9.
都市高速からバイパスを通って、西へ車を走らせた。
三丈町で、青い山脈を遠くに望み一面の田んぼの中を電車がまっすぐ突っ切って走る、長閑な田舎の風景を眺める。
そこから一気に北上して伊都島半島の先端へ。卦屋の大門で車を降り、「トトロの森」と愛称される木のトンネルを抜けて展望台へ上がる。巨大な奇岩と弦界灘の水平線、半島の美しい海岸線を一望できる景色を堪能した。
もともと時間が遅かったこともあり、たったこれだけ回っただけで、もう夕方となってしまった。
「二美ヶ浦で夕陽を見ないと。これがなきゃ伊都島に来た意味がありません」
冴木の謎の使命感に満ちた力強い言葉により、海岸線に伸びる志真サンセットロードを通って、本日最後の目的地である桜井二美ヶ浦にやってきた。
ネットの情報によると、三重県・伊勢の二見ヶ浦が朝日の絶景スポットとして有名なのに対し、こちらの二美ヶ浦は夕陽の絶景として有名である、らしい。
確かに素晴らしい光景だった。
今日はよく晴れていたこともあり、空も海も綺麗な茜色に染まっている。砂浜に白い鳥居が立ち、その奥には海から突き出した2つの岩に大注連縄が張られた夫婦岩が、夕陽に照らされて濃い陰影に染まっていた。
鈴華が砂浜にコンビニのビニール袋を敷いて、体育座りでその風景を眺めている。そしてそんな鈴華の背中を、少し離れた駐車場から旭と神部が眺めていた。
「夕陽の海岸で物思いに耽る少女か。絵になるねえ」
軽口半分に言う神部の隣で、旭は自販機で買った缶コーヒーを空ける。そしてタバコに火をつけ、空に向かって紫煙を吐き出した。
「東京民が弦界灘を見ながら考える事って、何なんだろうなぁ。想像つかねえや」
「たぶん俺らが東京湾見ながら考える事と同じだろ」
「東京湾を見ながら……そういや東京湾って、ヤクザが死体をドラム缶詰めにして沈めてるってよく聞くけど、本当なのか?」
「おまえ話の流れをよく考えろよ。今の流れだと、あそこに夕暮れの海を見ながらドラム缶詰めの死体のこと考えてる女子高生がいる事になっちまうだろ」
愚にもつかない事を話している所へ、冴木がやってくる。
「人間どこにいたって考える事はそう変わりませんよ。自分がいま気になっている事を考えるんです」
「よう、お疲れ。こっちに来ちまっていいのか?」
「あんまり構いすぎるのも良くないと思って。一人で考える時間も必要です。客観的に言って、あの子にとって私は今日会ったばかりの見知らぬ大人なんですから」
もっともだった。
旭の缶コーヒーを見て、冴木も自販機でコーヒーを買う。ブラックだ。
「今日はもうここまでみたいですね。あーんもう、たった三カ所しか回れなかったなんて。やっぱりスタートが遅かったのが痛かったなぁ」
「まだ晩飯があるだろ。締めのラーメンも。福岡と言やあラーメンじゃねえか」
「もちろんそうですけど。でも、もっと連れて行ってあげたい所あったのに」
伊都島のことは任せろと豪語していた身としては、まだまだ不完全燃焼らしい。
旭は笑って言った。
「上出来だろ。て言うか晩飯はまた市内に戻るんだろ? そっちも急がねえと、高校生をあんまり夜中まで連れ回すわけにも行かねえぞ」
「ですよねぇ。考えてみると高校生って不自由ですね、かわいそう」
神部もうなずき、思い出したように冴木に尋ねた。
「そういや今夜の宿はどうなってるんだ? ホテルの予約は取れたのか? 例のワケ分かんねえ連中がいるから、ちゃんとした所にしねえと」
「大丈夫、もうタワーに行く前にスマホで取っておきました。仁志鉄グランドホテルです」
