7.
四十歳も過ぎた大人の男二人が、まるで中学生のように殴り合っていた。
「ほらどうした、もう終わりか!? あんたの根性はその程度か!」
「うがあ! ゼッ、ゼエッ、ふがあっ!」
「おらもう一発だ! 来いよ、殴り返してみろ!」
「ああああああああああああーーーーーっ!」
始めは呆れた顔でいた冴木や神部も、いつしか黙って見守っていた。
いまや大人の立ち居振る舞いも何もかなぐり捨てて、必死の形相で拳を振るう父親と、その父親に激しい言葉をぶつける旭。
どんなに不格好でも、当人たちが本気でやっている姿は、それだけで見る者を黙らせる力を持つ。
その熱量に当てられ、何も言えなくなってしまう。
「おらっ……よ!」
旭が父親の胸倉を掴み上げ、足をかけて床に叩き伏せる。
父親は怒声を上げてすぐに起き上がり、逆に旭の胸倉を掴んで思いきり殴りつける。
「そうだ、掴み返せ! 殴り返せ! やられたらやり返すんだよ! お行儀よくしてんじゃねえ、あんたは弱者か? あんたは強者のエサか!? 違うだろっ!」
「があっ、ガアアアアアアアアアアアアアーーーーーーッ!」
大人だから喧嘩はいけない。暴力はいけない。なぜなら暴力は人を不幸にするから。
そんな常識などくそくらえだった。
いや、そもそも彼らがやっている事は本当に『暴力』なのか。もしこれが暴力なら、なぜこんなにも目が離せない。なぜあの二人は、うっすらと笑っている。これで不幸になっている人間が、一体どこにいると言うのか。
父親が両手で滅茶苦茶にパンチを繰り出す。四十代後半の体力はあっという間に尽き果て、もう何の威力もない駄々っ子のような情けないパンチだ。
「フンッ」
旭は無造作に両手で父親の胸をドンと押す。
そして無様にひっくり返った父親に向かって声を張り上げた。
「何だそのパンチは、ナメてんのか! 男なら気合入れろ、殺す気で来い!」
這いつくばる父親に、熱い叱咤を浴びせかける。
「腰をドンと据えて、力を溜めろ! 固くゲンコツ握って、全力で打ち込め! 俺の首ブッ飛ばしてみろやあっ!!」
父親は立ち上がる。
荒い息を必死に整え、ギリギリと拳を強く握りしめて力を溜める。そして燃える瞳で旭を睨み上げ、雄叫びを上げてその拳を振りかぶった。
「ガアッ!」
よける事は、簡単にできた。
しかし旭はその拳をまともに顔面で受ける。強烈な音が響き渡った。
「ぐ、おっ……」
旭はその場に崩れ落ちて膝をつく。
喧嘩の決着は、最後にどちらがどちらを見下ろしているかで決まるという。この殴り合いが始まって初めて、父親は旭を見下ろしていた。
「へ、へへ……やりゃあ、できんじゃねえか」
旭のその言葉で力が抜けたように、父親もその場に尻餅をついた。
そのまましばらく二人とも動かず荒い息を吐く。
やがて旭はその場にあぐらをかき、父親に呼びかけた。
「どうッスか社長さん、今の気分は」
「痛いです。痛いんですが……」
父親は汗まみれの顔を上げる。そこには戸惑うような表情が浮かんでいた。
「爽快です。こんなに心がスッキリしたのは、一体いつ以来か……」
「でしょう?」
自然と笑みが漏れる。
「最後の一発はマジで良かったですよ。正直、あんたのパンチじゃ絶対倒れねえって自信があったのに、このザマですよ」
「旭さんが打たせてくれたおかげですよ。私はずっと全力だったというのに、手加減してくれていたでしょう。けっきょく最後まで旭さんの本気を引きずり出せなかったのが、本当に悔しいですよ」
緊張が緩んだのを見て神部たちも近づいてくる。
「すんません社長さん、このバカがこんなワケ分かんねえことに巻き込んじまって」
「本当にお詫びの言葉もありません。あの、治療費はもちろんこちらで」
申し訳なさそうに言う二人に、父親は快活に笑う。
「いえいえ! 滅相もありません。本当に貴重なお土産を頂きまして、こちらの方こそ感謝に堪えません」
そして自分の手に目を落とし、しみじみと感触を確かめるように拳を握りしめる。
「なるほど、私は確かに力を失っていました。自分ではずっと戦っているつもりでしたが、知らないうちに疲弊してしまっていたんですね。旭さんの言っていた事が、ようやく分かった気がします」
顔は腫れ上がり、切れた唇から血を流しながら、その目にははっきりと生気が宿っている。
そんな父親に、鈴華が呼びかけた。
「お父さん」
「うん?」
「ちょっと、かっこ良かった、かも。薬買ってくるから待ってて。手当したげる」
雷に打たれたように、驚きに目を丸くする父親。
父親として最高の労いの言葉であった。
/
博田駅で入場券を買い、新幹線のホームで父親を見送った。
陽も落ち、透明の天井から見上げる空には月が浮かんでいる。東京へ着く頃には深夜になっていることだろう。
「娘のこと、何卒よろしくお願いします」
田村と共に新幹線に乗り込んだ父親は、何度もそう言って頭を下げた。
駅のホームはスーツ姿のサラリーマンが多い。頬に湿布を張り付けた父親は周囲から奇異な視線を向けられていたが、何ら気にした様子もない。
いくつになっても、ケンカの傷は男の勲章。ましてや愛娘に貼ってもらった湿布である。男として父親として、むしろ周囲に見せつけるように誇らしげですらあった。
「お父さん」
ドアが閉まる直前、鈴華が父親に呼びかけた。
「ありがとう」
父親は力強い笑顔でうなずく。
「旭さん達の言うこと、よく聞くんだぞ」
そしてドアが閉まり、新幹線は東京へ向けて走り去って行った。
「いい顔してたな、親父さん」
振っていた手を下ろし、神部が呟く。
「本当ですね。最初はくたびれたお爺さんにしか見えなかったのに、最後は子供みたいに元気になっちゃって」
「だから言ったろ? やっぱ男は拳を交えてナンボなんだよ。親父さんの中にも、男の熱い血が眠ってたってわけだ」
「なに威張ってるんですか。たまたまお父様がご理解のある方だったから良かったものの、普通に傷害罪ですからね。反省して下さい」
「へっ、言ってろよ。しょせん女に、男と男の熱い拳の語らいが分かるはずねえや!」
「四十過ぎたオジサンが何言ってるんだか」
得意満面の旭と不満顔の冴木。神部が苦笑しながら間に入る。
「まあまあ、とにかく親父さんが元気になったんだからいいじゃねえか。おかげで旭や俺らのことも、だいぶ信頼してもらえたみたいだしよ」
「喧嘩して友情が芽生えるなんて、漫画の中だけだと思ってましたよ。まさかリアルに男ってのがここまで単純だとは」
頭痛を抑えるように額に手を当てて首を振る冴木の様子に、皆で笑う。
「私も、おじさんのおかげだと思う。あんなに元気なお父さん久しぶりに見た。だから、ありがと」
「いいってことよ。……で、だ」
鈴華にうなずき、旭は振り返る。
少し離れたところに月城が立っていた。
「どうするよ。鈴華争奪杯、さっそく再開するか?」
「……するにしても、こんな駅のホームでするわけがないだろう」
「そうかよ。んじゃ俺らはもうホテルに引き上げっから。また明日な」
憎々しげな眼で睨みつけてくる月城の目の前を涼しい顔で通り過ぎ、旭は悠然と階段を降りて行った。
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