前夜
1.
夜の高速道路を一台のトラックが走っていた。
ボディには『速い! 安い! 実績と信頼のマチダ運送』とある。
大音量のハードロックが鳴り響く運転席で、一人の男がハンドルを握っていた。
いま走っているのは明神高速道路の下り線で、滋賀と京都の県境付近。なぜ福岡の地場運送会社のトラックがこんなところを走っているのかと言えば、これが毎年恒例のフリー便だからだ。
この時期、とある東京のデパートで九州の物産展が開催される。そのための商品を運ぶ仕事をマチダ運送は請け負っており、年に一度の貴重な固定収入源となっている。旭は商品を届け終え、代わりによく分からない名前のジュース類を積み込んで、福岡へ帰るところであった。
「さあて、今夜はどのへんで寝るかねぇ……」
ヘッドライトに照らされた道路を注視しながら、旭は車中泊するためのパーキングエリアについて考えていた。
今日は汗をかいたから、シャワーのあるパーキングに駐めたいところだ。
一人だし、奮発してモーテルに宿泊という手もあるが、やはり金は節約したい。明日ジュース類を届ければ業務終了で帰れるわけだし、やはり今夜は我慢して車中泊が妥当だろうな、うん。
「しかしまあ、自分が寝る場所を自分で自由に決めていいなんて、俺も出世したもんだぜ」
一人、ほくそ笑む。
マチダ運送に就職する前、旭は鉱山労働者だった。
平日は山奥の小さな山小屋で他の労働者たちと一緒に寝泊まりし、週末は会社のバスで街へ下りるという生活。その頃は自分の寝る場所というものは、先輩の都合で毎日変わるものだった。
畳敷きの居間に十人ほどが布団を敷くのだが、まず部屋の奥、テレビの近くは長老クラスの古株が陣取る。そこから先輩の序列順に布団が並び、手前の入口付近が若い衆の寝場所になる。しかし明確な区分けがあるわけではなく、長老が布団を敷いた場所が基準となるため、先輩たちがみんな布団を敷き終わらない限り自分の寝場所が確定しないのである。
先輩たちが部屋で酒盛りを始めた時などは最悪だ。お行儀よく二時間でお開き、となったことは一度もない。先輩たちがみんな酔いつぶれて寝てしまうまで、自分たちも寝られなかった。
入口付近で寝ていると、夜中にトイレに起きた長老に踏まれることが、とてもよくあった。だいたい一番トイレが近い年寄りが部屋の一番奥で寝るなんて不合理極まりないと思うのだが、どうしてあんな風習がずっと続いていたのか本当に謎だ。
そんな環境で暮らしてきた旭にとって、好きな所で車を停めて好きな時に寝て良いという今の状況は、夢のような話だった。まして車内には自分一人でプライベート完備。最高である。
スマホの画面が明るくなった。着信だ。
ステレオのボリュームを下げて手に取ってみると、ディスプレイには『町田社長』の表示。
嫌な予感がした。
「……もしもし」
『あ、旭くん? お疲れ様、町田だけど。いま大丈夫かなあ?』
「運転中ッスから良くはないんでしょうけど、まあ大丈夫ッス。どうかしましたか」
『いや、実は折入ってお願いしたいことがあってさあ。旭くん、明日とあさってはお休みだったよねえ?』
妙に腰の低い猫なで声に、嫌な予感は確信に変わる。
電話の主は町田謙信。旭が勤めるマチダ運送の社長である。ご大層な名前だが、本人は『名前負け』という言葉の見本のような、ただの気の弱いオッサンだ。
この社長がこんな声でお願い事をしてくるとなると、もう次の展開が読める。
「シフトの交代ッスか」
『さーっすが旭くん、話が早くて助かるよ。実は明日の勤務、
「番場さん、どうかしたんスか」
『まーた富さんとイザコザ。富さんトコの田んぼ道、また番場さん突っ切って行っちゃったらしくてさ。今日のお昼に富さん会社に乗り込んできて、もう手が付けられないくらいカンカンでさ。しょうがないから番場さんしばらく謹慎にして、ようやく帰ってもらったってわけ』
旭は思わず片手で顔を覆った。
「またッスか。爺さん同士で何やってんスかあの二人、前もあったやつじゃないッスか」
『まあそうなんだけど。でも今日はしょうがなかった節もあるんだよ。突発の配送で、番場さんしか居なくて、そんであの道使ってもギリギリって感じだったから』
