第75話

 ページをめくる。

 そう表現するが、実際に紙をめくるわけではない。私の生まれた頃には端末に指をスライドさせる必要もあったが、今となってはそれすらも不要な行動だ。

 ただ画面の端を見ながら瞬きをする。それだけで、次のページが表示される。

 科学の進歩を感じる。きっとこの先、ここの子供達が大人になった頃には、今以上の技術が生まれていることだろう。それとも、作る側かもしれない。

 まあ、私がそれまで生きているかは分からないが。

 ページをめくる。

 書かれているのはなんてことない内容。

 『核パスタと広域影響の相関性、及び取り込まれた情報』などという科学に偏ったものだが、暇つぶしには丁度良い。

 

「アロ兄ちゃん。今度はこっち」

「ダメっ、お花の方が絶対にいいもん」

「てすかとりぽか……がいいです。アロさんも、いいですよね」


 とはいえ、集中しているのは文字列ではない。

 意識のほとんどは、聴覚から得られる情報に向けられている。

 脳内に浮かび上がるのは、エコーロケーションで知覚した部屋内部の構造と、何処か浮かれた動きをする子供。そして、オロオロとして困っている様子のパトリアだ。

 視線は向けない。直接見れば、きっと空気が悪くなってしまう。

 いや、それすらないかもしれないが、可能性はなるべく排除しておきたい。


「おりがみ、なくなちゃった」

「まだあるよ。ほら、ここに入っている」

「英語、が……聞きたい」

「外で走ろうよ。いい天気だよ?」

「アロ兄ちゃんはいんどあはだから。だよね?」

「ye、yeah」

「ほらね!」


 日本語が分からないなりに良く相手をしている。

 言葉が通じないのに意味を汲み取れる子供達もなかなかのものだ。私だったらあそこまで積極的にはなれない。

 そもそも、興味がなければ話掛けることすらなかった。

 協調性のない子供だったから仕方がない。とにかく、自己主張が苦手だったのだ。

 いやそれも間違いか。自己主張が苦手なのではなく、私はただ自分というものに興味がなかっただけか。


「(おい、聞こえてるだろ。助けろ)」


 何やら空気が吐き出されるが如く小さな言葉と、恨めしそうな目線が飛んできている気がするが、きっと気のせいだろう。そうに違いない。

 というか、この状況を見て私に何故助けを求めるのか。私の周りには人っ子1人いないのが見えているだろうに。

 まさにエアポケット。私がいかに異常な異物であるのかが表れている。


「(読んでるふりするな。とにかく助けろ)」


 読んでいるふりではない。しっかりと読んでいる。

 そっちこそ最初はあった笑顔が消えているようだが、子供達への配慮は何処に行った。やるなら徹底的に貫き通さなければ。

 つまりは、子供達に合わせて楽しんでください、というわけだ。

 私にできることは何もない。自分で解決してほしい。


「(シルビィを差し向けるぞ)」

「…………」


 端末から頭を上げて、パトリアに目線を合わせる。

 『本気か?』という意思を込めて可能な限り表情を操れば、『本気だ』という表情が返ってきた。

 シルビィ。つまりはシルバーナ。

 あのスクープを見つけるためだけに、はるばる日本まで私達を追いかけてきた、執念だけでいえばヒグマにも匹敵しそうな自称凄腕記者。

 そして、私が苦手とする人間の1人だ。

 会えば空気が重くなる北方神父とは別の方向性で、シルバーナは私の天敵といえた。

 真性悪魔たる私を恐怖させる人間など、今現在の希少価値でいえばダイヤを超えるかもしれない。まあ自然物のダイヤモンドは品質が悪ければ、価値すらつかないことが多いのだが。彼女は希少な価値あるダイヤモンドというわけだ。

 いくら価値があっても、それは私の価値観にはそぐわないが。

 そばにいるのは構わない。

 だがターゲットにされるのはごめんだ。

 そしてパトリアならば、彼女の指向性をある程度操作できるだろう。彼自身がターゲットの1人なのだから。


「……はあ」


 仕方ない。助けるとしよう。

 満足気な顔をしているパトリアに若干納得がいかないが、私は端末を置いてパトリアに歩を進めた。

 …………周りの子供達が離れていくのを、視界の端に映しながら。





     †††††





 食器を持って外に出れば、外は茜色に色づいている最中で、夜にはまだ遠いようだった。

 建物の屋上には小暑という文字には少々相応しくない、暑い空気が残っている。風もあるにはあるが、湿度の高い生暖かい風だ。体を冷やすことは期待できない。

 まあ、私にはあまり関係のない事象でしかないのだが。

 ベンチに腰を下ろし、スプーンで皿の中身をすくう。

 口に入れればスパイスの香りが鼻に抜け、甘い味付けが舌を刺激した。とろみはなく、サラリとした舌触りだ。

 

