14.
真面目な若者だった。
実に一生懸命に働く若者だった。
頑張ればいつか認められる、自分の努力はいつか報われると無邪気に信じている若者だった。
だからこそ哀れだった。神部は非正規がどういうものか教えたり、少しでも楽に仕事ができるためのコツを教えたりした。近い将来、現実を知った彼が少しでもショックを受けないように。こんな地獄のような職場にいつまでも居て、人生を棒に振ることがないように。
しかしそれは、彼には逆効果であった。
良くも悪くも真面目であった彼からすると、神部は「正社員のくせに手を抜くことばかり考えているダメ社員、ネガティブ思考のつまらない人間」と映ったのだ。
思いは伝わらず、神部はその若者に嫌われてしまった。
ある日のことだった。
神部のよく知る、同じ三十代の非正規社員が、高熱を出しているにも関わらず出社してきた。
まっすぐ歩くことすら出来ずフラフラしているのに、無理にでも働こうとするのだ.
聞けば嫁が産後に体調を崩して、入院したのだという。生まれたばかりの子供もいる、金が要るのだと。
非正規には有給休暇など無い。欠勤は即減収につながる。やむにやまれぬ状況だったのである。
神部は彼に言った。「俺がタイムカード押してやるから帰れ」と。
非正規従業員を管理する立場である正社員としては、許されざる背信行為だと分かっていた。しかしやった。彼の日頃の激務と、その報われなさを間近で見て知っていたから。誠実に一生懸命働く労働者から搾取するばかりで、なにひとつ報いようとしない会社が許せなかったから。
彼を帰らせた後でタイムカードを押し、就業時間にも押して、彼が普段通り働いたことにしてやった。
しかしその行為は、翌日には会社にリークされていた。
会社に漏らしたのは、例の真面目な若者だった。
「どんな事情があろうと不正はいけない。働かざるもの食うべからずだ。ましてや正社員が不正を手助けするなんて絶対に許されない」
若者はそう言った。
まっすぐな目をしていた。
自分は正しいことをしたと、信じて疑わない目をしていた。
/
神部は溜め息をついた。
「まさか、非正規の人間から告発されるとは思わなかったよ。守ろうとしていた人間に、背中から刺されるなんてなぁ。それで、今まで耐えに耐えてたもんが、ボッキリ逝っちまった」
旭は怒りも露わに言う。
「そいつバカなのか? せっかく非正規に味方してくれる正社員がいたのに、その味方に噛みつくなんて」
「マジメなんだよ。純粋まっすぐ君なんだ。ありゃ小学生の頃、せっかく先生の採点ミスで良い点取ったのに、わざわざ自己申告して点数下げて、それで先生から正直者だって誉められてたクチだな」
乾いた笑い声を上げ、続ける。
「ともかくだ。なんかもう、それで何もかもが心の底からどうでもよくなっちまった。心が折れるってどういうことなのか、初めて分かったよ。『折れる』なんて言い方するけど、実際には折れる折れないじゃなくて、どうでもよくなるんだ」
「神部……」
「こうして、非正規の地獄を変えてやるなんてイキっていた若かりし頃の神部克巳は、けっきょく何もできずに無様に負けて、会社からオサラバしましたとさ。めでたしめでたし」
想像だにしなかった壮絶な話であった。
いつも無気力で日々をやり過ごすだけのような暮らしをしている神部。
この男が、かつて心を燃やし、社会の悪と戦ったことがあったとは。
「そんな風に言うなよ。お前は間違ってねえ」
「間違えたから負けたんだよ。傍から見れば『逃げた』って見えるんだろうな。けどよ、俺からすると別に逃げたつもりはねえんだ。単に疲れたし、興味もなくなったから捨てただけ」
つまらなさそうに言う。
本人の言う通り、読み飽きたから捨てた漫画本の話でもしているかのようだった。
旭のよく知る、いつもの神部だった。
「俺はお前が負けたとも、逃げたとも思ってねえ!」
「そうかい、そりゃありがとよ」
それっきり、しばし会話が途切れた。
何だか居心地の悪さを感じ、旭は思い付きで無理やり話を続ける。
「その若造、その後どうなったんだろうな」
「知らねえ。たぶん使い潰されて終わりだろ。今ごろ非正規ループにどハマりしてるんじゃないのか」
「何だよ非正規ループって」
「いちど非正規になった人間は、永遠に非正規の仕事しかできなくなる現象だ」
「なんでそんなことになるんだよ。次こそ正社員目指してがんばれば」
「じゃあお前が社長だったとして、下っ端の仕事しかしたことがない三十過ぎのオッサンと、まっさらで仕込み甲斐のある新卒の二十二歳、どっちを採用するよ」
「あ……」
「そういうことだ。そんなオッサンを雇うのは、やっぱり使い潰す気満々の非正規の仕事しか無え。いちど落ちたらもう二度と浮上できない、これが非正規ループ。つくづく救われねえ話だよな」
神部は皮相な笑みを浮かべながら寝返りを打ち、向こうを向いてしまう。
その背中に向けて、旭は口を開きかけては閉じる動作を繰り返していた。
神部に何か言ってやりたい。しかし何と言えばいいのか分からない。叱咤激励は違う気がする。しかし慰めるのはもっと違う。励まし? それこそ大間違いだ。じゃあ何を言えば?
