフォローしてくれてます?」

「なんでだよ。お前の小野寺さんの話から、論理的に推察したまでだ」

こちらを振り返りもせずにグラスをあおる神部。

冴木はその横顔を、しばし値踏みするようにジッと見つめた。

「ふ~む……。納得できる妥協、か……」

やがて小さくうなずき、口を開きかけたその時。

神部が突然むせた。焼酎を吹き出し、激しく咳き込む。

「ちょっと! 何やってるんですか!」

慌てておしぼりを取り、神部が焼酎をぶちまけたテーブルを拭いてバーテンダーに頭を下げる。

「あー苦しかった。肺に入ったわ、肺に。歳取ると喉の機能も衰えていけねえ」

「お爺ちゃんじゃないですか。むせるくらいなら飲むのやめて下さいよ」

「いや、たまたまだろ。あーこぼした焼酎がもったいねえ」

涙目になりながら、なおもめげずに飲み続ける神部。

冴木は溜め息をついた。

「やっぱ無いわね。ないわ」

「ん? 何が無いんだよ」

「何でもありませんー。私はこれからも小野寺さんの教えを守って生きて行こうと、決意を新たにしてたんですー」

なぜかふてくされたように言う冴木に、神部は不思議そうに首を傾げるのだった。


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