「新幣町のとこか。いいんじゃねえか。そこそこデケえし、あの周辺は夜中でも人通りあるしな。いざとなりゃあ外に飛び出して、人混みに紛れりゃいい」
「そんなことは無いことを祈りますけどね」
そして冴木は、さも当然のように続けた。
「隣同士でツインの部屋が二つ取れたのはラッキーでしたよ。市内に帰る途中で、私たちも家から着替えを取って行きましょう」
神部の目が点になる。
「あん? 着替え? 私たち? 何のこった」
「神部さん達も泊まるんですよ。私と鈴華ちゃんの部屋の隣に」
「なんで」
「ボディーガードなんだから当然でしょ?」
恐らくそんな気はさらさら無かったのだろう。
神部は驚いた様子で口をパクパクさせた。
「お、お前、勝手にそんな」
「ホテル代だったら大丈夫ですよ、足りないなら私が立て替えておきます。返すのは来月の給料日で結構ですから。でも、いい大人がホテル代くらい、しっかり貯金しておいて下さいよね」
「そういう問題じゃ」
冴木は飄々としたものだ。
長くなりそうだな、こりゃ。
察した旭は手早くタバコを吸い切り、コーヒー片手に砂浜へ向けて歩き出した。
小さい背中に声をかけようとして、ふと気づく。鈴華は目の前の風景ではなくスマホを覗き込んでいた。おそらく着信画面なのだろう、そこには『お父さん』からの着信がズラリと並んでいた。
気配を感じたのか、こちらを向く。
目が合った。
言い逃れできない状況だった。
「悪ぃ、覗くつもりじゃなかったんだ。晩飯のリクエストはあるかって聞きたかっただけでよ、たまたま目に入っちまったんだ」
鈴華は静かに首を横に振る。
「別に、いい。見られて困るものじゃないし」
「親父さんからか。電話、出てやんねえのか」
「それを今考え中。でも出ない方がいいかなって。友達からの電話もラインも出てないし。足がついたら嫌だから」
「逃亡犯みてえなセリフだな」
旭は笑って彼女の隣に立ち、海を眺める。
「みんな心配してるだろうな。家族とか友達とか」
「家には一応、置手紙だけは置いて来てる。しばらく旅に出るけど必ず戻ります、心配しないでくださいって」
「だからって心配しねえ親なんていないだろ」
「帰ったら謝る」
常識ある大人なら、家出少女がこんなことを言うのなら、何としてでも連絡を入れさせるべきなのだろう。
この状況が、一歩間違えれば自分たちが誘拐犯に仕立て上げられてしまう危険な状況だということも分かっている。
しかし旭は、そんな気にはなれなかった。
「こんな子が、最後に望んだ小さなワガママですよ? こんな小さな願いも叶えてやれなくて、私たち何のために大人やってるんですか」
神部のアパートで冴木が言っていたセリフ。
旭にとっても心から正しいと思えた。世間様の常識なんざ知ったことか。
「で、もうちょっとゆっくりしたら市内に戻って晩飯なんだが。リクエストはあるか? 身内びいきするわけじゃねえが、福岡と言えば美味い飯だぜ。何でもござれだ」
「博多ラーメン。とんこつスープのやつ」
「こっちでラーメンと言やあ、普通とんこつだよ。そいつは今日の締めに決定済みだ。その前に晩飯をどうするかって話だよ。おどろき亭の焼肉はどうだ。とつ鍋の一口餃子もオススメだ。弦界灘で揚がった魚介の海鮮丼も美味いぞ。おっと、シンプルに明太子ごはんも忘れちゃいけねえな」
指折り数える旭に、鈴華は苦笑する。
「そんなに食べられない」
「なんだよ、高校生だろ? 遠慮すんなって。俺が高校の時なんざ、もうアホみてえに食ってたもんだ。一日五食とか」
「男の子ってそう。学校で休み時間のたびにパン食べてて、お昼には普通にお弁当食べてる男子とかいて、本当にびっくりする。でも女はそこまで食べられないから」