「ここのカレーは、変わりませんね」


 確か、市販のルーにチョコレートを混ぜているはずだ。

 院長がここに来る前、何かの本に影響されて始めたと言っていたか。

 甘いものが好きな私には丁度良い味だ。きっとエマも気に入るだろう。それとも、『甘さが足りない』と感じるだろうか。

 それでもエマは空気を読むのが上手いから、美味しいと言うとは思うのだが。


「ご馳走様でした」


 食器を脇に置いて、風景に意識を向ける。

 建物に隠された太陽からの光の残滓、そして生まれた影。人工物に蓄えられ放射される熱と、それを奪う空気の流れ。昼間よりも落ち着いたざわめきと、人の生活音。

 浪川区とはまた違う世界。

 あそこを手入れの行き届いた静謐な灰色の森と例えるならば、ここはさながら奇岩の散らばった草原だろうか。

 機械的な騒々しさだけではなく、人の存在が確かなものとして根付いている。

 私が育った街だが未だに新鮮さを感じるのは、きっと私がその『人』の中に入っていないからだろう。


「……私は、人間じゃない」


 そう、私は私を人間と認めていない。

 だからこの光景を受け入れられるのは、きっとずっと先のことだ。

 あるいは、来ないかもしれない。

 そうならなければ良いとは思っているが、未来のことなど私には難し過ぎる。せいぜい努力するのが精一杯だ。

 と、そんなことを考えていた時、扉越しに階段を上がってくる音が耳に入った。


「なんだ、こんな所に居たのか」

「ルシル」


 落陽の中でも、なお美しく鮮明な魔性の美貌。

 一挙一動の全てに鮮烈な空気を伴った、魔術世界におけるただ1人の頂点へと至った者。

 ルシルは私には届かない夕日に染まりながら、フェンスに寄りかかった。

 

「ここに来たのは二度目だが、相も変わらず平和な場所だな。尤も、お前にとってはどうかは知らないがな」


 嘲るでもなく、ただ話すためだけの言葉。

 少なくとも、負の感情は込められてはいなかった。


「平和です。ずっと続けば良いと思うほどには」


 それを聞いたルシルは一瞬だけ目線を私に向け、鼻を鳴らした。きっと、私の答えはつまらなかったのだろう。

 気だるそうにフェンスに背中を預けたルシルは、胸ポケットから箱を取り出した。


「ここではタバコは吸ってはいけません」

「チッ、面倒な規則だ」


 ルシルは素直に箱をポケットに戻すと、出入り口に向かった。

 そして扉をくぐる寸前で立ち止まり、一言残していく。


「——————」


 扉が閉まり足音が消えた時、そこにはある程度の静かさと孤独が戻っていた。


「……ええ、分かっています」


 ポツリと溢れた言葉は、紫の空へと消えていく。

 その様はまさに、ルシルが残した言葉の通りだった。

 だからそこに悔しさも怒りもない。あるがままの現実が、私に伸し掛かっているだけだ。

 

「…………」


 丁度火が落ち黄昏時に差し掛かった頃。扉をノックする音が響いた。

 本来外からするであろうノック、それを内からするのは珍しいことだろう。基本的に誰もいないし、誰がいても分からない屋上ならばなおのこと。

 しかしノックをした相手を分かっている身としては、彼が私がいると確信していることを理解していた。


「どうぞ」


 返事に応じて扉が開かれる。

 闇が広がるこの時間帯でも、彼は迷わず私へと視線を向けていた。

 それはつまり、彼がここの構造と私について良く理解していることを示している。そして何度も同じ行動を繰り返しているであろうことも。


「すまないね。君ならここにいると思ってね。この時期だ、あまり外にいては体に悪いと思ったのだが」

「院長。そう思うのならば貴方自身の健康をおもんばかっていただきたいのですが」

「やっぱり若いね。昔は『おもんぱかる』と言ったんだ。今は『おもんばかる』の方がスタンダードだがね」

「話が噛み合っていません。まだ暑いですから、中にいた方が良いと思いますが」

「言い直さなくても分かってるよ。体調には気を付けてる。たまにはこうした方が丈夫な体になるんだ。それに今日は雲もない。良い星が見えそうだったのさ。君には、今の空は紫や黄色に見えているのかな?」


