11.

神部は一瞬言葉に詰まった。

「……俺が聞いて良かったのか、それ」

「聞かれて悪いことなら言いませんよ」

冴木は微笑んで続けた。

「私が証券勤めしてた頃だから、もう三年前になりますね。相手は同じ部署の二つ上の先輩。清応大出身で上司の覚えもめでたくて、出世競争でもトップグループを走る、まあ絵に描いたようなエリートでしたよ。それを鼻にかけることもなくて優しかったし、私もまあ若かったですしね、ちょっと口説かれてアッサリその気になっちゃったわけですよ。周りの同僚達から羨ましがられるのも気分良かったですし」

「ふーん。トントン拍子に進んだみてえなのに、なんでダメになったんだよ。そいつが実はとんでもねえ裏の顔でも隠してたとかか」

「そういうわけじゃ」

冴木は否定しかけて、ふと考え込んだ。

「いや……そういうことになるのかな。いやでも、彼に裏の顔があったって言うより、私が気付かなかっただけって言った方が正しいかな」

「どういうことだよ」

「結論から言うと、あの人って他人に対して愛想がいいだけで、別に優しい人じゃなかったんですよ。それを私が優しい人だと勝手に解釈してただけで。ある日それに気が付いて、それから急速に冷めて行った感じです」

冴木の横顔は、頭痛をこらえるかのように少し歪んでいた。

婚約解消は冴木の方から言い出したらしい。

そして周囲にそれが伝わるや、周囲の態度が劇的に変わった。急に掌を返したように冷淡な態度を取られるようになったのだという。

どういう噂が流れたのかは分からない。ただ、男の上司からは頭ごなしに怒鳴られるようになったり、あちこちでこれ見よがしにヒソヒソ噂されるようになったりと、非常に居心地の悪い環境になってしまったのだ。

それは冴木にとってショックだった。

男女関係などという個人的な問題で、まさか職場全体が豹変するなど思ってもみなかった。中学や高校の女子の世界ではあるまいし、いい歳した大人が大勢集まって、いったい何を幼稚なことをしているのかと唖然とした。

「ああ、天下の大手証券と言ってもこんなもんなのかって、会社に対しても冷めちゃいまして。彼氏にも会社にも愛想が尽きたんで、やめちゃいました」

「……そうだったのか」

冴木がマチダ運送に来る前、どこか大手の証券会社に勤めていた事は知っていた。

うちの事務所に来るなり、その輝かしいキャリアに違わぬ有能ぶりを発揮する冴木の姿に、せっかく良いとこ就職してこんなにやれるのに、なんでやめたんだろうと不思議に思っていた。詳しい話を聞いたのはこれが初めてだった。

「あ~、その。何かキッカケでもあったのか? その婚約者を見る目が変わったキッカケみたいなのがよ」

冴木はうなずく。

「ええ、あったんです。私の教育係だった先輩のことで」

「教育係の先輩?」

「私が新入社員だった時、OJTで仕事を教えてくれた先輩です。小野寺さんっていって、女傑って言葉がピッタリくるような、もう経理部の裏ボスみたいな人でした」

そしてたったいま気が付いたように、神部に振り返って微笑んだ。

「そうだ。本当なら今年で四十三歳だから、神部さんと同学年の人ですよ」





小野寺は仕事の鬼だった。

必要とあらば、日付が変わろうが終電を逃そうが何時間でも残業し、甘えや妥協を許さず、上司も部下も男も女も関係なくどんどん口を出す。部署の誰よりも業務に精通したヌシのような存在であり、絶対的エース。その豊富な知識とノウハウ、積み上げてきた実績に裏打ちされた気の強さの前には、部長ですらおいそれと口を挟むことができない。

そんな人間が新人教育の担当となったのだから、教育は当然のごとく極めて厳格なものだった。同期入社した女の子たちはほとんど皆一度は泣かされ、彼女を恐れ、嫌っていた。

同期の女の子たちが陰口を言い合う場で、表向きは彼女達に同調しつつ、しかし冴木は内心で小野寺のことが嫌いではなかった。

どれだけ自分を犠牲にしても仕事を完遂する、そのストイックな姿勢には強烈なプロ意識を感じたし、相手を問わず厳しい言葉を投げかけるのも真の公平さ、本当の意味での男女平等を見る思いだった。

