13.

「だあーっ、死んだ!」

旭と神部はそれぞれのベッドに仰向けに倒れ込んだ。

ホテルにチェックインし、大浴場でひとっ風呂浴びて部屋に戻ってきたところだ。

ふかふかのベッドの感触が心地よい。

シンプルだが清潔感のある、落ち着いた内装の部屋。ふだん生活している小汚いアパートとは大違いだ。

「このホテル、ガキの頃から知ってるけどよ。まさかここに泊まる日が来るなんて思わなかったなぁ」

「まったくだ。自分ちがあんのにわざわざ地元のホテルに泊まるなんざ、ホントどうかしてるぜ。ああ~、俺の老後資金が溶けていく。気持ちいいぜ~」

「しみったれたこと言ってんじゃねえよ。これが非日常ってやつだ、素直に楽しんどけって」

やけっぱちな神部の言葉に笑いながら、旭は天井を眺める。

改めて考えると、今日は本当に色々あった。十年分くらいのイベントが今日一日でまとめて起こったかのようだ。

一日ってこんなにいろいろ詰め込めたんだな、と妙な感慨すら抱いてしまう。

「なあ神部。さっき月城に言ってたこと、ありゃどういう意味だったんだ?」

「ん? 俺、何か言ったっけな」

「月城ががけっぷちだとか、月城のこと他人事に思えないとか」

「ああ。そういや言ったな」

スマホをいじろうとしていたのをやめ、神部は旭と同じく天井を仰いだ。

「言葉通りの意味だよ。そういう匂いがするんだ」

「何だよ匂いって」

「説明すんのは難しいが……。自分と同じような境遇にある奴って、何となく分からねえか? あ、こいつ俺と同じだって直感的に分かるって言うかよ。何となく距離が近く感じちまうこと」

旭は少し考えるが、いまひとつピンと来なかった。

「よく分かんねえけど、そういうこともあるかもな」

「涼しい顔してやがるが、たぶんあいつ相当追い詰められてんだよ。あのスカしたツラは、内心の焦りを表に出すまいと、必死にポーカーフェイスを取り繕ってるツラだ。俺ぁ一目見て分かったぜ」

こう見えて神部は高学歴である。

それも、誰もが名前を知っているような一流クラスの国立大卒だ。

某一流メーカーに就職して順風満帆な人生を歩むはずが、三十代の半ばに自己都合で退社。その後、職を転々として、現在はマチダ運送のトラック運転手……と、それくらいの事は分かっている。

「そういやお前、前はデケェ会社に勤めてたんだろ? なんでやめちまったんだよ」

「何だよいきなり」

「いや、そういえばちゃんと聞いたことなかったなと思って」

「そうだっけ? ……そういやそうか。別に、改まって話す事でもなかったしな」

そう言ったきり、神部はしばし沈黙する。

「なあ、何でだよ」

「急かすなよ、いま話をまとめてるとこなんだから。そうだな……。一言で言やあ、このロスジェネに生まれついて、真面目に働いてんのがほとほとバカらしくなったからだ」

「? どういうことだよ」

「上の世代からは搾取され、下の世代からは理解されねえ。こんなに報われねえ世代に生まれついて、真面目に一生懸命努力することがどれだけバカらしい事なのか、骨の髄まで思い知らされたってこった」

「何言ってんだか分かんねえが、腐るなよ。正社員だったんだろ? ずいぶんマシな方だったんじゃねえのか、もったいねえぜ。ほら、俺らの世代と言やあ派遣とか言ってよ」

「そう、派遣。まさしくその非正規問題だよ。正社員の立場だったからこそ、俺はその問題がいかにクソで救いようが無えのか、よーく分かったんだ」

戸惑い、沈黙する旭。

神部は深い溜め息をついて言った。

「もう始めから話した方が早そうだな。確かに俺はあの就職氷河期に、正社員で就職できた。運が良かったよ、マジでな」

「謙遜するじゃねえか。国立大まで出た奴が」

「謙遜じゃなくて事実だ。実際、俺なんかより優秀な同期は山のようにいたのに、そいつらは非正規の就職になっちまったんだ。あの頃は、就職なんて運でしかなかった。俺は本当に、ただ運が良かっただけなんだよ」

「そ、そうなのか? 国立大出ててもダメだったのかよ」

「就職してすぐ、俺は地方の大きな工場に配属になった。そしてそこで、俺はこの世の地獄を見たんだ」

神部は天井を見つめたまま、ゆっくりと話し始めた。



その工場は、日々の生産数の管理や原材料の仕入れ、本社との連絡といった基幹業務を少数の正社員が担当し、実際の生産やその他の大部分の実作業を多くの契約社員が請け負っていた。

