10.

「ケンカの仕方、教えて」


妄想は一瞬にして霧散する。

本当に不覚だった。

何だよ今の。妄想にしてもひどすぎる。だいたい高嶺の花って呼ばれるような女子と、どうやったらたまたま二人きりで海に遊びに行くことになるんだよ。意味が分からねえ。ないわ。マジでこれはない。

猛烈な自己嫌悪に襲われ、旭は両手で頬を張って気合を入れた。

「どうしたの?」

「いや何でもねえ。断じて何でもねえぞ。えーと、ケンカだっけ? 何でだよ」

「自分の身くらい自分で守れるようになりたいから」

大真面目な顔して言う鈴華に、旭は笑った。

「お前のそういうとこ、ホント良いと思うぜ。いいぜ、じゃあ殴ってみろ」

鈴華はキョトンとする。

「……殴るって、何を?」

「俺を」

「どうして」

「ケンカの仕方、習いたいんだろ? とりあえず殴んなきゃ始まらねえじゃねえか」

自分から言い出したくせに鈴華は戸惑う。

「いや、もうちょっとこう、まず何をどうすればいいのか教えてもらわないと」

「ゲンコツで俺を殴れ。これ以上、何を言えってんだ」

「だからそうじゃなくって。殴り方とかタイミングとか、もうちょっと詳しく」

戸惑いまくっている様子に、旭は苦笑を浮かべた。

「それだよ。まずお前は、それを直さなくちゃいけねえ」

「それって?」

「ケンカ以前に、まず人を殴る殴らねえでゴチャゴチャ考えちまうところだ。ケンカができねえ奴ってのは大抵、頭で考えすぎなんだよ。ケンカは先手必勝だ、先手を取られたら実際の強さ以前に、気合で呑まれる。下手すりゃそのまま一方的にやられちまう」

自分の顎を拳で小突きながら、旭は説明する。

「そうすると自分はケンカが弱いんだって自信を失くしちまって、次にケンカする時はますます委縮しちまう。悪循環なんだよ。殴り方もクソもあるか、いいからまず手を出せ。まず殴れ。話はそれからだ」

「だって、先に手を出したら負けって言うか、後で不利になるとか色々……」

鈴華は何かを言いかけたが、すぐに口を閉じて黙り込んだ。

まさにこれが旭の言う「考えすぎ」だと気付いたのだろう。呑み込みのいい奴だ。

躊躇いがちながらも、その小さな手で拳を握りしめた。

「じゃあ……行くよ」

「おう」

えいっ、と声を上げて繰り出された拳を、旭は瞬きすらせずに頬で受け止める。

殴った鈴華の方が狼狽えた顔をした。

「い、痛くない?」

「止めるんじゃねえよ。自分のパンチが一発で相手をブッ倒せるほど強ぇとは、まさか自分でも思ってないだろう。もう一度言うぞ、ケンカは先手必勝だ。一発で倒せねえなら二発、二発でダメなら三発、三発でもダメなら四発、五発、相手が倒れるまで打つんだよ。いちど仕掛けたら、相手がブッ倒れるまでやれ」