「クソッ、だいたい何で非正規なんてもんがあるんだよ! こんなんおかしいだろ、警察とかで取り締まれねえのかよ!?」
旭はやけっぱちで叫ぶが、
「取り締まれるわけねえだろ。非正規雇用は国が正式に定めた、国策なんだから」
これも神部にあっさりと否定された。
「国策だと? みんなが不幸になる国策なんて、あってたまるかよ!」
「いや、それがあるんだって。もともと日本の法律ではな、そう簡単に会社が従業員の首を切れないようになってたんだ。でも会社側からすれば、簡単に従業員の首が切れないんじゃ困るんだよ。経営上、一番のコストは人件費なんだからな。労働力は欲しい、だけど人件費はなるべく安くしたい、そして要らなくなったら気軽に捨てられるようにしたい。そんな経営者たちの我が儘を叶える夢の制度、それが非正規雇用だったんだ」
「何だよそれ。俺たちゃ安くて便利な駒ってわけか!?」
旭は憤慨するが、神部は冷めた様子であっさりとうなずいた。
「その通り、俺たちは安くて便利な駒にされたんだよ。今から二十年くらい前に、労働法が変えられた。悪名高き労働者派遣法の改正だ。正社員が法律でガチガチに守られててダメなら、非正規の派遣社員ってのを新しく作っちまえ、ってな。これによって正社員採用を絞りに絞って、非正規の求人を大量に増やす。多くの新卒の若者をそこへ追いやって、経営者にとって都合のいい『安くて使い捨て可能な労働力』を大量生産した時代。それが俺たち就職氷河期世代だったってわけだ」
「そんなこと許されんのか? 警察がダメなら裁判所とか、どっかで何かできなかったのかよ?」
「いやだから、国が法律を変えてそういう仕組みを作ったんだって言ってるだろ。合法なんだよ。たぶん当時の会社経営のお偉いさんが、政治家に金握らせて法律を変えさせたんだろ」
とんでもない話だった。
これは犯罪ではないのか。うまく言えないが、人権侵害とか何とか、そういう話にならないのか。非正規という大きな網を張り、多くの若者をそこへしか行けないように追い込む。まるで魚の追い込み漁だ。国が自国の若者に対して、そんなえげつない手段を使うとは。
「雇用が期限付きってのは怖ぇことだ。お前、来年には無職になるかも知れねえって状況で、家を買ったり結婚したりしようって思うか?」
「思うわけねえ。女の方だって、そんな男と結婚しようとは思わねえだろ」
「そうだ。ずっと仕事があって、来年も再来年も毎月一定の収入があるって状況になって初めて、人は未来を考えることが出来るんだ。だけど非正規じゃそれが叶わねえ。よくバカな老人が俺たちロスジェネ世代のことを、いつまでも結婚せず子供の出生率がメチャクチャ下がった、日本の少子化に拍車をかけたって叩いたりするんだけどな。そりゃ当然なんだよ、だって結婚なんか出来る状態じゃなかったんだから。その原因を作ったのはお前らだろ、お前らが正社員の採用を絞って非正規を増やしたせいだろってんだよ」
神部の口から淀みなくスラスラ出てくる言葉に、旭は舌を巻いた。
普段はほとんど意識することが無いが、こういう時に実感する。この男は本来、自分とは全く違う世界に生きるはずだった高学歴の人間なのだと。
「……疲れたな、しゃべり過ぎた」
つい長く語ってしまったことを恥じるように、神部はぶっきらぼうに言う。
「んで最初の話に戻るが、あの月城って野郎な。あいつ俺がやめる直前の、限界ギリギリまで張りつめてた頃にソックリだと思ったんだよ。そういう話」
本題だったはずの話をあっさりと切り上げ、神部は今度こそ沈黙してしまった。
そして旭も、今度こそかける言葉を失くしてしまった。
重苦しい沈黙が立ち込める。
どこまでも救われない、ロスジェネ世代の人生。
まさか自分の人生が、こんなにも惨たらしいものだったとは。
「くっ……あークソッ!」
そしてこういう時の対処法を、旭は1つしか知らなかった。
「な、何だよ、いきなりデケぇ声出しやがって」
驚いている神部を無視してベッドから起き上がり、部屋に備え付けの冷蔵庫を開ける。
中には缶ビールやら酎ハイやらが数本。よく冷えてすぐ飲めるが、ホテル価格で高くつく奴だ。
しかし旭は迷うことなくビールを2本取り、そのうち1本を神部に突き出した。
「飲むぞ神部! 飲まなきゃやってられねえ!」
「おいそれ高ぇぞ。お前の奢りなら飲むけどよ」
「ああ奢ってやる! いいから飲めチクショウ!」
「マジかよ。なら貰うが……なにキレてんだよお前」
「俺だってよく分かんねえよ、ただなんかムシャクシャすんだよ! ほらさっさと開けろ、乾杯だ!」
呆れる神部を相手に強引に乾杯し、旭は一気に缶を傾ける。
ビールの冷たさと苦味が、喉に沁みた。
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