入社間もない若かりし頃の神部は、まずその契約社員たちの労働環境に度肝を抜かれた。とても現代日本とは思えない凄惨な有様だったのである。

朝七時に出勤して、仕事が終わるのは夜中の一時。一日の拘束時間は何と十八時間にも及ぶ。

建前上は週休二日制になっているが、実際には隔週。しかもその貴重な休みでさえ、当日の朝に上司から電話一本で「ちょっと手伝って」と呼び出されて潰されるのが常であり、月の休みは実質二日程度。

タイムカードはある。

あるが、意味がない。

なぜなら夕方六時で業務終了を打刻して、その後も何事もなかったかのように作業が続行されるからだ。しかもタイムカードを切っているので、残業代は一円も出ない。

夜中の一時に仕事が終わって工場を後にする。帰宅してシャワーを浴びたらもう二時を過ぎている。三時間ほど眠って六時には起床、七時には工場に到着していなければならない。

休憩時間は昼休みに一時間と、夕方に三十分。夕食はパンをかじるくらいしか出来ず、深夜に空腹になったら、何とか上司の目を盗んで自腹のカロリーメイトをねじ込むか、帰宅するまで我慢するしかない。

保険もない。退職金もない。そして月給は固定給の15万円のみ―――― こんな、嘘のような労働環境が、平然とまかり通っていたのである。

「はっきり言って、コンビニでバイトした方が遥かにマシって状況だったんだ。入社したての世間知らずの若造でも、さすがにこれはおかしいと思ったよ」

淡々と語られる話に、旭は信じられない思いで首を横に振った。

「ひでえな。俺が鉱山で働いてた時もたいがいクソだったが、もうマンガの世界じゃねえか。ギャンブルで借金作って地下労働行き、みてえなさ」

「ところがどっこい。日本の、普通にそこらへんに建ってる工場の話なんだなあ、これが」

「なんでその非正規の人達はやめなかったんだ? バイトの方がマシってのは分かってたろうに」

「だから実際、やめてバイトに流れて行った人も大勢いたよ。それでも残った人たちは居た。そうした人たちはな、求人票に載ってた『正社員登用あり』の一文に望みを託してたんだ」

旭は手を叩いた。

「おお、それだ! 今は非正規だけど、真面目に勤めてりゃ正社員になれますって奴だな!」

「正確には、真面目に勤めていくつかの条件をクリアしたら正社員になれるチャンスがあるって意味だ」

正社員になれれば保険料の半分を会社に負担してもらえる。厚生年金がつく。退職金だって貰える。毎月の給料も少しは上がって貯金もできるようになるし、何より派遣切りや雇止めに怯えなくてよくなる。

人生が安定するのだ。

そうすれば結婚だって出来る。あたりまえの家庭が築ける。ようやく前を向いて人生の幸福を追いかけることができるようになる。

「だから非正規の人達は、あんな人権無視したクソみてえな労働環境にジッと耐えてたんだ」

そこまで言って、しかし神部は小さく溜め息をついた。

「けどな、俺もずっと後になって知ったんだが、こいつは真っ赤な嘘だった」

「……え?」

「その正社員登用のための、いくつかの条件な。人事部の社内秘だってことで詳しくは明かされていなかったその条件ってのがよ、もう絶対に無理だろって内容だったんだ。一日が四十八時間くらいねえと無理、手が六本くらいねえと無理、テレポートやらテレパシーやら超能力でも使えなきゃ絶対無理、そんな内容だったんだ。会社は非正規の人達を正社員に登用する気なんざ、さらさら無かったってことだ。『正社員登用あり』の一文は、安くて便利な労働力を繋ぎとめておくためのニンジンでしかなかったんだ。あんな地獄みてえな労働環境に耐え抜いた挙句、けっきょく解雇されて泣き崩れる非正規の人を何人でも見てきたよ」

「マジかよ。ひでえ……」

「俺は運が良かっただけだ。自分で分かってた。真面目に一生懸命がんばっている人達が、こんな理不尽な目に遭うのはおかしい。この地獄を変えることこそ俺の使命だって、若かりし頃の俺は燃え上がっちまってなぁ。だから、頑張っちまった。頑張って頑張って頑張って……そして、負けた」

いつも通りの淡々とした口調の奥底に、隠しきれない無念がにじみ出ているのを、旭はハッキリと感じた。

「巨大組織を相手に、俺一人がいくら頑張ったところでどうにもできなくてなぁ。あと、トドメにちょっとショックなこともあったしな」

「ショックなこと?」

「俺が三十六くらいの時だったかな。派遣で二十過ぎの若ぇ奴が来たんだ」

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