8.

博田駅には東の博田口と西の筑糸口、二つの出入口がある。そのうち西の筑糸口から出ると、居酒屋や料理店が集中する飲み屋街が広がっている。

「ええっと、こっちですね。三百メートルくらい歩きます」

スマホを覗きながら歩く冴木を先頭に、仕事帰りのサラリーマンで賑わう人混みの中をホテルへと向かう。

掻き入れ時とあって、周囲には焼き鳥やウナギ、揚げ物といった食欲をそそる匂いが立ち込めている。

「あー、酒飲みてえなぁ! キンキンに冷えた生をグッとやって、タレのたっぷり付いたレバーをひと串、一気食いだ! くーっ、たまんねえぜ」

「バカお前、ビールなら餃子だろ。唐揚げもなかなか」

居酒屋の前を素通りしながら盛り上がる旭と神部に、冴木が釘を刺してくる。

「夕食はホテルですからね。せっかくディナー付きの格安プランで予約が取れたんですから」

「分かってるって。あー、けどなぁ。ホテルのお上品な感じより、その辺の安っぽい居酒屋で飲みたい時ってあるんだよなー」

「分かるぜ。それな」

「行くんなら、ボディガードの任務を全うしてから勝手に行って下さい。月城さんだって、まだどこで狙ってるか分かったものじゃないんですから」

「だから分かってるってばよ」

名残惜しげに焼鳥屋の方を見ている旭に、鈴華が首を傾げて尋ねた。

「ビールに焼き鳥って、そんなにおいしい?」

「絶品だぜ。お前も大人になりゃあ分かる」

「コーラに焼き鳥なら食べたことある。けど、そんな言うほど美味しくなかった」

「そりゃ美味くないだろうよ、コーラじゃ甘すぎだ。あれはビールの苦みがあってこそなんだ」

そんなことを話しているうちに飲み屋街を抜ける。

途端に照明の数が減り、薄暗く見える交差点で冴木は立ち止まった。目指すホテルはこの先らしい。

タイミングの悪いことに、ちょうど信号が赤に変わったばかりだった。大通りの車が動き出すのを横目に、旭も息をついたその時だった。

「お、この子じゃね?」

「おー、マジマジ。こいつだわ。見―っけ」

いきなり旭らの間に割り込み、いかにもガラの悪い男が二人、鈴華に絡んできた。スマホの画面と鈴華の顔を見比べ、何やら納得したように笑っている。

「んじゃ行こうぜ」

「これで十万ゲットー。楽すぎんだろ、このバイト」

まるで落とし物でも拾ったかのように、気軽に鈴華の腕を取って、そのまま引っ張って行こうとする。

あまりに当然のような流れに、鈴華は一瞬呆気に取られていたが、すぐ我に返って慌ててその手を振り払った。旭も急いで間に割って入る。

「おい何だてめえら、いきなり」

「あー、オッサンに用ねえんだわ。どいとけ」

「そーそー。邪魔。ケガすんぜ」

無造作に旭を押しのけ、鈴華に手を伸ばそうとする。その手を叩き落して再度立ち塞がると、男らは早くも不穏な雰囲気を漲らせてきた。

「は? マジ邪魔なんだけど」

「なにこのオッサン、なに?」

一人が往来の目も憚らずに旭の肩を突き飛ばし、胸倉を掴んできた。

不用意に距離を詰めてきた相手の頭を、旭は両手でガッチリと掴んで思いきり頭突きを入れる。そして男が呻き声を上げて手を離したところで、その腹に前蹴りを叩き込んで吹き飛ばした。

よし、まず一人。もう一人の方も。

しかしそこで神部が鋭い声を上げる。

「おい旭、囲まれてんぞ」

振り返ると、いつの間に集まってきたのか。仲間らしき男たちが六人も集まって、旭たちを取り囲んでいた。

「何なんだ、こいつら」

「金で釣ったチンピラだろ。月城さんもなかなか悪どい事するじゃねえか」

鈴華と冴木を守るように二人で前に立ち、構える。

すぐさま乱闘が始まった。

旭は手近な一人に組みつく。別の一人に背中から蹴られる衝撃を堪えながら、力づくで地面に投げ倒す。踏みつけで仕留めようとするが、さらに別の一人から殴りかかられ、いい一撃をもらってしまった。

神部も短髪の男ともみ合っていたが、別の男に背後を取られて羽交い絞めにされてしまう。顔と腹に一発ずつもらい、蹴りを返すものの簡単にかわされ、再び殴られて地面に倒された。旭が助けに入るが、三人に囲まれ、別方向から蹴られ、殴られ、組みつかれる。