 そう言って彼は柔らかな笑みを浮かべた。

 私が物心ついた時にはまだ黒かった髪は、今は全て白くなっている。しかし手入れは怠っていないようで、乱れた印象は受けない。

 色素の薄い茶色の目は、黄昏時には黄金色にも見える。

 昔と変わらないグレーの服と柔らかな笑み、そして纏う空気が、私に院長の存在を強く感じさせた。

 私の人生で妹の次に親しく接した院長。

 私がここにいる時、彼は何回でもここの足を運んだ。


「この街で見える星は、そこまで多くはないでしょう」

「君ならば見えるだろう? その目ならば、僕達には想像もできない光景が見えるのだろうね。少し羨ましくもあるが、まあ僕はこれで十分だ。黄昏色の薄明の中、僕は想像を膨らませるんだ」

「ずいぶん、してきだな」


 幼い頃特有の高い声が、院長の後ろから発せられた。

 気付いてはいた。だが何故院長が連れてきたのかは分からなかった。だから話題には出さなかったが、どうやら私に用があるらしい。

 院長の背中から……と言うより太ももから顔を覗かせたのは、幼い女の子だった。

 

斗亜とあ。彼女が永君だ。ほら、挨拶からだよ」

「しっている。いんちょうはそこで黙していろ」


 見た目の割には、斗亜という幼女はしっかりとした言葉を操っていた。

 しかしまあ、院長相手に随分ふてぶてしい態度をとるものだ。この施設では珍しいタイプだろう。

 

「ふむ?」


 私の下まで来た斗亜は私の顔に半眼を向けたが、それでは見えにくかったのか、小さな手をちょいちょい動かして顔を近づけるように指示してきた。

 なんというか、言動全てがふてぶてしい幼女だ。

 何故か武士をイメージしてしまう。

 