「そんな飛び込み案件、断りゃ良かったじゃないッスか。なんでもホイホイ受けるから、こんなことになるんスよ」
『だって須藤センターさんからの、たっての頼みだよ? 断れるわけないよぉ。ともかくそういうわけで、番場さんしばらく出て来れないんだよ。あさって以降のシフトは何とかこっちで調整つけるけど、とりあえず明日、四ツ星飲料の仕事。これを何とかしてほしいんだ』
四ツ星飲料か。なるほど、だから俺ね。
番場というのはマチダ運送の中で一番古株のベテランドライバーで、現社長の父親の代から在籍している大御所である。
地場のあらゆるルートを知り尽くし、各拠点のお偉いさんとも大体顔なじみ。取引先と何かトラブルがあった時、番場さんが出れば大抵は何とかなるという、マチダ運送の守り神のような人だ。そのため現社長も彼には気を使いがちなのである。かくいう旭も新人の頃はずいぶんお世話になった恩人であるため、頭が上がらない面もある。
ただ、いかんせん我儘が過ぎるのが難点だった。特にここ数年、年を追うごとにひどくなってきている。加齢によるものか、周囲への配慮というものが以前にも増して感じられない。
新人時代、その番場にトラック運転手のイロハを叩き込まれたのが、四ツ星飲料のルート配送だった。旭にとっても「番場の次に詳しい」と豪語できる仕事。それでお鉢が回ってきたというわけだろう。
「俺、いま枇杷湖なんスけど」
『大丈夫! 明日のお昼からの便だから』
何が大丈夫なのか。
「他の奴らは何やってんスか。神部は」
『神部くんはお休み。こっちが無理言って、もう二週間も連チャンやってもらったから、さすがにもう頼めなくってさぁ』
「なら長谷川は。あいつも四ツ星やったことあるでしょ」
自分より十歳以上も若い、三十歳になったばかりの後輩の名前を挙げるが。
『長谷川くんは明日、子供の授業参観なんだ。先月から申請出して、本人もすっごく楽しみにしてるのに、それを潰すなんて酷じゃないか』
なにが授業参観だ。たかがそんなことで仕事を休むなんて。
喉元まで出かかった言葉を、旭は辛うじて飲み込んだ。
子供の授業参観というものが長谷川にとってどんなに楽しみな事なのか、親になったことがない旭には分からない。
独り身の一方的な価値観でその楽しみを取り上げるのは、先輩のパワハラというものだろう。
「……なら、しょうがないッスね」
『おお、やってくれるか旭くん!』
「そん代わり、賃金割り増しで頼みますよ」
『分かってるって。深夜換算でやらせてもらうよ。いやー良かった良かった、やっぱり旭くんは頼りになるなぁ』
電話を切ってから舌打ちする。
俺達が若い頃は、子供の授業参観があるから仕事を休むなんて、口が裂けても言えなかった。親が死んだレベルの理由が付いて初めて、舌打ちされながら休暇の許可が出ていたくらいだ。
昔はそれが普通だった。そうした環境で旭らは新人時代を過ごした。しかし今はそれがパワハラという犯罪になるらしい。
今の奴らは恵まれている―――― こう言うと若者からは老害呼ばわりされるのだろうが、実際そうなのだから仕方がない。だってパワハラされても、それで損害賠償という名の金がもらえるんだから。それなら俺たちが若い頃に数年間も受け続けてきたパワハラの数々は、誰がいくらで補償してくれるのだろう?
「え~と、こっから福岡まで順調に行って九時間くらい。荷下ろし先に行って荷物を下ろすまでが二、三時間。そっから会社に帰って四ツ星行きのトラック用意して……くそっ、マジでギリギリじゃねえか!」
ギアを入れ替え、アクセルを踏む。
シャワーもモーテルも夢と消えた。旭軒高、徹夜決定。
上司や老人の、やらかしの尻ぬぐい。
若者が家族の幸せを謳歌するために、代わって徹夜仕事。
自分たちが当たり前にされてきた事を今の若者にしたら犯罪。そして自分たちがされた分は、上の世代から一円も補償されない。
ただのやられ損。不遇の世代。貧乏くじ世代。
これが、ロスジェネ世代というものであった。
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