なにより仕事のことを、これ以上ないほどキッチリと教えてくれる。

業務内容とそのフローはもちろんのこと、なぜそんな仕事があるのか、自分の仕事が次にどこへ繋がって行くのか、全体像をきちんと教えてくれるのが良かった。

「小野寺のババア、まじムカつく。あんなややこしいの、いきなりできるわけないじゃん」

「でもアレ、昨日習ったよね」

「習いはしたけどさ。でもいきなり実践で、ミスるのなんて当たり前じゃん。それを鬼の首取ったみたいにギャンギャンと。まじムカつく」

同期はよくそんな文句を言っていた。

口にこそ出さなかったが、冴木は内心でそんな同期に呆れていた。

きのう小野寺は、その業務について丁寧に説明した。自ら実践して見本を示し、冴木たち新人にシミュレーション形式で数パターン、練習までさせてくれた。なおかつ最後に「分かった? 質問は無い?」と確認までしたのだ。

あのとき、あんたは「分かった」と答えたではないか。自分の発言に責任を持ったらどうなのか。

小野寺が怒るのは、決まってそのパターンだった。

すでに教育し、本人が「分かりました」と答えたことが出来なかった時だけ。

理不尽などということは全然なく、むしろ小野寺を悪く言う同期達の方こそ甘え過ぎなのではないかと冴木は思っていた。

もとより自分は甘やかされたいわけでも、ぬるい人生を送りたいわけでもない。仕事をきっちり教えてもらえるのなら、これに勝るものはない。私はついてる。

冴木はそう考え、熱心に小野寺に師事した。

小野寺も必死に食らいついてくる冴木に目をかけてくれた。

「最近の子たちはすぐパワハラとか言い出すから、やりにくくてしょうがないけど、その点あなたは助かるわ。私が新人の頃はこんなものじゃなかったんだけど……って、立派な老害のセリフね、これ」

そう自虐して苦笑する彼女は、冴木にとっては親しみの持てる良い先輩だった。



良い師弟関係を築けていたと思う。

何度か一緒に夕食にだって行った。

「小野寺さん世代の人たちって、なんかこう、みんな凄いですよね。ちょっと超人じみてるって言うか、鬼気迫るって言うか」

お酒も入って良い感じになった時に、同期の新人たちの話になった。

「私たち新人からすると、なんでそんな命まで削るみたいにして仕事するんだろうって感じなんですよ。それでみんな怖がってるんだと思います」

冴木は軽い気持ちでそんなことを言った。

すると小野寺は驚いたような表情を浮かべ、やがて寂しげに苦笑した。

「あなた達は、仕事のために命を削ることを『なぜ』と感じるのね……。うん、それって良い事だと思う。本来そうあるべきだったんだわ、きっと」

どうして小野寺がそんな顔をするのか、よく分からなかった。



彼氏への愚痴もよく聞いてもらった。

小野寺は冴木の恋を手放しで応援してくれて、つまらない愚痴であってもニコニコしながら聞いてくれた。

「でも、好きなのね」

「う、う~ん……まあこんなことで、本気で嫌いになったりはしませんけど。私、そんなバカでも面倒くさい女でもないんで」

悪意ある後輩たちは小野寺のことを「行き遅れ」「お局様」などと陰口を言っており、本人もそれを知っている。それなのに、若い後輩の恋バナなどウザいとは思わないのか。

あるとき不思議に思って尋ねると、彼女は「全然」と即座に首を横に振った。

「幸せのお裾分けをもらってるみたいで、すごく楽しいわ。恋愛や結婚が全てだなんて言わないけど、やっぱりチャンスがあるならモノにすべきよ。今の時代、恋も結婚も誰にでもできる事じゃないんだから。冴木さん、頑張りなさい」

小野寺さんにしてはおかしな事を言うな、と思った。

恋愛も結婚も結局は本人のやる気次第。本気でやれば誰にでも出来るというのが、冴木の考えだったからだ。


今にして思う。

おかしいと思ったのなら、何であの時もっと話そうとしなかったのかと。

なぜあなたはそう思うのかと、どうして質問しなかったのかと。


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