「ふむ」


 ペタペタ触っていた私の顔を放すと、斗亜は満足したかのように息を吐いた。

 そのまま私の隣に座ると、私の手をいじり出した。

 されるがままの私だが、正直慣れているから何とも思わない。

 子供と呼べるまでに成長した人間には避けられる私だが、赤ちゃんには何故か好かれるのだ。施設にいた頃も、赤ちゃんが泣くと呼び出されたものだ。

 しかし、斗亜ほど成長した子供にこういった行為をされるのは、なかなか珍しい。初めてかもしれない。


「おぬし」


 私の手をこねくり回していた斗亜は、私の目を真っ直ぐに見て言葉を発した。


「ついこないだまで、こうふくを知らなんだな」


 一瞬、息を忘れた。


「みごとなからだよ。ひととは思えん。だが、ひとにはぎこちない。かかわるのが、ヘタだな」


 半眼で表情の乏しかった幼い顔、その口元に、小さな笑みが浮かんだ。


「まこと、おさなご。友のひとりも、できんとはな。いつまでもそうでは、みうしなうぞ」


 それだけ言うと、斗亜は元の表情に戻ってしまった。

 私はただ、斗亜の眠たそうにも見える半眼に、目を向けることしかできなかった。

 何故この幼女は、そこまで私を理解しているのか。

 当てずっぽうというではないだろう。彼女の言葉は、あまりにも確信に満ち、そしてはっきりとした輪郭を持っていた。

 何よりも、私がそれを正しいと認めていた。

 それはすなわち、斗亜の言葉が確証を持って語られた証拠と言えるだろう。


「こらこら、そんなことを言って怖がらせてはいけないよ」


 ふてぶてしい顔で私を注視する斗亜に、院長がそう言って諌めた。


「む、いんちょう。しかしな、このおさなごは、いっとう。しかしでもある」

「それは喜ばしいことだ。斗亜のお眼鏡にかなった人物は少ないからね」

「うむ、ならばこうするのがよいのだ。かおあわせとしては、じょうじょうであろう」

「多分、永君は君が何を言いたいのか分かっていないよ」

「なんと」


 斗亜が再び私の顔をまじまじと見る。

 相変わらず半眼のふてぶてしい顔だが、そこには探るような色があった。


「わかっておらんか?」

「……何をでしょうか」

「ほら、こう、うんめいのような……」


 運命…………

 それは、私が辿る道筋に対するものだろうか。

 『見失う』彼女はそう言っていた。間違いなくそうなるという思いが、言葉には込められていた。

 何を見失うかは分からない。

 しかし、斗亜はそれが見えているのだろうか。私が何かをどうやって見失うかを、知っているのだろうか。


「……運命。それは、私が何かを間違い、そして失うことでしょうか」


 心当たりならば、ある。

 エマに桜華、パトリアやシルバーナ、親しい人間との関係。

 壊すであろう幸福と、奪ってしまった望み。応えられない期待と、失望させる現実。私が齎す、『破壊』という結果。あるいは、破壊してしまったという事実。

 私は、異物でしかない。誰かを害する、最悪の化け物だ。


「うう〜、つたわってないではないか」

「君は少し、自分の感覚と他人の感覚のずれを考えた方が良いよ」

「いんちょうは黙していろ。しかしどうすれば……」

「真正面から言うと良いよ。真っ直ぐな言葉は、存外響くものだ」

「む、そ、そうか? いんちょう、いいことをいうな」


 斗亜が私の腕を引っ張った。

 気付くと頭を下げていた私は、顔を上げて彼女と目を合わせる。

 半眼だが、斗亜の瞳は黒々としながら、キラキラと光を反射していた。

 綺麗だ。そう思った。

 これ程綺麗な黒目は、初めて見たかもしれない。

 一見眠たそうな顔は、その実しっかりと思いを覗かせている。

 今見えているのは……何やら真っ直ぐな思いだ。それが何かは、まだ分からないが。

 しかし、斗亜が何かを言おうとしているのは分かる。

 黙して待つ私に、彼女は一つ頷く。


「おぬしは、わがもとにいるべきだ」


 斗亜が口にしたのは、そんな言葉だった。

 呆気にとられる私をよそに、院長が声を殺して笑っている。


「ふふ、告白かな?」

「あるいみ、そうなる」

「君は要点と重要な言葉の変換を考えると良いよ」

「ふむ?」


 「そうさな……」と考える斗亜は、次に目を合わせると、何処か平坦な声で告げた。


「永とやら、わがもとにいろ。おぬしがほしい」


 院長が噴き出した。

 柔らかくも低く響く笑い声が、屋上にこだまする。


「む、なにがおかしい」

「いや、すまないね。だけどまあ、斗亜は頑張ったよ」


 院長は皺だらけ手を斗亜の頭を乗せ、優しく動かす。ただ慈しみ、宥めるための動かし方。彼が斗亜に向ける愛情が透けて見える。

 尤も、斗亜の方は変わらず半眼でふてぶてしい表情をしているが。それでも嫌ではないのだろう、払いのけたりはしない。

 優しい光景というのは、こういうものをいうのだろう。


「すいません。斗亜さんは何を伝えたいのでしょうか」


 しかし、2人の世界に私だけが着いていけない。

 彼女は結局何が言いたかったのだ。

 まさか、結婚を迫ったわけではあるまい。


「ことばどおり、だ」


 結婚か? 結婚なのか?

 それとも従属を求められている?

 生憎、私はそれに応えられない。

 私が悪魔である限り、誰かの下に降ることは許されないのだから。


「難しく考える必要はないよ。斗亜が言いたいのはとっても簡単だからね」


 院長が優しく言った。

 簡単……つまりは、どういうことだろうか。


「言ってもいいかな?」

「かまわん」


 斗亜の頷きに、院長はまた柔らかく笑う。

 そうして口にした言葉を、私はすぐには理解できなかった。


「斗亜はね、と言っているんだ」


 予想外の場所から放たれた魔球。私にとって『友達になりたい』という言葉は、それに等しい。

 初めて顔を合わせたにも関わらず、私と友達になりたいと言った人間がいることが、私は信じられなかった。

 引き攣った表情を斗亜に向ければ、彼女は満足気に腕を組んでいた。


「わがほうゆうとなれ、永。ともにあゆもうぞ」


 どうやら、聞き間違いではないらしい。


(ああ、星が綺麗。まるで、現実ではないようだ)


 見上げた空の天球を見ながら、私は現実逃避気味にそんなことを思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る