「それな。女ってホント食わねえよな。男からすりゃそっちの方がビックリだったぜ。別にあれ、ダイエットしてるわけでもねえんだよな?」
「それもあるけど。普通にそれだけの量がお腹に入らないだけ」
「同じ人間なのに、おかしなもんだよなぁ」
砂浜には様々な人がいて、思い思いにこの黄昏時を過ごしていた。
水辺で遊ぶ子供を見守る家族連れ。ツーリングに来たバイク集団。海を眺めながら道路を散歩する老夫婦。
そして旭と鈴華の目の前を、まだ二十代前半とおぼしき若いカップルが横切って行った。
波打ち際を何事か話しながら笑顔で通り過ぎて行く。女性の方はお腹が大きくなっていた。妊婦だ。カップルじゃなくて夫婦なのだろう。
まるで絵に描いたように幸せそうな二人だった。
鈴華はジッとその背中を見送っている。
自由恋愛を許されず大人の都合で結婚を強いられる彼女の目に、あの二人はどう映っているのだろう。
「お前よ、学校に好きな男子の一人でもいねえのか? 青春真っ盛りだろうに」
訊いてから、しまったと思った。これってセクハラになるんじゃねえのか。
しかし鈴華は特段気にした風もない様だった。こちらを振り返りもせずに首を横に振る。
「いない。いたこともない。私、男運ないみたいで」
旭は笑った。
「そうみたいだな。へへっ、悪ぃなあ。今このシチュエーションだって、俺があと二十歳くらい若くてイケメンだったら、いい雰囲気のひとときになったんだろうが」
「二十歳?」
鈴華が驚いたように顔を上げてこちらを見上げてきた。
「おじさんって、いくつ?」
「今年で四十三」
「うそ……三十歳くらいだと思ってた」
「おっ、嬉しいこと言ってくれるねえ。お世辞でも嬉しいぜ」
「本当にそう思っただけだけど。だってケンカとかしてたし」
「四十三歳がケンカしちゃいけねえ決まりなんかねえだろ」
厳密には年齢に関係なく私闘は法律で禁止されているのだが、とりあえずそれは置いておく。
「お父さんが今年で四十八歳なの。でも、すごい老けて見えるから。ケンカなんか全然できそうにないし。だから四十代ってもうおじいさんのイメージだった」
「親父さんはきっと特別に苦労したんだろう、あんま悪く言ってやるなよ。けどまあ、現役の女子高生からすりゃ三十代も四十代もオッサンに変わりないだろ」
自嘲気味に言うが、意外なことに鈴華は首を横に振った。
「そうでもない。学校には彼氏が三十歳のサラリーマンって子の噂、あったりする。ホントか嘘か分からないけど」
「マジか? それってあれか、パパ活ってやつか」
「違う、真面目なお付き合いで。だから三十歳くらいならセーフって雰囲気、ある」
「信じらんねえ……どうなってんだよ東京は。怖ぇ所だぜ」
旭は二の句が継げなくなり、水平線の彼方を眺めて溜め息をついた。
「………………」
何を思ったか、鈴華が不意に立ち上がった。
なぜか真剣な表情でこちらを見上げてくる。
夕陽に照らされたその顔に、旭は不覚にも一瞬目を奪われてしまった。
忘れていたが、鈴華は将来が嘱望される整った顔立ちをした美少女なのだ。
「おじさん」
「お、おう?」
一瞬、脳内を妄想が駆け巡る。
旭は十七歳の頃の学ラン姿で、鈴華は高嶺の花と評判のクラスメイトで、今日はたまたま学校帰りに二人で海へ遊びに来ていて―――― 。
「お願いがあるの」
「な、なんだよ」
ひとつ息を飲み込み、鈴華は意を決したように言った。
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