「えぇ……」

泣きそうな顔をしながら、鈴華は両手でパンチを繰り出し始めた。旭はポケットに手を入れたまま、顔面で受け止め続ける。

痛くないのかと言われれば、実は痛かった。いくら女の子で力が弱いとは言え、人に殴られて痛くないわけがない。

でも我慢して、必死でポーカーフェイスを保ち続けた。

痛がるわけには行かない。

男として、大人としての意地だ。ましてや自分はこの娘のボディガードなのだから。鈴華がズブの素人で、手打ちのパンチばかりなのが実は有難かった。

「オッケー、もういい」

肩で息をしている鈴華を制止し、一旦やめさせる。ポーカーフェイスの限界が近づいてきたからでは断じてない。

「本当に一から教えなきゃダメみてえだな。拳の握り方からしてなっちゃいねえ」

「だ、だから……私、最初に、そう言った……」

息も絶え絶えな抗議は無視して、目の前で拳の握り方を実演して見せる。

「いいか? まずこの四本指の指先を、それぞれの根本にくっつける。そのままグッと握り込む。この握り込みが解けねえように親指で押さえるんだ。やってみろ」

「こう?」

「力を入れるのは親指と小指。特に小指は意識しねえとすぐに力が抜けるからな。どうだ? 固い拳が握れてる感じがするだろ」

「ホントだ。すごい、全然違う」

「そんで拳を当てる場所はここだ。人差し指と中指の拳骨、この二カ所だけ。他の部位を当てちまうと、逆にこっちが手を痛める恐れがあるからな。気を付けろ」

「そうだったの? なんかこう、この拳のとこ全部当てるんだと思ってた」

何度か拳の握りを練習し、パンチの素振りをさせてみる。

「小指に力入れるの忘れてねえか? 意識しろよ」

「ん!」

「手首が曲がってるぜ。一直線にしねえと自分が手首を痛めるぞ」

「んっ!」

さすがに自分から言い出しただけあって、鈴華は実に熱心だった。

拳の握りが様になってきたところで、旭は内心で「よし」と腹を括る。

仕上げだった。

「鈴華。いざとなったら自分の身は自分で守りてえから、ケンカを習いてえって言ったよな」

「うん」

「はっきり言うけどよ。殴り合って相手を倒すのは、お前にゃ無理だと思う。相手に一撃食らわせて、怯んだ隙に逃げる。そっちの方がお前の護身術としては現実的だ」

「え、だってさっきは何発でも打てって……」

不満を言いかけながらも、納得したのか途中でやめてうなずく。

こういう分別がつけられるところは、本当に賢い奴だと思う。

「もう一度殴ってみろ。俺の鼻っ柱を狙え。ここだ」

自分の鼻先を指差し、旭は腰を落として両拳を握りしめた。

先ほどと違い、もうポケットには手を入れない。なぜなら次に来る一撃は、気合を入れないと本当に痛いと分かっているからだ。

鈴華はうなずき、拳を握りしめた。

「えいっ!」

鼻に強烈な衝撃が来た。

旭はのけぞり、二、三歩後ろに後退する。鼻を押さえると鼻血が出ていた。

「だ、大丈夫!?」

血が出たのを見て、殴った本人が慌てて駆け寄ってくる。

旭は痛みを必死でこらえながら言った。

「どうだ? お前のパンチでも鼻っ柱に当てりゃあ、大人の男だってこうなるんだ」

「おじさん、血が……そんな、泣くほど痛かった? ごめん」

謝られて一瞬カチンときた。

確かに旭の目には涙が浮かんでいる。鈴華が純粋に心配しているのも、言葉に悪気がないのも分かっている。しかし年端も行かない少女から労わられ謝罪されるなど、男としてのプライドが許さなかった。

涙が滲む目を無理やり見開き、力を込めて言う。

「あとひとつ、大事なことを言っとくぜ。俺の顔をよく見ろ、こんな風に涙目になっててもな、それで相手が戦意喪失したとは絶対に思うな。そんな風に不用意に近づいちゃいけねえ」

「え、でも」

「これはただの生理現象だ。涙腺が刺激を受けて反応しただけなんだ。相手が泣いたから、これで相手は戦意喪失したなんて勘違いすると、えらい目に遭うぞ。ぜんぜん逆だ、鼻を殴られたらどんな人間でも怒り狂うもんだ。だから逃げろ、一撃食らわせたら回れ右して全力で逃げろ。いいな?」

それは旭の子供時代の苦い経験でもあった。

まだケンカに慣れていなかった頃、相手が泣いたのを見て勝ったと思ってしまった。そして直後、逆上した相手にボコボコにされた。勝てるはずだったケンカに負け、周囲の笑い者になった屈辱の記憶。

人間に限らず、すべての生き物にとって鼻は弱点であり、そこを攻撃されると我を忘れるほど怒り狂う―――― そんなことも知らなかった頃の話だ。

旭の熱弁に、鈴華は気圧されたようにコクコクとうなずいた。

「以上だ。俺に教えられるのはこんなところだ」

役目を終え、旭はドッカリと座り込んだ。

傍らに缶コーヒーがあった。そういやさっき、ここに置いたんだっけ。

拾って、少しだけ中身の残っていたそれを飲み干す。

しばし無言でその様子を見守っていた鈴華が、隣に座ってきた。

「おじさんって、変わってる」

「何でだよ」

「ケンカ教えてって言って、本当に教えてくれた大人なんて、おじさんが初めて」

「つーか俺も、ケンカ教えろなんて言ってくる女に会ったのは初めてだけどな。薄々思っちゃいたが、さてはお前変な奴だろ」

鈴華はなぜか嬉しそうに笑った。

「よく言われる」

「何で喜んでんだよ」

つられて旭も笑ってしまう。

何だかよく分からない可笑しさがこみ上げて来て、二人で笑い合う。

「ようよう、さっきから何やってんだよお前ら。なんか殴り合ってんなーと思ってたら、今度は二人してニヤニヤしやがって。拳で語り合って友情でも芽生えたか?」

神部と冴木がやってきた。

「殴り合いって、俺は手ェ出してないだろ。殴ってたのはこいつだけだ」

「嬢ちゃんに殴らせて、それ何のプレイだ? お前そんな趣味あったのかよ」

「ちょっと旭さん、鈴華ちゃんを変な趣味に巻き込むのやめて下さい」

「ちげーっての! こいつがケンカ教えてほしいって言ってきたから、教えてただけだ」

近くまで来て旭の顔を覗き込み、神部はことさら驚いた顔をする。

「うわ、お前泣いてんの!? JKにボコられて泣くとかダサすぎんだろオイ!」

「違ッ、こりゃ生理現象だって! 鼻っ柱殴られたら誰でもこうなんだろ、てかわざと言ってるだろお前!」

「女子高生に自分を殴らせて、泣いて喜ぶとか……旭さん、ちょっと半径十メートル以内に近寄らないでもらえます?」

「だからプレイじゃねーっての! その発想から離れろよ!」

神部も冴木も笑っている。分かっていてからかっているのは明白だった。

「鈴華ちゃん、こっちに来なさい。変態がうつるわよ」

「もう旭はここに置いて、三人でメシに行くかぁ」

「あ、そういえば結局ご飯ってどうなるんでしたっけ」

「お前ら、体張ってがんばった俺に、その仕打ちはねえだろぉ!?」

夕暮れの二美ヶ浦海岸に、朗らかな声が響いていた。

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