6.

父親は呆気に取られた顔をする。月城もだ。それはそうだろう。

神部と冴木は「またか」と頭痛を押さえるように、額に手をやった。

「挨拶だけで終わらせとけばいいのに……」

「何でこのバカは……マジで何でこう、このバカは……」

「うるせえ。俺ぁこれが必要だと思ったから言ってんだよ」

父親は何とか気を取り直したように愛想笑いを浮かべた。

「旭さん。いや、その……何と言うのか。なぜそんな話になるのか、私にはさっぱり分からないんですが」

「だから景気づけですよ。失礼ですけど社長さん、あんたケンカした事ないでしょ。下手すると子供の頃からずっと」

「それは。まあ武勇伝にできるような喧嘩は、したことがありませんが」

「先に謝っときます、ホントにすんません。けど社長さん、はっきり言って今のあんたからは覇気ってもんを感じません。あんたは疲れ切ってる。くたびれて、擦り切れて、状況に流されるままだ。あんな田村とかいうしょうもねえ部下にすら食われてる有様じゃないですか」

「おい旭、いくら何でも失礼だぞ」

神部が慌てて割って入るが、旭は構うことなく続ける。

「お前も正直に言ってみろよ神部。さっきの話し合い、社長さんとあの田村、どっちが里見工業所の主導権握ってるように見えた」

「そりゃ……。いやしかしよ、ふつう社長が自ら話し合いを仕切ったりしねえだろ。そういうのは部下に任せて、社長は最後に結論だけ言うのが普通だ」

神部は一瞬口ごもった後にそう言うが、苦しいフォローであることは明白だった。

父親は自嘲気味に笑う。

「そうですか……人の目からは、今の私は覇気がなく見えるのですね」

「ええ。でもそれじゃいけねえんですよ。父親のあんたが諦めちまったら、鈴華……お嬢さんはマジでどうしようもねえんだ」

旭は力説した。

「社長さん、悔しいが俺はこの件に関して何もできねえ。金もねえし頭も良くねえ。俺にできる事と言ったら、あんたにガッツを取り戻してもらう事くらいだ。俺ぁ、あんたには頑張ってもらいてえんです」

「………………」

父親は少し考え、そんな旭に向かって微笑む。

「お話は分かりました。娘のことばかりか私にまでお気遣い頂いて、ありがとうございます。しかし常識的に考えて、まさかここで本当にあなたを殴るわけには行かないでしょう。お気持ちだけ頂いておきます」

「常識が通用する相手ですか、ゴールドプレートは。こっちが常識的に対応しようとしても向こうはガンガン非常識な手で来られて、それで結果、今の状況になってるんじゃねえんですか」

「おい貴様、どさくさに紛れて聞き捨てならんことを言うな」

口を挟んでくる月城を無視して、旭は父親に迫る。

しかし父親は、やはり首を横に振った。

「痛い所を突かれましたね。しかし、それとこれとは別のお話です」

「ここまで言ってもまだ分かんねえですか」

旭は呆れたように息をついた。

「親子揃って、なんでそう頭良いくせして……。仕方ねえ、鈴華」

「うん」

そして後ろで成り行きを見守っていた鈴華を呼ぶ。

「親父さんもお前と同じだ。手本を見せてやれ」

「うん」

鈴華は素直にうなずいた。

拳を握りしめる彼女の身長に合わせ、旭は膝を屈める。

そして、ふと気が付いた。

―――― あ、やべ。

思った時には遅かった。

次の瞬間、鈴華は旭の鼻っ柱に強烈な一撃を見舞っていた。他ならぬ旭から教わった通りに、忠実に。

鼻を突き抜ける強烈な衝撃に、旭はのけぞり煩悶する。

「は、鼻……今は、鼻じゃなくていいんだって……」

涙目を必死にこらえ、鼻をつまんで左右に振る。かっこ悪すぎだ。

娘が何の躊躇もなく人を殴ったことに、父親は一瞬怒りも忘れて呆然としていた。

我に返り、慌てて言う。

「す、鈴華! 何をしているんだお前は!」

「お父さん、大丈夫。そんな難しく考えなくていいんだよ」

「難しくって、そんな、暴力など……! 謝りなさい!」

「おじさんが殴れって言ったんだよ?」

「そうですよ。俺が言ったんだ、謝ってもらわなくて結構」

二人の間に入り、旭は再び父親と向き合う。

「社長さん、いいから難しいこと考えずに殴ってみりゃあ良いんですよ。人を殴ったことがないんなら、なおのこと。ケンカってのがどういうモンか、戦うってのがどういうことなのか、俺はあんたにそいつを知ってもらいてえんです」

「し、しかし」

旭は「おら」と軽く父親の頬に拳を当てた。

殴るとも言えない、拳を当てて押しただけの動作だ。

「これで先に手ェ出したのは俺です。殴り返しても大丈夫、社長さんの正当防衛ですよ。みんな見たな? ここにいる全員が証人です」

父親は驚きに目を丸くしていた。

「どうして、そこまで」

「何度も言ってるじゃないですか。景気づけですよ」

笑う旭。

父親はようやく、おずおずと拳を握りしめた。

「で、では……正当防衛ということで」

「ええ。社長さんの正当防衛です」

ぺちん、と父親の拳が頬に当たる。

「マジすか。勘弁して下さいよ、ママゴトやってんじゃないんですから」

旭は苦笑し、少しだけ勢いをつけて父親の腹を殴る。

父親は驚いて殴られた箇所を押さえるが、全く力を入れていないのだから痛みはない筈だ。

「ほら、やり直しです」

父親はやられたのと同じように旭の腹を殴る。しかしまだ弱い。

「娘さんが見てんですよ。カッコ良いとこ見せて下さいよ」

頬を殴る。軽く。

父親が殴り返す。少しだけ強くなった。

「全然です。そんなんでゴールドプレートと張り合おうってんですか? 笑わせる」

反対側の頬を殴る。少しは痛いだろう。

父親の形相が変わってきた。「くっ!」と息を漏らして拳を繰り出す。だいぶマシになったが、まだだ。

「ぬるいぜ。あんたの怒りはそんなもんか? んなことだから、田村なんていう雑魚にまでナメられるんすよ!」

声だけは荒く、半分ほどの力でボディーブロー。それでもケンカをしたことがない父親には衝撃だったか、腹を押さえて後ろへよろける。

「さあ、そろそろ温まってきたんじゃねえですか? 男同士、大の大人のケンカだ。ママゴトはそろそろ終わりにしましょうや!」

「ぐっ……ううっ……くああ!」

父親は堪え切れなくなったように声を上げ、生まれて初めて本気で拳を振るった。

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