戦い始めていくらもしないうちに、劣勢の色が濃く出始めた。旭の心に焦燥感が沸き上がってくる。

敵が多すぎる。

昨日の月城の襲撃が五人だった。あれでもかなり危うかったのに、今日は八人もいる。いくら何でも厳しい。

頭を掴まれ、連続の膝蹴りが来る。必死で相手の足を押さえて、それを堪える。

「ぐっ……ち、ちくしょう」

せめて鈴華だけでも逃がせればと思うが、冴木も鈴華もそれぞれ別の男に組み付かれていた。あの体格差では逃げ出すのは不可能だ。

月城、あの野郎。チンピラに金を握らせて駒に使うとは下衆な真似しやがって。根拠はないが、そういう事はしない奴だと思っていたのに。見損なったぜ。

しかし姿の見えない相手に毒づいたところで、事態が好転するはずもない。

体をねじって組み付きから脱出し、反撃しようとするが、こちらが一発殴る間に四発も五発ももらってしまう。

まずい。まずい。立て直せない。このままでは鈴華を奪われてしまう。親父さんと約束したばかりなのに。

焦りが動きに出たか、大振りのパンチを防がれ、逆に背後の男から羽交い絞めにされてしまった。

「しまっ……」

強烈な右ストレートをまともに食らい、一瞬意識が混濁する。

神部は地面に倒されたまま、マウントポジションを取られて防戦一方だ。

鈴華が一生懸命に頑張っていたが、男二人がかりで両手を掴まれ、堪え切れずに引きずられて始める。

冴木が何事か叫んでいるが、何と言っているのかよく分からない。

旭は拘束から逃れようともがくが、逆に別の男から腰にもしがみつかれ、ついに地面に倒されてしまった。二人がかりで組み伏せられ、身動きできない。

もはやこれまでかと思われた、その時だった。


「んん~? な~にやってんだ、ガキどもが」


野次馬をかき分け、大柄の男が悠然と前に歩み出てきた。

歳の頃は五、六十といったところか。顔には相応の皺が刻み込まれ、頭髪も真っ白に染まってる。顔だけ見れば少し人相が悪いだけの、ただの老人だったが。

しかし体の方は年齢にそぐわず、腕も胸板も厚い筋肉で膨れ上がり、プロレスラーのような体格をしていた。

旭を殴っていた男に近づき、無造作に胸倉を掴む。そして男の体を軽々と背負い投げして、アスファルトに叩きつけた。

次に旭を羽交い絞めにしていた若い男の背後に回り、髪を掴んでギリギリと下に引っ張る。男が悲鳴を上げて旭から手を放し、頭を押さえて抵抗しようとするが、お構いなしにそのまま地面にねじ伏せてしまう。恐るべき握力と腕力だ。

そして空いた手で拳を握り、男の側頭部に振り下ろす。

ものすごい音がした。人間の頭が、拳とアスファルトのサンドイッチである。男の体はビクビクと痙攣し、やがて脱力して動かなくなった。

ようやく解放された旭は、せき込みながらその初老の男を見上げる。

「な、何でこんなとこ居るんスか、番場さん」

「あ? そりゃこっちのセリフだ。お前こそ、こんなとこでガキ相手に何遊んでんだ、ガキが」

旭のことをガキ呼ばわりする、この男の名は番場浩一ばんば こういち

マチダ運送の大御所ドライバーで、旭も頭が上がらない大先輩である。

「長谷川たちと飲んでたらよ、な~んか喧嘩だってんで、面白ぇと思って見に来たんだよ。そしたらなんか知った顔がガキにボコされてるじゃねえか。おう旭、こんなガキども相手にヘタレてんじゃねえぞ。情けねえな」

「す、すんません」

謝るが、いまこの爺さんはおかしな事を言った。

番場は先日、地元住民とのトラブルを起こして謹慎になったばかりの筈である。それがこんな飲み屋街で飲み歩いているとは、どういうことなのか。

しかし助かったのも事実だった。

見ると神部も、見知った職場の仲間に救出されている。長谷川という名前の、会社の後輩だ。数えてみると五人もの同僚が助けに来てくれていた。

それでも人数的には相手の方が上だったはずだが、突然の新手に驚いたのか、冴木や鈴華を放り出して逃げ出して行く。

まさに危機一髪であった。

「冴木の姐さんじゃないッスか。大丈夫ッスか」

「誰が姐さんよ。……まあ、助かったけど」

冴木が鈴華を庇い、同僚たちとともに集まってくる。

皆が一堂に会したところで、番場が尊大に腕を組んで言った。

「で? 冴木まで一緒とは、こいつぁ一体何事だ。説明しろや、旭」

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